雪とあなたと傘の下
窓から見える白いものは、時間と共にだんだんと強さを増していた。
ときおり風の具合か舞う量が強くなって元に戻り、そしてまた舞う。
「……アンタなんで傘持って無いのよ」
同じサークルの彼女はこの雪の中、傘も差さずに歩いてきて。
大学の建物から出たところでばったり出会ってしまった私は、ぎょっとなりながら声をかけた。
「持ってこなくても大丈夫かって思ったんだもん」
「大雪になるかもって予報出てたでしょ……」
昨日の夜も、今日の朝も、天気予報ではお決まりの言葉が並んでいたっていうのに。
「大丈夫大丈夫、高校時代はこれくらいの雪、傘も差さずに帰ったもんよー」
のんびりと言い放つ彼女は本気でそう思っているらしく、その場でくるりと回って見せた。肩までの髪がふわっと揺れた。
はあ、と一つため息をついて歩き出したわたしに、彼女が首を傾げる。
「あれ、どこ行くの?」
「あんたこそ、どっち行こうとしてるの?」
「バス停あっちだよ?」
彼女が示すほうにはキャンパス唯一のバス停がある。そこから丘の下の駅までバスが出ているのだが。
「この雪でバスなんていつ来るかわかんないわ。歩いたほうがいいに決まってるでしょ」
「えー、こんな雪でえ?」
不満の声をあげる彼女。
彼女にしてみればこんな雪かもしれないが、生まれも育ちもこちら側の私からすれば、こんな程度じゃ済まない。
しかもまだこれから雪のピークが来るらしいというのに、すでに歩道まで白く積もっている。ああバイトが無い日でよかった。と胸をなでおろしていたくらいだ。バイト先までは電車で二駅。今はまだともかくこのあと乱れるのは目に見えているし、雪でびちゃびちゃの道を駅から部屋まで帰るのも嫌だ。
「じゃあさあ、一緒に帰ろ」
「バスで帰りなさいよ。帰るつもりだったんでしょ」
「でもいつ来るかわかんないんでしょ?」
「行ったらすぐ来るかもよ。わたしは待ちたくないだけ」
ついでに言えばめったに無い雪景色だし、まだ暗くもないから見ながら帰りたい、という我ながら子供みたいにテンションが上がっていると自覚はある。自覚はあっても子供っぽいとか言われたくはないので、これは言わないでおくけれど。
「駅までの道わかんないから教えてよ」
「何ヶ月通ってんのよ」
「だってずっとバスだし」
バスでも道順はわからないかとか、色々言いたい言葉はあった気がしたけれど、彼女の顔を見ているとその気も失せた。
ほら、と傘の片側を上げてみせると、彼女はきょとんとして。
「傘、入れてあげるからさ」
「えー、だって」
「髪から冷えるわよ」
しばらく間があったあとで、
「しかたないなあ。入ってあげますか」
* *
白さに塗りつぶされ始めた、いつもと違う、いつもと同じ景色。
緩やかに下る坂道の歩道を並んで歩く。触れるか触れないかの距離にある肩を、嫌でも意識する。
大き目の傘でよかった。と思う。いや、そもそも小さい傘だったら彼女を入れようと思っただろうか。
こちらの内心になど興味なしという態度で、彼女は傘の下から降る雪に手を差し出して言う。
「雪国育ちなめんなー」
「雪国と東京郊外一緒にしたら駄目よ」
それを言われれば、こっちは雪に弱い東京なめんな、である。
そう、彼女は雪国の生まれ育ちだ。けれど、彼女の故郷で傘を差さずに行き来できるのは気温が雪が水になるよりも寒いからで、こっちでそれをやると溶けた雪で服が悲惨なことになる。服だけじゃなく靴も、ついでにいえば顔もだし、それとせっかくの彼女のつややかな髪にも。
だから小雪でも傘は差す。むしろ雨と同じくらいに思え。足元には気をつけろ。特に大学の入り口のタイルは。
そんなことを言っていたら、くすりと彼女に笑われた。
「何か仰りたいことでも?」
「んー、なんていうか、お母さんみたいだなって」
「何言ってんのよ……。わたし、アンタのお母さんじゃないし」
いったん止めた足をもう一度動かして、
「わたしだってお母さんとあんなことしないし」
視界外からの思わぬ奇襲の一撃に、踏み出したその一歩目が、雪を踏んでずりっと滑った。
「ぎゃあっ」
濁った声をあげて、手近にある一番つかみやすいものに反射的に体ごと預けてしまい。
がしり、とつかみかかった相手は、ふらつきもせずにそれを受け止めてくれた。
「あははは」
なにが面白いのか彼女は笑い声を立てる、いやわたしの醜態か。
「なにが面白いのよ」
「だって、いろいろ言ってたわりにぎゃって転んだんだもん」
かああ、と擬音が出そうなくらいのスピードで頬が熱くなる。
そう言いつつも、一歩先に足を進めたはずのわたしを抱きとめられる位置にいたのは。
ほとんど背格好の替わらない同年代女子を背後から抱きとめて小揺るぎもしない彼女は、やっぱり自分でも言うとおり雪に慣れているのだろう。
彼女は耳を寄せてくると、耳元でささやいた。
「思い出しちゃった?」
まさにそれをいやでも――嫌じゃないけれど――思い出させるような言葉を口にして人の足元をさらって。そうしておいて彼女は、わたしの責任じゃありませーん勝手にこの人が転んだだけですー、みたいに言いたそうな顔で笑う。
頬がもう一段熱くなる。別の意味で。
右手に持った傘が傾いて、雪がぱさりと落ちた。
「――っぷいし」
「えっ、何いまの」
異音を検知。
抱きかかえられたせいで自分より上になっている彼女の顔のあたりからその異音はしたような、気がする。
「……くしゃみ?」
「ちょっと寒いねえ」
ヘラヘラと笑う彼女のその顔に、わたしは脳裏のひらめきを確かめるために手を伸ばす。
具体的に言えば、半身になって抱えられたままの格好から、つかんだままの腕を上に昇っていって、その頬に触れる。
――ひんやりと冷たい感触が、指先にあった。
気付けば、つかんだ袖もやっぱり少し水分を含んでいて。
わたしはつい、言葉を口にする。
「暖まっていきなさいよ。……お茶くらい出すから」
「ありがとうー」
えへへ、と、同じ笑顔で彼女は笑った。
* *
電車が止まったのは、そろそろ彼女を送り出そうか、と身体を起こした寸前だった。
気だるい頭のまま、念のために情報をチェックしたその瞬間に、運転見合わせのメッセージが配信されたのだ。
「あちゃー」
「あちゃーじゃないわよ」
同じような姿勢で寝そべったまま、だるんとしたその態度のままで、ほわりと吹き上げるように口にする。
口では言いつつも深刻でも何でもなさそうな彼女の気楽な言葉に、わたしはピンと来た。
「……狙ってた?」
「何を?」
けろっとした顔で彼女は聞く。その表情でわかる。わかってしまう。
冷えるほどの距離も時間も経っていないはずなのに。実際わたしはそこまで寒くは無かったのに、彼女だけ冷えていた理由。
いくら寒さに強い(自称)と言ったって。
「……わたしが出てくるまで待ってたんでしょ、あの格好で」
「えへ」
悪びれもしない。
「一緒に帰りたくて」
「そのあとも、じゃないの……」
「あはは、バレるよね」
やっぱり悪びれないその顔に。
こっちも一緒に帰りたくて探してたんだ、なんて打ち明けるのは負けた気がするから、言わないでおく。
気持ちがいいとか、悪いとか。
肝心なことの一つも言わないままで、机の上に放り出されたままの部屋の鍵を手にとって立ち上がる。
「どこ行くの?」
「コンビニ。――行くでしょ?」
「置いてかれても困るなあ」
「……傘、一個しかないけどね」
言わなくてもいいことを言い過ぎるのが、わたしのわるい癖なので。
雪が積もったのでテンション上がって数時間で書きました。雪は好きです。
二日置いてテンションが下がったところで投稿します。