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短編いろいろ

願わくは

作者: せらひかり

願わくは


 教室のあちこちで椅子が音を立てている。登校してきたばかりの石田は、自分の席に着いてホームルームが始まるのを待っていた。

 高校の教科書は人によって使われ方が様々で、全くめくられずに美しい姿のものもあれば、使ったページだけ折れたもの、あらゆるページがくたくたなものもある。

 自分の教科書は、使用済みのページだけがよれている。予習もあまりしないけれど、テスト前だけは何度もめくる。気弱そうなのに一夜漬けなのかと、クラスの別れた友人は笑うけれど。

 ふと、教室が静まり返った。振り向かなくても分かる。花宮艶子。伏せがちな目、さらさらした黒髪、白すぎる首筋、制服からはみ出した指先は爪ばかりがほの赤く色づいている。

 思わず見てしまう、清楚で、けれど妖艶な。

 このクラスで、唯一の、捕食者。

 彼女は、吸血鬼、と呼ばれる者だ。


 今、この辺りにいる吸血鬼は、血だけで生きている種族ではなくて、他のものも食べる。ただ、嗜好的に……精神的に、離れがたく、飢えてしまうのだという。血が、ないと。

 人の臓器に似ているという理由で、豚が飼育され、吸血鬼の人権のために提供されるらしい。

 概ね、人を襲いたいという者はおらず、平和、なはずだった。

 人間の側が、思わず恐れてしまうだけで。

 艶子の視線が撫でるだけで、クラスメイトが息をひそめる。順番に食べられたことがあるみたいに、これからそれが起こるみたいに。

 石田も同じで、だから席替えで隣になってから、視線が背後から来なくなったので、少しだけ楽になった。真後ろから狙われるより、隣の方が、マシだった。

 ほとんど、艶子は話さない。色白で細く、病弱そうに見えるし、別のクラスに友人がいるだけで、このクラスでは話す用事もないようだ。(友人、というのはふわふわしたウサギみたいな小さい女子だった。あまり恐怖心がないタイプの人間で、艶子やその兄弟に見つめられても気にしない。あれは災害時に危機に気づかず真っ先に死ぬタイプだと石田は思う)

 教師が来て、ホームルームが始まる。石田は前を向いて、できるだけ、隣席のことを忘れることにつとめた。

 それなのに、今日はなんて日なんだろう。

「ねえ、石田くん」

 授業中、ふいに話しかけられた。

 右側。

 艶子の座る位置から。

 肌の表面が、制服で隠れた位置さえも、ぶわり、と総毛立った。

 何だ、今の。

 甘く、柔らかく、艶子の声が、耳朶に響く。

「ねえ、お願いがあるの」

 石田は、ぱっとしない自分の何が、彼女に求められているのか、走馬灯みたいに必死に考えた。

 特にない。

「消しゴムを、忘れてきたの。貸してくれる?」

 艶子の言葉は、クラスメイトとしては、それほど異様なものではなかった。

 ほっとする。石田は、予備の消しゴムを取り出した。

「二個持ってるから、今日は返さずに、そのまま使ってていいよ」

 たったそれだけを言うのに、声はみっともなく震えて、冷や汗が出る。

 艶子から伸ばされた白い指先に、石田はそっと消しゴムを渡した。

 触れた指先は、ぞっとするほど冷たくて。

 気持ちが。

 いいのか、悪いのかも、分からなかった。


 教室で、廊下で、階段で、出くわすたびに、石田は震えた。艶子が何をしたという訳でもない。ただ、ふと、艶子がこちらに気づいて笑うようになった気がする。消しゴムを貸すまでは、そんなことはなかった。なかった、はずだ。分からない、彼女の視線の意味は、優しく、柔らかく、愛情深いように見える。それでいて、普通の、人間の友人たちとは違う。

 視線が、強すぎるのだ。

 愛や恋より、得体の知れない……喜色の浮かぶような笑み。

 翌日、艶子が消しゴムを返してくれた。当たり前みたいに、お礼よ、と、小さなチョコレートが添えられていたけれど、石田は震えてうまく受け取れなかった。

 特別に、名前を、覚えられる恐怖を、たぶん、吸血鬼を知る人なら分かってくれるだろう。

 チョコレートは体温で柔らかく崩れ、石田の掌を甘く汚す。

 あら、と艶子が微笑んだ。ハンカチで石田の手を拭こうとする。

 石田は、艶子の唇の向こうで、舌がちらつくのを見た。喉の動きも。

 怖い、こんなに人が多いところでは何も起きないはずだ、分かっている、でも。

 艶子の唇が、チョコレートに近づく。

 あぁ。

 舐めとられる予感で、体が震える。

 もういっそ、食べられてしまいたい。

 人間の血に嗜好があるひとびとは、たいてい、他の仲間が食べていない者を食べるという。自分が彼女のモノになってしまえば、どこへ行っても、何も恐れなくていい。

 恐れるのは、彼女のことだけで済む。

 結局彼女はハンカチで拭いただけで、石田が恐れるようなことは、何もなかった。

 決定的なことがあったのは、その日の午後だ。

 体育の授業中、石田は躓いて膝に怪我をした。大した傷ではないが、絆創膏だけもらってこいと言われ、一人で保健室まで向かった。

 この歳で転んで膝を擦りむくなど、かっこ悪いにもほどがある。しかも、思ったより痛い。

 しょげながら保健室の扉を開ける。

「すいません、絆創膏がほしいんですけど」

 保健室の独特のほの白さ、薬品の匂いが、何となく体にまとわりついてくる。

「先生、絆創膏ください……いないんですか、」

「石田くん」

 違う声がした。

 ここで出会うとは思わなかった。

 心臓がどくりと跳ねる。

「先生、しばらく戻らないから。怪我?」

 体育の授業には出なかったのか、艶子が、制服姿でこちらを見ている。

「どこを怪我したの?」

 思わず素直に傷口を見せる。

「あら、それなら」

 彼女の指先が、絆創膏をつまむ。

「先生が戻るまで、ちょっと貼って待ちましょう」

 彼女が、近づいてくる。薄い唇が笑みを浮かべている。視線は、石田の膝から離れない。

 異様にまっすぐな光をたたえ、つやつやとして、美しい目。

 いっそ優しささえあるような……。

(食べられたい)

 じん、と胸の中で何かが疼く。

 吸血鬼が人間を食べることは、法律で禁止されている。例外なのは、病的に痩せ細った、人間の代替である豚の血ではもたない吸血鬼の場合。それ以外は原則禁止。嫌がる人間を襲っても、同意があった、と、言い張る連中がいたためだ。

 でもこれは、事故みたいなものじゃないだろうか。

 膝には擦りむいて流れる血があって。

 彼女が。

 見て、いるから。

 彼女が近づいてくる。

 不思議と、何の匂いもしない気がする。

 自分の心臓の音がうるさいのに、彼女の爪先が踏む、床と擦れる足音だけははっきりと聞こえた。何だったら、あの黒髪が、さらりと揺れて、紺色の制服の肩に流れる音が聞こえるくらい。

「石田くん」

 私、ね。

 艶子が、笑っている。

「好きな、ひとがいるの。そのひと以外、望まないから、安心して」

 石田が吸血鬼を恐れていることを、彼女は知っていたのだ。

 いっそ食べられたがっているくらいなのに、彼女は絆創膏を貼り付けた後、無慈悲に背を向ける。

「貴方にも、他の人にも、興味はないの。きっと、普通のひとと同じくらいの、興味しか」

 その、白い指先に、一点の赤色がある。

 血だ、と気付く前に、彼女の舌がそれを舐めた。

 うっとりと、彼女が笑う。

「なぁんにも、興味はない」

 ……あまり知りたくなかったが、これほど説得力のない言い方も、ない。

「あら、せんせ」

 艶子の視線が遠のいた。扉の向こう、廊下にいる人と会話する。

「何をしてる」

「特に何も。お腹が空いて……あぁそうだ、お客さんが待ってる、ほら」

 戻ってきた先生は、面倒そうに石田の絆創膏をはがして傷を見て、また絆創膏を貼り直した。

 そして、石田は、艶子と先生両名から、以前より優しく見つめられて、保健室を追い出された。


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