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新たな地で新たな日常をスタートさせ、順風満帆とは言えないまでも、目立った問題もなく平凡な日々を送っていた。
このまま穏やかな日常が過ごせて、高望みしないので親しい友人の一人くらい出来ればな、と、ささやかな願いを抱いていた――のだが、事態が一変したのは転校して一週間が経った日であった。
暑い陽気が訪れはじめた七月中旬のこと。
その日は何も変わらない朝だった。
軽快な鳥の鳴き声や、部屋に差し込む優しい陽。冷たい空気の中にも、どこか夏を感じさせる温もりが混じる様子も先日同様。
自宅前に広がる田園も青々として実り、トンボが稲の上を旋回しているところまで同じだ。
そのどれもが昨日、一昨日と何一つ変わらない退屈なものであった。
唯一、変化といえるのは、母がいつもより早く出社した点だけだろうか。
リビングには朝食とともに書き置きが添えられていた点も、変化といえば変化かもしれない。
『今日は仕事が早く終わるか、遅く終わるかわかりません。遅くなるようであれば、夕食を先に食べていて下さい。お弁当は鞄の中に入れてあります。無理をせず頑張りなさい』
珍しい事をする母に少し気恥ずかしさを感じながらも、それに元気づけられて学校へと向かった。
何の変哲もない日常は、俺が学校に到着するまで続いた。
そして――到着早々、事態が急変する。
普段なら賑わいを見せるグラウンドが静まり返っており、この光景は俺に驚きと焦りを同時にぶつけてきた。
「まさか遅刻か?」
焦るも、携帯電話がそれを否定してくれた。
午前八時十五分。
ホームルーム十五分前だ。
そんな時間の猶予があるにも関わらず、グラウンドは静寂であった。
人が見当たらないばかりか、校舎内から物音一つ聴こえない。
時間に間に合っているとはいえ、一切の生徒が見当たらないと不安は隠し切れない。
開放された校門をくぐり、脇目もふらずに下駄箱向かうと、上履きに履き替えて三階へと駆け上がる。
息せき切って廊下を走っていると視界の端に二年一組の教室内が映り込んだ。
駆けながら首を捻って教室内をみると、そこには誰一人として生徒の姿は見当たらない。
移動授業なのかと思いさして気に留める事なく、その足をわが教室である二年二組へと向ける。
そして扉を緩やかに開け放ち、教室内を見回して俺は唖然とした。
「あ、あれれ? 日向だけか?」
たしか、日向花梨という名の女子だ。
転校初日に売店の場所を聞いてそっけなく答えてくれた愛想のない女子である。
そのクラスメイト一人が広々とした教室内で席に座って本を読んでいた。
彼女は俺を一瞥するとすぐさま視線の先を本へと移す。
無視だ。
まあいい。
誰もいなくて焦ったが、無愛想ながらも花梨がいると知れて安心したぞ。
最後列に位置する自身の席へ座ると、壁にかかる時計に目を向ける。
午前八時二十分。ホームルームまで残すとこ十分だ。
普通であれば賑やかな教室内だが、今は水を打った様に静かだ。
そればかりか普段なら他のクラスから聴こえるざわめきも、今は衣擦れの音すら聞こえてこない。
全校集会でグラウンドに集合してるのかと思ったが、先ほどそこを突っ切ってきたのでそれはない。
窓辺へと向かい体育館を見やるも、扉は開放されているが人の出入りはない。
「なぁ、日向」
花梨に振り返り、俺はある事に気づかされた。
この女、角の生えた赤いお面を横にずらしてかぶっている。コスプレか?
「今日って何かあるのか?」
「……」
まぁた無視だ。
もしかして俺、嫌われてんのかな?
転校初日の場所の尋ね方が悪かったのかな?
それとも極度の人見知りなのだろうか?
分からんが、少なくとも俺は花梨に疎んじられる様な事はしていないと思うのだが。
そんな疑問を渦巻かせていると、彼女は俺へと向くや、ボソボソと呟いて返答をよこした。
「何かあるってどういうこと?」
ハッキリと喋る声は、おそらくすごく可愛らしい声に思う。
今はそれが叶わないが。
「他の生徒が見当たらないからさ。どこかの教室に集まってんの?」
「あぁ……」
と呆れたような声音を漏らした花梨は、
「今日は休みよ。学校」
「え、うそ?」
「本当よ」
言った花梨は前へと向き直ると、机の上に広げている本に視線を落とした。
流石にガッカリしたね。
しなくてもいい早起きをして、自宅から徒歩三十分もかけて登校し、律儀にも鞄の中には弁当をこさえているんだから。
参った。
休みだと知っていたら今頃、布団の中で寝返りをうっている頃合いだぞ。
大きく嘆息した後、席に戻ると溶けたチョコレートの様に机の上に身体を伸ばした。
「どうしようかねぇ」
独り言を呟くが、どうもこうも学校が休みなのであれば帰宅するしか選択肢はない。
ここに留まっても授業が始まるわけではないし、自習をするほど出来た人間ではない。
とはいっても、自宅へ帰るにしても母さんは早く帰るかもしれないと書き置きにあったからどうしたものか。
母さんと鉢合わせようものなら、グチグチと怒られるだろうしな。
じゃあどこかへ遊びに行って時間を潰そうかなと考えたが、この村の事なんて何も知らないから遊びに行きようがない。
そもそも娯楽が存在するのか怪しい村だし。
「どうしようかねぇ……」
またしても誰に伝えるわけでもなくそう漏らし、首を捻って本を読みふけっている花梨に視線を移した。
こいつは学校が休みである事を知っていたのだが、どうしてここにいるんだろうか。
もしかして被っている面が関係しているのか?
お祭りでもあるのかな?
「なあ日向」
「……なによ」
本に視線を向けたまま答える花梨。
まるで話しかけないでと言いたげに見えるが、声をかけてしまった以上引けない。
「どうしてお前はここにいるんだ? 今日は学校が休みなんだろ?」
「えぇ休みよ」
花梨は本から顔を上げると横目でちらりと俺を見やり、
「家にいても闘ってこいってウルサイの。だからここで時間を潰しているのよ」
「ふぅん」
鼻を鳴らしてみたのだが、何の話をしてんのかサッパリわからん。
闘いとはなんだ?
こいつは格闘ゲームの世界で名をはせるプレイヤーなのかな?
「ふぅんってことは、知っているのかしら?」
体をひねって俺に向いた花梨。
その瞳には、今し方の無関心さは消え失せ、どことなく殺気じみたものを感じさせた。
「なにを?」
「鬼神祭よ」
「きしんさい? なにそれ?」
「冗談はやめて――」
乱暴に椅子を押して立ち上がった花梨は、荒くれた足音をたてて俺の元へと向かってきた。
到着と同時に顔にかかる肩までのツーサイドアップを手で払い、黒く大きな瞳を眇めて睨み付ける様に俺を見下ろす。
やはり殺気を感じさせる異様な雰囲気を纏っていた。
「な、なんだよ?」
だらんと伸ばしていた体をただして、椅子の背に体を預けて花梨を見仰ぐ。
険しい表情だが、笑顔を見せればさぞ可愛らしいであろう整った顔の作りだ。
花梨は口を閉ざして俺を凝視すると、ゆっくりと瞼を閉じ、桃色の艶やかな唇を開く。
「聞くけど、あなた、祭り人ね?」
抑揚なく妙な事を尋ねてきた。
「まつりびと? ええと、なにそれ?」
俺の頭の中を疑問符が埋め尽くす。
さっきから何の話をしてんだ、この子は。
「さぁ、お面を被りなさい。そして、どうするか答えなさい」
答えを急く花梨に、俺は両腕を広げて肩を竦めた。
「悪いが、何の話をしてんのかさっぱりわからん」
「ウソは嫌いよ。早く答えなさい」
「ウソもなにも、俺はこの村につい最近引っ越してきた人間だぞ。祭り人だの鬼神祭だのと言われても、何のことだかさっぱりわからんよ。教えてくれ」
「本当に知らないの?」花梨はぐっと眉根を寄せて、怪しむように俺を睨めつけた。「ウソだったら承知しないわよ?」
この高圧的な女がどう承知しないのか興味があるところだが、冗談を言っても通じる相手ではなさそうなので率直に答えた。
「承知しなくて結構。教えてくれ」
「……仕方ないわね。いいわ、教えてあげる。ではまず、お面を出しなさい」
「お、お面?」
また妙なことを言ってきた。
「悪いが、お面なんて持ってきていない」
「本当にもう……仕方のない人ね。持ってきているはずだから出してあげるわ」
言った花梨は俺の前の席に腰を落とすと、体を捻らせて俺へ向いた。
そして、何を思ったのか俺の鞄を掴み上げ、ファスナーを開けて強引に中へと手を入れる。
花梨の突然の暴挙に何をされているのか理解が追いつかなかった。
が、それはほんの一時の思考停止だ。
「お、おい! 勝手に何をしてんだよ」
慌てて鞄を奪い返そうとしたものの、彼女はそこから何かを取り出した。
目の前の女は掴みあげたそれをしばし見つめ続け、ゆっくりと俺へ視線を移す。
その瞳は、憐れむような、そして同情を寄せるような悲哀に満ちた色を浮かべていた。
「な、なんだこりゃ?」
花梨が俺の手にそっと握らせたもの。




