17
この声は水無月だ。
改めて聴く彼女の声は、柔らかくもあり、それでいて甘さが覗く男性ウケしそうな可愛らしい声であった。
実にくすぐったい声色である。
「み、みなづき……?」
「そう。水無月優里奈だよ」
体感時間的に十数日ぶりに聞く、自分以外から発せられる音。
ましてそれが女性の声という事もあって、初恋のようなときめきを感じてしまった。
体に襲いかかっている錯覚など、いとも容易くかき消すほどの威力である。
「もっと……、お前の声を聴かせてくれないか……」
「お面をくれたら、聴かせてあげる」
少しおどけた様な、イタズラっぽい水無月の語調。
身体の芯が、自然と熱くなってきた。
「わかった……お面、だな……?」
その声に操られるように、俺は被っている自身のお面に手を伸ばした。
「そうよ。それでもっと聴かせてあげる」
お面の縁に指が触れた。
水無月にお面を渡せば、声を聴かせてもらえるばかりか、降参を意味するのだから、この異様な空間から開放されるんだ。
であるのならば、何の迷いがあろうか。
全てから解放されるんだ。この黒い空間から。そして無音から。
体内から生じる不快感や、身体の節々に感じる鈍痛も、何もかもから清算されるんだ。
お面を渡すだけだ。それで楽になれるのなら、安いもの。
「あぁ……」
けれど、どうしたことか。お面に指が触れているのに、それ以上動いてくれない。
まるで時間が停止した様に動きを止める指が、奇妙に感じられて仕方がない。
どうしたんだろうな。俺の身体はどうしちゃったんだろうな?
早く楽になりたいのに、指を動かせない。
「ほら。私の声が聴きたいでしょう? お面を譲ってくれたら、たっぷりと聴けるんだよ?」
「聴きたい……けど」
「けど? けど……なにかな?」
「……くっ」
「……んもう。意地を張ってると、声、聴かせてあげないよ?」
「ま、待ってくれ……」
「何を、待つのかな?」
子どもに言って聞かせるような、柔らかい物腰だ。
もちろん、声は聴きたいし、ここから出たいと心の底から望んでいる。有り金全部をはたいてもいいくらいだ。
水無月に『私の奴隷になれ』と要求されても、今の精神状態だと喜んで受け容れるだろう。
けれど、どれだけ望んでいても、身体は思うように動かないのだ。
「ごめん……」
思いがけず、呟いてしまった。
無意識に、呟いてしまった。
俺の知らないところで、本能が――抗うことを選択したように思う。
「本当に、ごめん……」
お面から指を離す。すると面白い様に動く指。強力な催眠術が解けたように自由であった。
大海原を漂うように、大きく腕を広げた。
「はぁ?」
と、どこか小馬鹿にしたような水無月の声が脳内に届く。
「ほら。早くお面をちょうだいよ」
語気を強めて言う水無月。
「……ごめん、無理だ」
「ねぇねぇ。このままずっと黒いままだよ? それでもいいの? 声だって聴けないんだよ?」
「……構わない」
「暗いでしょう? 怖いでしょう? 寂しいでしょう? 苦しいでしょう?」
「……そうだな」
「じゃあ――」
「ごめん、無理だ」
なけなしの力を振り絞り、空笑いをあげた。突っ張った所で何も変わらない事は分かっている。
でも抵抗している事を示したかったのだ。
「んもう、俊くんってば意地っ張りなんだからぁ」
「欲しいなら奪いに来いよ」
「え?」
意表を突かれたかのような水無月の素っ頓狂な声。
「ほら。俺は動くこともままならないんだから、水無月の方から取りに来いよ」
「……んだと?」
低い声で水無月は言う。
「ほら、来いよ」
「……てめぇ」
「もしかして俺が怖いのか? 転校生で何も知らない俺に、恐れているのか? 俺に近づいたら負けちゃうかも、と怯えているのか?」
「言ってくれるじゃねえか……」
「子どもじゃないんだから、一人で来いよ。誰かに寄り添っていないと、一人でトイレにも行けねえやつなのかよ!」
「お、お前、いい加減なことを――」
「違うんだったら……早く、取りに、来い!」
溜まり上げたストレスが、ついに弾けた。
この暗黒を切り裂かんが如く怒髪天を衝き、大きく腕を振り回した。腕だけに留まらず、体全体を粗末に扱い、力の限りを尽くして乱暴なことをしてやった。
振り回した腕や足は、ことごとく空をかくが、それでも大暴れしてやった。
そう成らざるをえないほどに、俺は摩耗しきっていたのだ。
もう、どうなっても良い。全てを破壊してやりたい。
自暴自棄にも似た感情だ。
「かかってこいよ! 水無月!」
これでもかと、漆黒の世界で暴れまわり、かつて無いほどに叫びあげた。
「コソコソと隠れていないで、かかってこい! 卑怯なマネをするんじゃねえよ! この野郎!」
俺のあげた怒声は、脳内で残響音を残しながら闇へと飲み込まれていく。
こんなことをしたところで、無意味なことは知っている。虚しいだけと分かっている。
水無月がこんな幼稚な煽りに乗るとは、到底思えない。
でも、それでも、俺は叫び、そして暴れた。夢中で暴れた。
「え?」
グチャグチャに乱れた頭の中で、ふいに、ある言葉が浮かんだ。
『何が起こるか分からないのが鬼神祭だ』
――鬼神祭二日目に、金髪が話していた言葉だ。
どうしてそんな言葉が思い起こされたのか、理解できなかった。
精神的に追い詰められた状況を緩和させるため、脳が都合よく思い出させた甘い言葉、とも思えた。
だが、そんな『何が起こるか分からない』が現実になろうとは、思いもよらなかった。
「な――」
突如、空気が張り裂けんが如くの衝撃音が轟く。皮膚が共振し、脳が揺れるほどの爆音が発生。
思わず、俺は叫んでしまった。
「な――なんだぁぁあ!」
爆音に次いで、強い光が辺り一面を照らし、目が潰れたと思える程に眩む。
閃光弾が炸裂したかの如く輝度に、たまらず、目元を手で覆い、その光を遮った。
「な、何が起きたんだ!」
霞む視界は、目が慣れてくるに従って徐々に鮮明となり、次第に焦点が合わさる。遮る掌を離し、辺りに視線を配ると、未だ眩しいながらも色を取り戻した空間がそこにあった。
特別室の扉が開き、廊下の照明が室内に差し込んでいる。
「で、出られた?」
呆然として廊下を見ていると、その廊下の突き当りに見覚えのある小柄な人影が見えた。
「……」
目を凝らしていると、その人影は猛然と廊下を駆け、しばらくして特別室の扉の前までやってくる。
「……な……何をしているのよ?」
荒い呼気を繰り返しながら、特別室の扉の前に立ったのは――日向花梨だ。
右手には大きなバスケットを携えている。
「ひ……日向……? あ、あれれ? ここは?」
ようやく正気を取り戻した俺は、部屋の中をぐるぐると見回した。
「何を寝ぼけたことを言っているのよ」
目を丸くしながらもゆっくりと入室してきた花梨は、俺の前に立つと、
「特別室でしょ。しっかりなさい」
俺は天井、本棚、そして自身の手を見やる。
「あ、あ、あ……」
思わず涙が出そうになった。
色がある。音が聴ける。何かに触れている。重力を感じている。
そして、花梨から漂う甘い香りが鼻腔を潤している。
現実世界へ戻れた事実を知った俺の脳は、強烈な安堵感を身体に与える。全筋肉が弛緩し、その場に尻餅をついた。
「どうしたの? 何があったの?」
花梨はかがみ込み、俺の顔を覗き込んできた。久々に見た花梨の顔は――相変わらず険しいながらも、惚れ惚れするような可愛らしさであった。
彼女に苦笑いを送る。
「俺、黒い空間に閉じ込められていたんだ……」
「黒い空間?」
噛みしめるように呟いた花梨は、ややあって、納得したように頷いた。
「なるほど、そういう事ね」
意外な反応に、俺の声は裏返ってしまった。
「え? ……今ので分かったのか?」
「えぇ。それにしても、よくあの空間から出られたわね」
理解の速さに驚愕を示しつつも、壁伝いに身体を起こす。
久し振りの重力に足が震えた。
「どうやったのか知らんが、叫んで暴れたら、この部屋に戻れたんだ」
「叫んで暴れた?」
神妙な面持ちを浮かべる花梨に、俺は頷いて答えた。
彼女は頭を大きく傾げ、何か疑問に思うことがあるのか、しばらく難しい顔のまま俺を凝視する。
「……その件についてはいずれ聞かせて貰うとして、先に優里奈と決着をつけましょうか」
黒い空間が水無月の仕業であると心得ている様だ。彼女の鋭さに驚倒させられてばかりだ。
花梨は俺から少し距離を取ると、どこへ向かってでもなく大きな声を上げる。
「さぁ出てきなさい。いるのは分かっているのよ、優里奈」
静寂の特別室を見回す花梨。しばらく見回し続け、一つの棚に視線を固定したと同時、
「な、なんで邪魔するのよ!」
部屋のどこからか、水無月のくぐもった声が聞こえた。
花梨は、「ふん」と短く鼻を鳴らす。
「あなたも随分とずるい真似をするのね。あたしの獲物を横取りしないでもらえるかしら」
「か、花梨の獲物だなんて知らなかったのよ!」
動揺しているのか、吃音気味の水無月だ。
「あら、確かメールに書いて送ったはずよ」
「と、届いてなぁい!」
「そう。まぁいいわ」
花梨は手にしている大きなバスケットを床に置き、頭部のお面を顔面へと装着した。
「聞くけど、あなた祭り人ね?」
花梨の唐突な宣言により、水無月の声が止んだ。
再び訪れた静寂の部屋に、俺の荒い呼吸音だけが響く。
「答えなさい!」
「……」
「降参と見なすわよ? それでもいいの?」
「……」
「仕方ないわね。じゃあ守司に――」
「……くそっ」
おそらく水無月の声だろうが、ワンオクターブ低い。
「もう少しでお面が手に入ったのに、邪魔しやがって。いいよ、うけてやるよ!」
態度の急変した水無月に、俺はド肝を抜かされた。
「いつもの優里奈のお出ましね。お淑やかを演じなくとも、今の方が可愛げがあるのに」
花梨が嘲るようにつぶやくと同時に、篠笛が微かに漂う。
「こ……こわく囃子だ!」
そう叫んで耳を塞ぐ俺だが、時すでに遅し。
部屋の壁や床、本棚と、ありとあらゆるものが黒く染まり始めていた。花梨自身も真っ黒に染め上がっていく。
「私だって好きで演じてるわけじゃねえんだよ! それにな、祭りの時はみんな本性を隠すもんだろ! テメェだって人のことが言えねえだろ!」
水無月の罵声が飛んでくる。朗らかな水無月と、同一人物とは思えない荒い語調だ。
「何を言ってるの。これが本性よ」
「嘘つくんじゃねぇよ!」
水無月はヒャッヒャと高笑うと、
「クールを装っていても、心の中は桃色で染め上がってんじゃねえか。どぎつい桃色、ショッキングピンクだろ!」
「……ショッキングピンクですって?」
「甘ったるいまでのショッキングピンクだろ。その虫歯になりそうな桃色妄想にとりつかれている自分を、俊くんに見せてやれよ。なんなら私が見せてやろうか?」
笑いの余韻を引きずる水無月は、興奮気味にそういった。
「何を見せるつもりかしら?」
「昨日のメールだよ!」
「メール?」
反芻した花梨は、記憶を探るように腕を組んで唸った。
辺り一帯が黒色化していく中で、彼女は微動だにせずと唸ってばかり。
「また、あの黒い空間に閉じ込められるのか?」
先程の恐怖心が鮮明に蘇り、背筋を冷や汗が滑り落ちていく。
「図書室」
と、語尾にハートマークが着いてきそうな水無月の声が、脳内に直接響いた。
水無月の声は花梨にも届けられたらしく、
「図書室?」
と小声で呟き、そして思い当たるフシがあったのか、組んでいた腕を大きな動きで解く。
「そ、それはダメよ!」




