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 この声は水無月だ。

 

 改めて聴く彼女の声は、柔らかくもあり、それでいて甘さが覗く男性ウケしそうな可愛らしい声であった。

 実にくすぐったい声色である。

 

「み、みなづき……?」

「そう。水無月優里奈だよ」


 体感時間的に十数日ぶりに聞く、自分以外から発せられる音。

 ましてそれが女性の声という事もあって、初恋のようなときめきを感じてしまった。

 体に襲いかかっている錯覚など、いとも容易くかき消すほどの威力である。

 

「もっと……、お前の声を聴かせてくれないか……」

「お面をくれたら、聴かせてあげる」


 少しおどけた様な、イタズラっぽい水無月の語調。

 身体の芯が、自然と熱くなってきた。

 

「わかった……お面、だな……?」


 その声に操られるように、俺は被っている自身のお面に手を伸ばした。

 

「そうよ。それでもっと聴かせてあげる」


 お面の縁に指が触れた。

 水無月にお面を渡せば、声を聴かせてもらえるばかりか、降参を意味するのだから、この異様な空間から開放されるんだ。

 

 であるのならば、何の迷いがあろうか。

 

 全てから解放されるんだ。この黒い空間から。そして無音から。

 体内から生じる不快感や、身体の節々に感じる鈍痛も、何もかもから清算されるんだ。

 お面を渡すだけだ。それで楽になれるのなら、安いもの。

 

「あぁ……」


 けれど、どうしたことか。お面に指が触れているのに、それ以上動いてくれない。

 まるで時間が停止した様に動きを止める指が、奇妙に感じられて仕方がない。

 

 どうしたんだろうな。俺の身体はどうしちゃったんだろうな?

 早く楽になりたいのに、指を動かせない。

 

「ほら。私の声が聴きたいでしょう? お面を譲ってくれたら、たっぷりと聴けるんだよ?」

「聴きたい……けど」

「けど? けど……なにかな?」

「……くっ」

「……んもう。意地を張ってると、声、聴かせてあげないよ?」

「ま、待ってくれ……」

「何を、待つのかな?」


 子どもに言って聞かせるような、柔らかい物腰だ。

 

 もちろん、声は聴きたいし、ここから出たいと心の底から望んでいる。有り金全部をはたいてもいいくらいだ。

 水無月に『私の奴隷になれ』と要求されても、今の精神状態だと喜んで受け容れるだろう。

 

 けれど、どれだけ望んでいても、身体は思うように動かないのだ。

 

「ごめん……」


 思いがけず、呟いてしまった。

 無意識に、呟いてしまった。

 

 俺の知らないところで、本能が――抗うことを選択したように思う。

 

「本当に、ごめん……」


 お面から指を離す。すると面白い様に動く指。強力な催眠術が解けたように自由であった。

 大海原を漂うように、大きく腕を広げた。

 

「はぁ?」


 と、どこか小馬鹿にしたような水無月の声が脳内に届く。

 

「ほら。早くお面をちょうだいよ」


 語気を強めて言う水無月。

 

「……ごめん、無理だ」

「ねぇねぇ。このままずっと黒いままだよ? それでもいいの? 声だって聴けないんだよ?」

「……構わない」

「暗いでしょう? 怖いでしょう? 寂しいでしょう? 苦しいでしょう?」

「……そうだな」

「じゃあ――」

「ごめん、無理だ」


 なけなしの力を振り絞り、空笑いをあげた。突っ張った所で何も変わらない事は分かっている。

 でも抵抗している事を示したかったのだ。

 

「んもう、俊くんってば意地っ張りなんだからぁ」

「欲しいなら奪いに来いよ」

「え?」


 意表を突かれたかのような水無月の素っ頓狂な声。

 

「ほら。俺は動くこともままならないんだから、水無月の方から取りに来いよ」

「……んだと?」


 低い声で水無月は言う。

 

「ほら、来いよ」

「……てめぇ」

「もしかして俺が怖いのか? 転校生で何も知らない俺に、恐れているのか? 俺に近づいたら負けちゃうかも、と怯えているのか?」

「言ってくれるじゃねえか……」

「子どもじゃないんだから、一人で来いよ。誰かに寄り添っていないと、一人でトイレにも行けねえやつなのかよ!」

「お、お前、いい加減なことを――」

「違うんだったら……早く、取りに、来い!」


 溜まり上げたストレスが、ついに弾けた。

 

 この暗黒を切り裂かんが如く怒髪天を衝き、大きく腕を振り回した。腕だけに留まらず、体全体を粗末に扱い、力の限りを尽くして乱暴なことをしてやった。

 

 振り回した腕や足は、ことごとく空をかくが、それでも大暴れしてやった。

 そう成らざるをえないほどに、俺は摩耗しきっていたのだ。

 

 もう、どうなっても良い。全てを破壊してやりたい。

 自暴自棄にも似た感情だ。


「かかってこいよ! 水無月!」


 これでもかと、漆黒の世界で暴れまわり、かつて無いほどに叫びあげた。


「コソコソと隠れていないで、かかってこい! 卑怯なマネをするんじゃねえよ! この野郎!」


 俺のあげた怒声は、脳内で残響音を残しながら闇へと飲み込まれていく。

 

 こんなことをしたところで、無意味なことは知っている。虚しいだけと分かっている。

 水無月がこんな幼稚な煽りに乗るとは、到底思えない。

 

 でも、それでも、俺は叫び、そして暴れた。夢中で暴れた。

 

「え?」


 グチャグチャに乱れた頭の中で、ふいに、ある言葉が浮かんだ。

 

『何が起こるか分からないのが鬼神祭だ』


 ――鬼神祭二日目に、金髪が話していた言葉だ。


 どうしてそんな言葉が思い起こされたのか、理解できなかった。

 精神的に追い詰められた状況を緩和させるため、脳が都合よく思い出させた甘い言葉、とも思えた。

 

 だが、そんな『何が起こるか分からない』が現実になろうとは、思いもよらなかった。


「な――」


 突如、空気が張り裂けんが如くの衝撃音が轟く。皮膚が共振し、脳が揺れるほどの爆音が発生。

 思わず、俺は叫んでしまった。


「な――なんだぁぁあ!」


 爆音に次いで、強い光が辺り一面を照らし、目が潰れたと思える程に眩む。

 閃光弾が炸裂したかの如く輝度に、たまらず、目元を手で覆い、その光を遮った。

 

「な、何が起きたんだ!」


 霞む視界は、目が慣れてくるに従って徐々に鮮明となり、次第に焦点が合わさる。遮る掌を離し、辺りに視線を配ると、未だ眩しいながらも色を取り戻した空間がそこにあった。

 

 特別室の扉が開き、廊下の照明が室内に差し込んでいる。

 

「で、出られた?」


 呆然として廊下を見ていると、その廊下の突き当りに見覚えのある小柄な人影が見えた。


「……」


 目を凝らしていると、その人影は猛然と廊下を駆け、しばらくして特別室の扉の前までやってくる。


「……な……何をしているのよ?」


 荒い呼気を繰り返しながら、特別室の扉の前に立ったのは――日向花梨だ。

 右手には大きなバスケットを携えている。


「ひ……日向……? あ、あれれ? ここは?」


 ようやく正気を取り戻した俺は、部屋の中をぐるぐると見回した。


「何を寝ぼけたことを言っているのよ」


 目を丸くしながらもゆっくりと入室してきた花梨は、俺の前に立つと、

 

「特別室でしょ。しっかりなさい」


 俺は天井、本棚、そして自身の手を見やる。


「あ、あ、あ……」


 思わず涙が出そうになった。

 

 色がある。音が聴ける。何かに触れている。重力を感じている。

 そして、花梨から漂う甘い香りが鼻腔を潤している。


 現実世界へ戻れた事実を知った俺の脳は、強烈な安堵感を身体に与える。全筋肉が弛緩し、その場に尻餅をついた。


「どうしたの? 何があったの?」


 花梨はかがみ込み、俺の顔を覗き込んできた。久々に見た花梨の顔は――相変わらず険しいながらも、惚れ惚れするような可愛らしさであった。

 彼女に苦笑いを送る。


「俺、黒い空間に閉じ込められていたんだ……」

「黒い空間?」


 噛みしめるように呟いた花梨は、ややあって、納得したように頷いた。

 

「なるほど、そういう事ね」


 意外な反応に、俺の声は裏返ってしまった。


「え? ……今ので分かったのか?」

「えぇ。それにしても、よくあの空間から出られたわね」


 理解の速さに驚愕を示しつつも、壁伝いに身体を起こす。

 久し振りの重力に足が震えた。


「どうやったのか知らんが、叫んで暴れたら、この部屋に戻れたんだ」

「叫んで暴れた?」


 神妙な面持ちを浮かべる花梨に、俺は頷いて答えた。

 彼女は頭を大きく傾げ、何か疑問に思うことがあるのか、しばらく難しい顔のまま俺を凝視する。

 

「……その件についてはいずれ聞かせて貰うとして、先に優里奈と決着をつけましょうか」


 黒い空間が水無月の仕業であると心得ている様だ。彼女の鋭さに驚倒させられてばかりだ。

 花梨は俺から少し距離を取ると、どこへ向かってでもなく大きな声を上げる。


「さぁ出てきなさい。いるのは分かっているのよ、優里奈」


 静寂の特別室を見回す花梨。しばらく見回し続け、一つの棚に視線を固定したと同時、


「な、なんで邪魔するのよ!」


 部屋のどこからか、水無月のくぐもった声が聞こえた。

 花梨は、「ふん」と短く鼻を鳴らす。


「あなたも随分とずるい真似をするのね。あたしの獲物を横取りしないでもらえるかしら」

「か、花梨の獲物だなんて知らなかったのよ!」


 動揺しているのか、吃音気味の水無月だ。


「あら、確かメールに書いて送ったはずよ」

「と、届いてなぁい!」

「そう。まぁいいわ」


 花梨は手にしている大きなバスケットを床に置き、頭部のお面を顔面へと装着した。


「聞くけど、あなた祭り人ね?」


 花梨の唐突な宣言により、水無月の声が止んだ。

 再び訪れた静寂の部屋に、俺の荒い呼吸音だけが響く。


「答えなさい!」

「……」

「降参と見なすわよ? それでもいいの?」

「……」

「仕方ないわね。じゃあ守司に――」

「……くそっ」


 おそらく水無月の声だろうが、ワンオクターブ低い。

 

「もう少しでお面が手に入ったのに、邪魔しやがって。いいよ、うけてやるよ!」


 態度の急変した水無月に、俺はド肝を抜かされた。


「いつもの優里奈のお出ましね。お淑やかを演じなくとも、今の方が可愛げがあるのに」


 花梨が嘲るようにつぶやくと同時に、篠笛が微かに漂う。


「こ……こわく囃子だ!」


 そう叫んで耳を塞ぐ俺だが、時すでに遅し。

 部屋の壁や床、本棚と、ありとあらゆるものが黒く染まり始めていた。花梨自身も真っ黒に染め上がっていく。


「私だって好きで演じてるわけじゃねえんだよ! それにな、祭りの時はみんな本性を隠すもんだろ! テメェだって人のことが言えねえだろ!」


 水無月の罵声が飛んでくる。朗らかな水無月と、同一人物とは思えない荒い語調だ。


「何を言ってるの。これが本性よ」

「嘘つくんじゃねぇよ!」


 水無月はヒャッヒャと高笑うと、


「クールを装っていても、心の中は桃色で染め上がってんじゃねえか。どぎつい桃色、ショッキングピンクだろ!」

「……ショッキングピンクですって?」

「甘ったるいまでのショッキングピンクだろ。その虫歯になりそうな桃色妄想にとりつかれている自分を、俊くんに見せてやれよ。なんなら私が見せてやろうか?」


 笑いの余韻を引きずる水無月は、興奮気味にそういった。


「何を見せるつもりかしら?」

「昨日のメールだよ!」

「メール?」


 反芻した花梨は、記憶を探るように腕を組んで唸った。

 辺り一帯が黒色化していく中で、彼女は微動だにせずと唸ってばかり。


「また、あの黒い空間に閉じ込められるのか?」


 先程の恐怖心が鮮明に蘇り、背筋を冷や汗が滑り落ちていく。


「図書室」


 と、語尾にハートマークが着いてきそうな水無月の声が、脳内に直接響いた。

 水無月の声は花梨にも届けられたらしく、

 

「図書室?」


 と小声で呟き、そして思い当たるフシがあったのか、組んでいた腕を大きな動きで解く。

 

「そ、それはダメよ!」


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