16
「水無月?」
呼ぶが、彼女は返事をよこさない。
そもそもこの空間に彼女の姿がないので当然だが、であるならどこへ行ったのか。
もしかして俺に気をつかって、一人にしてくれたのだろうか。
「いないのか?」
それでもどこかに隠れているのではと思い、部屋の中を見回していたところ、館内に漂っていた優雅なクラシックの音色に被せる様に、優しい笛の音が聴こえてきた。
「篠笛?」
何らかの電波をスピーカーが拾っているのか?
天井に取り付けられているそれを見仰ぐが、そうではなさそうだ。じゃあどこから聴こえるんだろうと耳を澄ますと、その音色は音量を増し、それとともに俺の嫌な予感が張り裂けんばかりに膨れ上がってきた。
改めて思う。
今は鬼神祭真っ只中なのだ。
「マズイ……。早くここから出ないと、良くない事が起こる」
退出するべく手にしている書籍を棚に返そうとして――疑心が確信へと変わる。
「え?」
室内を照らしていた薄暗い照明が、徐々に消え入りそうに暗くなっているのだ。
灰色の天井が、じわりじわりとその色を黒く変えていく。
「な……なんだこれ?」
部屋を見渡すと、壁や床も同様に黒く染め上がり始めていた。
数歩後退り、本棚に接触して振り返る。
そこもまた色彩を持つ全ての物質が、墨が滲み出るように黒く染まり始めていた。
「もしかして――」
手のひらに視線を落とすと、案の定、それはコールタールを被ったように黒く色を帯びていた。
それも両手。いや、両腕。
「違う……」
――全身が真っ黒だ。
「き……気持ち悪りぃ……。なんだよこれ!」
消えいく照明が、その灯火を完全に消し去ろうとしていた。
「どうなってんだ、これ!」
叫ぶ声が黒い海に飲み込まれていく。
本棚や壁、テーブルに椅子、目につく全てのものが黒く染まり、そして陰影を失って奥行きをなくす。次第にそれはあるべき場所にあるのか分からなくなり、そして、わずか数分も経たずと、全てが完全なる黒一色の空間と化した。
暗いのではない――黒いのだ。
気が狂いそうになる程、黒で染め上げられているこの空間は、天と地の判別が出来きないほどであり、暗闇で目を閉じている様に手元すらも見通せない。
この状況に陥った原因を探ってみたものの、考えずとも答えは容易に導き出す事が出来た。
「水無月! これはお前の仕業だな!」
叫ぶと笛の音が止み、どこからともなく彼女の声が聞こえた。
くぐもった声。よく聞き取れない。耳をそばだてるも、どうにも無理であった。
焦れれば焦れる程に不安が沸き起こる。
「どこに居る!」
全身が無意識に震え、呼吸が浅くなった。
立っているのか浮いているのか、それすらも分からず、叫んでも声は響かず黒いどこかへ消えていく。
「クソッ……」
クラシックや笛の音が消え、空調の機械音すらも潰えた。
現実から切り離された様な、完全なる無音空間。
聴こえるのは俺の呼吸音、そして鼓動。
頭が、おかしくなりそうだ。
「水無月! 出てこい! おい、水無月!」
視覚の異常。聴覚の異常。そしてカビ臭さが消えている嗅覚の異常。
それらを総合的に勘案すると、水無月は五感を操るお面を有していると思われる。
「聴こえていた篠笛の音色は、祭囃子だろ?」
反応がないが、俺は続けた。
「その音色を聴いた者の『五感』を操るお面だな。そうだろ? 水無月。わかってるんだぞ」
発狂しそうになる心を乱暴に押さえつけ、落ち着いた口調で問うた。
しかし、なんら反応がない。
だが俺は彼女からの言葉を待った。反応が得られるまで黙っているつもりだ。
たとえ、それが何時間経とうと待つ覚悟はある。焦れば相手の思うつぼだからだ。
「……」
しばらく黙り込んでいると、かすかな呼吸音が聴こえた。水無月のものだ。
「すごいや、俊くん。……ほぼ正解だよ。この音色ってね、人を惑わす祭囃子で『こわく囃子』っていうの……。ごめんね俊くん……ごめんね、ごめんね……」
ようやく聴こえた彼女の声は、直接脳内へ届けられている様に響きを持っていなかった。
「やっぱりそうか。酷いことをしてくれるな、まったく」
「ほんとに、ごめんね……」
「謝るなら最初から――」
呆れたように言い放つ俺の言葉を、水無月は遮った。
「俊くん、祭り人だよね?」
申し訳ないとでも言わんが如く儚げに聞こえた。
水無月は俺が約束を破る可能性を考えて闘いを挑んだのだろう。勝つ事が何よりも優先される鬼神祭では当然の行為か。
くそっ……。軽率な行動だったな、俺……。
「鬼神祭は嘘をついて相手からお面を奪ったとしても、誰からも咎められる事はないの。転校生で何も知らないのに、こんなことしてごめんね。でも私も必死な事、分かって」
水無月は言葉を区切ると、僅かに沈黙した。
そして――
「お面、今貰っていいかな?」
小さく呟いた。
もちろん水無月にはお面を渡すつもりだ。だが、無理やり奪うような真似をされては素直に渡しにくい。
かといって俺が所有する黒いお面の力が判然としない状況では、太刀打ちなんて出来ない。
勝算が爪の先ほども無いと重々承知している。
承知しているはずなのだが――お面を被って戦闘態勢に入っている事に気付かされた。
みすみす降参を渡すよりも、華々しく散りたいという男の意地が働いたように思う。
「わ、悪いが、闘いを挑まれた以上、素直に渡すことは出来ない……」
「……そう」
「その闘い、受けるよ」
「……わかった」
水無月の呼吸音が闇に飲み込まれていった。
恐ろしい程の無音が、またしても俺を襲う。
「はぁ……。まずは、ここから出なければ……」
拒絶反応に寄る目眩に耐えながらこの空間を走ってみるが、足がから回って空を掻いている様に手応えがない。
身体が浮いているのか沈んでいるのか、それすらも分からない。
何も見えず、何も聞こえずというのは、こんなにも恐ろしいとは思いもよらなかった。
「……」
だが、恐怖心なんてものは、時間が経てば徐々に薄れいくものだ。
それに、目を閉じて黒い空間に身を委ねていれば、制限時間がやってきて試合終了。もしくは、しびれを切らした水無月が、この空間を解除して姿を表すだろう。
慌てず、騒がず、落ち着いた行動を取れば、解決が見えてくる。
――と思ってみたものの、間違いなくそうはならない。
確実に、俺が先に音を上げる。
そう言い切れる理由を、俺は身をもって体感しているのだから――。
「……何時間……経ったんだ?」
問題なのは――時間だ。
体感時間が狂わされているのか、時間経過が全く把握できていないでいた。
この空間に閉じ込められて、おそらく数分も経っていないだろうが、体感時間的には数時間は経過している様に思えていたのだ。
「くっ……」
流石に、落ち着いてなどいられない。
特別室に入る前の時間は、十一時前後であったと記憶している。ということは、鬼神祭が終了するまで、五、六時間ほどかかる計算だ。
一分の時間経過が、大きく見積もって四時間と考えると、一時間が、二百四十時間。
鬼神祭終了までの六時間に当てはめると、じつに千四百四十時間。
日数に換算すると、六十日。
約二ヶ月間も、この闇の中に閉じ込められる計算だ。
体感時間とは言えど、そんなの……無理だ!
「水無月!」
彼女を呼んでみるが、相変わらず無反応。
発した音が響きを持たないので、とにかく気持ちが悪い。
宇宙空間に置き去りにされた様な、孤独な恐怖に見舞われている。
「くそっ……」
身震いがするので、身体を縮めた。それにしても打つ手が見当たらない。
ノイズ一つ無い無音と、俺を含めた全てが黒。
そんな異常空間に、長時間、一人で放置される孤独感。
この状況は……精神的にきつい。
「くっ……」
心臓が変な動きをした。不整脈。極度のストレスが、身体機能を鈍らせ始めたようだ。
再び駆け出してみたものの、平衡感覚さえも狂わされたのか、足もとがおぼつかない。
「ちくしょう……」
ここから出る方法を改めて考えてみた。が、考えた所でどうしようも出来ない。
そもそも出口が見当たらないのだから、ここからの脱出など不可能。
力があれば闘えるかもしれないが、悔しい事に俺は丸腰――って畜生!
そうだよな。俺はバカだったよ!
先日『闘う相手は慎重に』という花梨のありがたい言葉を肝に銘じたばかりなのに、舌の根の乾かぬうちに過ちを冒したのだ。
愚かでマヌケにも程がある。バカか俺は!
「だけど……」
だけど……降参します、とは口が裂けても言うつもりはない。
しっかりと瞼を開いているのに、どこを見ても真っ黒というのは、不気味の一言に尽きる。
「……」
心音が酷く耳障りに聞こえ、止めてしまいたい衝動に駆られる。
「はぁ……」
どれ程の時間が経過したのか予想してみた。
腹が全く減っておらず、まして睡魔も一向にやってこない。それどころか尿意も無い事から、まだ一時間も経っていないと思われる。
けれど、体感的には、数日間もこの空間に閉じ込められている。
「……」
また一日、時が過ぎ去ったように感じる。
時間が経つに連れて酷くなる不快感。そして、孤独感。
幻聴も顔を覗かせ、身体的異常が次々に俺に襲いかかっていた。
辛うじて繋いでいた呼吸さえも、かなり浅くなってきている。
精神が崩壊寸前だ。
「はぁ……」
色が見たい。音が聴きたい。身体が何かに触れていたい。
走りたい。重力を感じたい。そして、新鮮な空気を吸いこみたい。
止めどなく溢れ出る欲求が全身を突き抜ける。が、それらを手にできないもどかしさ。
簡単に手に入るものが、こんなにも有り難いものだと闘いの中で気づかされるとは……なんと皮肉なことか。
「なんだよ、これ……」
いよいよ精神に異常を来したらしく、現実と幻覚の区別がつかなくなっていた。
身体の中で、何かが暴れまわっているような錯覚に陥っており、発狂しそうなほどに気持ちが悪い。
「なんだよ! 体の中で、何かがうごめいてる!」
もう、ダメだ。堪えきれない。
体内を暴れるものが、皮膚を突き破って外へ出ようとしているように感じる。
気持ちが悪い。
早く、取り除いてほしい。
もう、楽に、してくれ。
「ごめん、日向……」
限界が間近に迫る――そんな時だった。
「……お面を……渡して?」
とてつもなく懐かしい声が聴こえてきた。




