廃病院の抽斗(ひきだし)の指
もう、昭和も終わろうかという頃の晩秋の日だった。
私は山がちな片田舎で、小さな文房具メーカに事務員として勤めていた。
友人の明子は、同じ町の古い病院の看護婦だった。
二十代も半ばを過ぎ、片付く気配もない二人は、少々刺激に飢えていた。
「今度あたし、山の中の廃病院に行くの。付き合わない?」
「いいけど、なんでわざわざそんなところに行くの」
廃病院、という単語を日常の中で使うのも、何だか可笑しかった。
「うちの院長、もう皆からめちゃくちゃ嫌われてる最低男なんだけど。私も普段、凄くいびられてて。そいつの弱みがね、院長が昔勤めてた廃病院に残ってるらしいのよ。それを手に入れたいなーって」
「写真か何か? 悪趣味」
あまり愉快な目的ではない。
「ちょっとオカルトツアも兼ねてさ 。廃墟とかって、ちょっとわくわくするじゃん」
明子は昔からお化けの類が大嫌いだったと記憶していたので、そんな物に興味があるとは少し意外だった。
少し気が引けた私だったが、結局明子に押し切られる形で、深夜の廃病院行きが決まってしまった。
私たちが暮らしていた場所はいわゆる盆地で、車を一時間も走らせればあっという間に鬱蒼とした山中に至る。
明るいうちに目的地に着くつもりだったけど、小腹がすいたのお茶を飲もうだの言っていたせいで、もうほとんど日が暮れかけていた。
「で、明子、目的の物は結局、何なわけ?」
「写真なんだけど、院長のデスクの抽斗の中にあるらしいよ」
「鍵とかかかってないの?」
「かかってても、壊せばいいじゃん。ど うせ廃院なんだし」
「その弱みって何なの? あんまり大ごとになるようなら、ちょっと…」
「まあ、見つかってからよ、そんな心配はサ」
やがてすっかり暗くなった山中で、光るものは私が運転する車のライトだけになった。
生憎雲が出ていて、月明かりも弱い。
途中、「これは本当に通っていい道なのか?」と判断に迷う未舗装路を二・三通って、ようやく少し開けた所に出た。
「あ、ここよ、ここ」
「……おおう……」
塗りつぶしたように真っ黒な山を背景におぼろげに浮かぶ、巨大な建物が目の前に現れた。
草がぼうぼうと茂る、元は駐車場だったらしいスペースに車を止める。
周囲は木々に囲まれていて、盆地の街明かりも見えなかった。
秋の終わりだったので虫などはさほどいなかったし、動物の鳴き声もしなかったけど、それが逆に、その空間の無生命感を強調していた。
明子が、
「雰囲気あるゥ」
と言いながら、懐中電灯を灯して車を降りた。
その声も少し震えている。
「あ、立入禁止のチェーンがあるよ。避けて避けて」
「うん……」
闇の中で足元に気をつけながらそろそろ歩き、私達は病院の入口にたどり着いた。
入口の扉は手動の両開きだった。
私は正直、これが開かなければ帰りたかった。
女だけで人里離れた廃屋になど来たことを、後悔していた。
あちこちの暗がり――と言うより、“黒がり”――から、得体のしれないものが今にも飛び出てきそうな気がする。
けれど無情なことに、向かって右側の扉が、外側に向かって三十度ほど開いていた。
「入れるね。荒らされたりしてんのかなァ」
明子が更に扉を開いて、病院の中に入った。
「……ちゃんと開けちゃうね」
私は右側の扉を九十度まで開け切り、傍らの石をドアストッパにして固定した。
何かの拍子に、閉まって出られなくなったりしてはたまらない。
寄り添うようにして、私達は廊下を歩いた。
少しずつ目が慣れて来ると、荒れ果てた病院の中の不気味さがいっそう強調された。
ことごとく、半開きかそれ以上開いているドア。外れた引き戸。
ガラスは皆ヒビが入るか割られており、床は埃と砂で、始終不愉快にざらついている。
ここで何かが起こっても、私達を助けてくれるものは何もないのだということ を、周囲全ての物体が知らしめて来るようだった。
「写真ってどこにあるの?」
「院長室だから、一階の一番奥」
進んでいくと、右手に階段が現れた。
踊り場で二階へ折り返す作りになっており、その死角の多さが不安をあおる。
懐中電灯の明かりが阻まれる踊り場の先の闇の濃さが、何とも嫌だった。
「あれ」
「何、明子」
「なんか聞こえない?」
「やめてようもう、そういうのお」
「風とかじゃない感じなんだって。しっ」
二人で同時に、息を潜めた。
すると、……
ずろっ……
私は息を飲み、明子を見た。
明子は今の階段の、上の方を見ている。
確かに、そちらから音は聞こえたようだ。
ずっ……
ずる……ずしゅぅ……
音は不規則ながら、不気味な連続性があった。
風などの自然音ではない。
音は何らかの意図と、そして、それなりの質量を持っていた。
「……モグラ、とかかなァ……」
「何でそんなのが、廃屋の二階にいるの! 違うでしょ!」
明子も恐怖のせいで気色ばみ、
「じゃあ、何がいるってのよ!」
何――、が……
「知らないわよ!」
私は明子の袖をつかみ、廊下を奥へ進んだ。
早く済ませてしまおう。
帰って、夜が明けてしまえば、笑い話で済む。
「あった、ここだ」
明子が上方へ指差した先に、『院長室』と書かれたプレートがあった。
その部屋の、やはり半開きの引き戸を、明子が完全に開ける。
「なんか、広いなー……」
確かに、院長室の中は戸棚やテーブル、奥にソファなどが残っていたけど、どこか閑散とした印象だった。
「あれだ、あの机」
懐中電灯を繰っていた明子があっさりと目当てのものらしい事務机(ただし、大振りで豪華な)に寄って行き、抽斗に手をかけた。
「あれ、開かないなー。やっぱり鍵かかってるのかな」
明子が、ガチャガチャとやりながらこぼす。
どうやら事務机の、レッグスペースと天板の間にある平たい抽斗と格闘しているようだ。
「それとも錆びてんのかなー。ドライバとか、持って来たら良かったなー」
ガキンガキン、と派手な音が響く。
明子は両手の指を抽斗の下側にかけ、腰を落として思い切り引っ張っていた。
「おかしいなあ! 開かないなあ! なんでだろオ! 」
バチン、と音がして明子がもんどり打った。
指が、開かずの抽斗から外れたのだ。
明子は、勢い余って転んでしまった。埃がわっと暗闇に立ち上る。
「ぐうっ」
「明子!」
呻く明子を抱き起こすと、歯を食いしばりながら泣いていた。
「どうしたのよ、明子。大丈夫?」
場所が場所なので、何かが取り憑きでもしたのかと思い、ぞっとした。
しかし明子はやや落ち着いた様子で、
「大丈夫、ごめん……開かないの、抽斗が」
正気のようだ。なら、なおさら気になる。
見ると、明子の両手の爪は、三四枚剥がれかけているようだ。
どんな力を込めていたのだろう。
「素手じゃ無理みたい。何か探そう」
私は明子の様子から、彼女が探しているものが、先の説明通りのものではないのだろうと察した。
けれど今は、それを追求する気にはなれなかった。
机には、今の平たい抽斗の他、レッグスペースの右側に縦に並んで、三つ抽斗がついている。
一番上は今のものと同じように平べったく十センチほど、真ん中の段は二十センチほど、一番下の段は二十五センチほどの高さがあった。
私は一番右上の抽斗を引いてみた。
開かない。
鍵がかかっているような人工的な感覚ではなく、どちらかというと錆び着いたか何かして、ひどく開けづらくなっているように感じた。
何にせよ、力任せには開けられそうにない。
二段目を引いてみた。
やはり開かない。上段と同じような感覚がする。
最後に、下段を引く。
これも 同じだ。
金槌のようなもので壊せないだろうか、と思ったけど、実際に手で触れてみると、この机が随分頑丈に出来ているのが分かる。
そもそも、どんなに力一杯引っ張っても、微動だにしないくらい重い。
机自体が強度相応の重量を持っているのか、それとも今になってなお、中にそんなに大量のものが詰め込まれているのだろうか。
幸い、この部屋の中には家具をはじめ色々物が残されている。
使える物が無いかと周囲を見回してみると、戸棚の中にツールボックスを見付けた。
開けると、中には工具に紛れて、野太いプラスドライバが入っていた。
「どいて、明子」
明子は自分が開けたいと渋ったけど、怪我をした今の彼女の手でやらせるわけにはいかない。
私はドライバを、最初の平たい抽斗の上端にねじ込んだ。
手のひらを当てて押しこむと、
ぐきん!
と音がして、抽斗が緩んだ。
やはり鍵ではなく、錆びか、経年による変形のせいだったのだろう。
私は抽斗を引いた。
そこにあるものが何なのか、最初はよく分からなかった。
抽斗の中には十本の、茶色く干からびた、枯れ枝のような小さな棒が入っていた。
一方の先端には、黄褐色の殻のようなものが付いている。
「何、これ」
「う。この黄色いの、爪、……だ」
明子の声で、一気に全身がぞっと総毛立つ。
私はのけ反りながら叫んだ。
「じゃあこれ、指? ……十本全部!?」
そう言われると、確かに指にしか見えない。親指らしき、ずんぐりした棒も二本ある。
「でも、誰の……?」
自分で言って、ぞっとした。
これは、誰の指だ?
指があるということは、指を断たれた誰かがいるということではないか。
それも、まっとうな手術であればこんな所に入れられているはずが無い。
しかも両手の、全ての指を。
「知らないわよ……こんなの。写真は……?」
明子は、半ば放心して見えた。
「写真?」
「ごめんね。あたしが探しに来たのは、あたしの写真なの。あたしと、院長の……」
明子は顔を両手で覆い、
「中学生の頃、あたし今勤めてる病院によく遊びに行ってたの。その時、外科部長だった今の院長と……、その時に撮られた写真……」
最後の方は、ほとんど嗚咽だった。
「……それが、ここにあるって言われたの?」
「ネガももう無い、最後の写真がこの抽斗に入れてあるから、どうしても取り返したければ持って行けって……。嘘かも知れないと思ったけど……あたし……」
私は明子の肩を抱き、ソファの埃を払って座らせた。
怖がりのはずの明子が、この廃病院行きを決定した理由に、ようやく合点が行った。
それでも一人では来れず、私を誘ったのだ。
「今の病院に入ったのも、院長の傍にいる為だった。でも、もうやめようと思って……写真、返してって……。そしたらこんな、……」
私は明子の話を無理やり打ち切ろうと、彼女の肩を掴み、、
「明子。絶対にこの抽斗なの? 上の階のどこかじゃなくて?」
「分かんない……院長室の、って言ってただけだから、上にも似た ような部屋とかあるのかも。でもあたし、こんなとこの上なんて見に行きたくない」
「私、行って来るよ。明子が一人で平気ならだけど……」
「待ってるくらいなら、平気。ドライバで、抽斗こじ開けてるから」
いつの間にやら手にしていた先ほどのドライバを、明子が掲げて見せた。
二人で少し笑う。
「すぐ戻るからね」
「うん。ありがと」
院長室を出る私に、明子が手を振った。
私が『明子』の顔を見たのは、多分、これが最後だった。
先ほどの階段を上った私は、二階へ出た。
途端、
ずる……
ずず……
と、何かを引きずるような音が響いた。
辺りを見回す。
一階と、様子はほぼ同じだった。
どれも半開きの扉、埃の積もった廊下……。
ただ一か所、様子の違う所があった。
何の部屋なのかは分からないが、扉は半分開いているものの、入口の辺りの壁が経年劣化で崩れてしまい、私の腰の辺りまでの高さにがれきが積まれて、塞がれている。
ずさッ……
ずしゃぁ……
例の音は、どうもその部屋の中から聞こえて来る。
やはり、自然音ではない。
蛇か、何かだろうか。それにしては重そうだ。アマゾンじゃあるまいし、全長数メートルの大蛇など、こんな所にいるはずがない。
何せ、勝手知らぬ夜の廃墟である。驚異の正体は暴いておきたい。
私は覚悟を決め、がれきの向こう側を覗き込んだ。
暗過ぎて、あまり見えない。
私は左手に懐中電灯を持ち、右手でがれき を少しずつ崩した。
中を照らしても、まだよく見えない。
だがその闇の隅で、確かに何かが動いた。
そのせいで、悲鳴をあげかける。
落ち着け。
まさか、熊ということはあるまい。
なおもがれきをどけていくと、私の膝くらいまでの高さまでは空間が空いた。
そろそろと、用心しながら中へ入ろうとして、……。
そして私は、うごめいていた物をようやく、懐中電灯の明かりの中に見た。
それは、干からび、褐色に変色していたものの、間違いなく人間の足だった。
腿の辺りで切断された脚部が二本、不規則にのたうちながらずるんずるんと動き回っ
ている。
「い……いやあああッ!」
獲物にすがろうとする芋虫のような動きは、元は人間の体だとはとても思えなかった。
気色悪さに、胃液が喉元にこみ上げる。
私は廊下へ飛び出し、二三歩走った所で腰が抜け、埃だらけの廊下に突っ伏した。
ずるっ……
ずしゅっ、ず……
振り返った私が見たのは、今まさに私が崩したがれきの上を、二本の足がのたくりながら乗り越えて廊下へ出て来る光景だった。
ぞろ……
ずぞっ、ぞっ……
両足はそのまま階段を降り、階下へ消えた。
鳥肌の走った全身がしびれ、私はそのまま固まっていた。
思考能力を奪われ、ぼんやりと考えていたのは、今の足があの指の持ち主と同一人物なのだろうか……ということだった。
五体が、院内の各所にバラバラになって納められているのだろうか。
足は 動いていた。
指はどうだったろう。
他の部位はどうなのだろうか。
特に、恐らくは本体といえるであろう、心臓のある胴体や、頭部は。
どこにあるのかは知らないが、近付いてはならない。
そんな恐ろしいものには、絶対に――……
その時、
「ギャアアアアアア!」
明子の悲鳴が聞こえた。
そうだ、あの足は階段を下ったのなら、明子の下へ行ったんではないのか。
私はバカだ。こうしている場合ではない。
私は急いで、階段を駆け降りた。
院長室のドアは開いていた。
中へ飛び込んだ私を待っていたのは、異様な光景だった。
明子が、自分の頭を、抽斗の最下段に突っ込んでいた。
その四肢は脱力していて、気絶しているようだった。
そして、明子の下半身には、さっきの足が二本とも、絡みついている。
「明子ッ!」
私は明子に取りすがり、両手を最下段の抽斗にかけ、思い切り手前に引いて、開いた。
明子の首を抽斗の中から引っ張り出す。
そして、私は、それを見た。
抽斗には、やはり、鍵が掛かっていたのではないようだ。
最下段の中には、抽斗が容易に開かない程、みっしり、と詰め込まれていたのだ。
足を欠いた、一人の人間の体が。
いや、このように詰め込むために、邪魔な足を切られたのだろうか。
両足と同じ色の人体の上半身が、それこそマッチ箱に押し込められた芋虫のように、異様な形で押し込まれている。
本体に近付かないどころではない。
最悪の勘違いだ。
ここに、既に、本体があった。
私はこともあろうに、本体のすぐ前に、明子を一人置いて離れてしまったのだ。
驚愕で、私は金縛りに逢っていた。
ミイラのような体は、性別も年齢も判然としない。
その体が、……動いた。腕を、意識の無い明子に伸ばして来る。
私達が解放してしまった指が、ミイラの手に収まっている。その両手に、明子の頭が掴まれた。
そして、ミイラの体が、明子に向かって数回、蠕動した。
それが済むと、ミイラの手から力が抜け、抽斗の中にぱたりと落ちた。
その時やっと、私は我に返り、明子に駆け寄った。
だが、ふと抽斗に目をやった時、私は、見上げながらねめつけて来るような格好のミイラと、“目が合った” 。
目を離せないでいる間に、ただの虚ろな黒い二つの眼窩に、湿り気が満ちる。
空洞に白い筋が走り、やがて丸く形を整え、……
眼球、だ。
眼が出来ようとしている。
瞬きのしようの無い眼で、まっすぐに、私だけを見ている。
そう気付いた時、感情の許容範囲を超えた脳が機能不全を起こして、私は、意識を失った。
目が覚めた時には、夜が明けていた。
最下段の抽斗は開きっぱなしになっており、その中には何も入っていなかった。
両足の痕跡もない。
ただ、埃に混じって、黄色い灰のようなものが周囲に散らばっていた。
私は目覚めない明子を引きずって、車に乗せ、山を下りた。
幾度となく、助手席で眠る明子の横顔を見る。
顔の造作 が、私の知る明子のそれと、何度見てみても、
……少し違っていた。
■
私達は、日常に戻った。
数日後、例の院長が、精神に異常をきたして施設に入ったという噂を聞いた。
私はその少し前に、院長と接触し、ことのあらましを言って問いただしていた。
夜の院長室――勿論、現在の彼の病院の――で、彼は訥々と私に答えた。
「あの病院で、何があったんですか」
「見たんだろう? そのままだ。そういう目にあった、女がいたというだけの」
あれは、女だったのか。
「あなたが、やったんですか」
「最初にそうして欲しいと言い出したのは彼女だ。途中で止めてくれと言ったのも彼女だがね。私が麻酔を使わないとは、想定していなかったらしい。最後は恨み言を絶叫していたな」
それなりに複雑な事情があるようだが、その辺りは今更聞く意味が無い。
「足を切ったのは抽斗に収まらなかったからだが、悪さが出来んように指も切っておいた。永遠にあそこでもがき続けるからこそ、彼女には意味がある。いや、あった、のだな」
「後から思えば、ということなのですが、全ての扉が開いていたのも……」
「足は自由に動き回れるからね。全てのドアが開いているから、全ての場所、院長室にだって入り込めはするが、足だけではそれ以上は出来ない。ましてや、あの抽斗を開けるなど。何せみっしりと……、みっしりと、詰め込んであるからね。彼女は、ずっと打ちのめされ続けながらあそこに存在しているというのが、私の愉悦だった。だから、今は嬉しいが、少し複雑だよ。寂しいというかね」
足が二階にあったのは、彼女が足だけで何らかの打開策を探しているうちに、入口が崩れてあの部屋から出られなくなってしまったからなのだろう。
院長は、室外のナースセンターの方角へ目をやった。“明子”が今も夜勤で働いているはずの、ナースセンターへ。
「今の“明子”のあの顔、そうだ。最後に私を見た時の、あの女そっくりだ。恐らく早晩、私に何らかの……おお」
ぶる、と院長が武者奮いする。
「なぜ、明子にあそこへ行かせたのですか」
「明子の写真はね、とうに始末してある。あんなもので女を縛るなどとは、無粋の極みだからね。ただ、懐かしの彼女に会いたくなったから、戻って来てくれないかと思い、明子には、彼女を迎えに行ってもらったようなものだ。上手くいく保証はなかったが、成功した。あなたには、悪かったね。怖い思いをさせて」
私はその辺りで限界に来て、院長室を後にした。
ナースセンターには、“明子”がいた。
私はその顔を見る勇気が無く、エレベーターへ早足で向かった。
背中にじっと突き刺さる、“明子”の視線を感じながら。
■
冬の半ば、私は昼間に、あの廃病院を訪れた。
院長室へ足を踏み入れる。
事務机の前に立つと、黄色っぽい何かの小さな破片が目に止まった。
しゃがみ込んで見てみる。
爪だ。
明子が、剥がした。あの夜の、最後の明子の名残り。
最下段の抽斗は、開いたままになっていた。
中は空っぽだ。
あの夜、最後に見た眼球を思い出す。
何かを訴えるような眼は、誰のものだったのだろう。
“明子”は院長が施設送りになった後も、今なお同じ病院で働いている。
あの夜以来の、少し変わった顔のままで。
事務机の、最上段と、二段目の抽斗に手をかける。
手前に引くと、どちらもあっさりと開くので、驚いた。
あの晩に、明子が既にこじ開けていたのだろうか。
中には、二段とも、みっしりと、古い写真の束が詰め込まれていた。
この二段が開かなかったのは、このせいか。
写真を手に取り、一枚ずつめくる。
明子が脅しに使われていたらしい物ではなく、どれも健全な撮り方の、一人の女性を写したポートレイトだった。
被写体は全て同じ人物 のようだが、小学生くらいのものから、二十代に見えるものまで、何年もかけて撮り貯められたもののようだ。
院長が撮ったのだろう。
従来の明子によく似ているが、明子ではない。
ただ、顔が変わった後の“明子”とは、表情がそっくりだった。
その時、こじ開けたせいで壊れていたらしく、写真の入っていた抽斗が二段とも、机から外れて床に落ちた。
――泣き顔、笑い顔、澄まし顔、その他、諸々。
“明子”の顔が写った写真は院長室の冷たい床に散らばり、もう動かない。
終