15 銀の聖女・2
『お楽しみのところ悪いが、浸る時間は無さそうだぞ』
ルリエルは脳裏に響くその声で我に返った。
今彼女が使っている肉体は晶のものであり、現在はブラッディーボアゾンビとロードリーパーとの戦闘中なのだ。生を堪能している場合ではない。
『それで、やれそうか?』
再び脳裏に声が響く。頭の中に声が響くという慣れない感覚のせいで気づきにくかったが晶の声だとわかる。
ルリエルは手足を軽く動かして確認してみるが、思っていたよりも違和感は薄く感じていた。これは晶が制御してくれていることによってここまで抑えられているだけであり、本来ルリエルよりも二十センチ以上高い身長の晶の体を乗っ取るだけではここまでうまく体を動かすことはできない。
晶が主導権を握りつつもルリエルに肉体の制御をゆだねているがゆえに、彼女は晶の中に存在する魔力を掌握することができていた。
「……ん、いけそう」
本当はもっと細かく確認したかったが、ブラッディーボアゾンビは待ってくれない。目の前に立つ者の気配がまるで違うことも気にかけず、再び突進を開始していた。
馬鹿の一つ覚えなのか、アンデッド化したことで行動パターンが単純化したのかは不明だが、いずれにせよ脅威であることには違いない。相応の対処が必要だった。
「――《身体機能加速》」
ルリエルが口の中で小さく呟くと、晶の体を流れる魔力に変化が起きた。これまで一度も使われること無く、晶がその存在を認識することができなかった魔力がルリエルの意思によって制御され、術式を刻み、劇的な変化をもたらしていく。
『これは……これが、魔力……!?』
晶は生まれて初めて認識した己の魔力に驚きを隠せない。一度認識してしまえばこれまでわからなかったのが嘘のようだった。
外見は一切変化が無いものの、その内側ではめまぐるしく魔力が、術式が駆け巡り、確かな効果を生み出している。
「ブルォオオオオオオオオオオッ!」
ブラッディーボアゾンビが晶の体に入ったルリエルに迫る。
だが、その速度は先ほどまでに比べると本当に走っているのかと、晶はそんな疑問を浮かべてしまうくらい遅く感じていた。
「ん、行く――」
次の瞬間、ルリエルの姿は銀色の残像を残して消滅した――否、そう錯覚してしまうほどの速度でブラッディーボアゾンビのわき腹にいつの間にか回りこんでいた。
その手にはいつの間にか半透明の、やけに複雑そうな構造をした幅広の剣が握られている。
「遅い」
「ブルァアアアアアアアアアアアアッ!?」
ルリエルはそのまま無造作に無防備なわき腹を斬りつけていた。その剣速は目で追えるものではなく、軌跡がかすかに見て取れる程度に過ぎない。
だが、ゾンビ系のアンデッドはこの程度で倒すことはできない。頭や心臓など、急所を破壊してもう一度死を認識させなければならないのだ。
案の定、突然のダメージに虚ろな目を血走らせ、怒り狂ったブラッディーボアゾンビが衰えぬ動きで勢いよく振り向きながら牙での迎撃を試みる。
「――起きて、《グリュンエルゼ》」
このままでは時間がかかりすぎると判断したルリエルの命令で、彼女の手にあった剣が目覚める。剣の機構が稼動することで形状が変化し、魔力が通うことで発光する内部フレームの一部が露出して碧色の燐光がこぼれ落ちる。そこから発せられる力は、まさに聖剣にふさわしい強大なものだ。
その刃がブラッディーボアゾンビの首を易々と一刀のもとに断ち切り、血飛沫を上げながら巨大な首が転がっていく。速すぎる斬撃に断末魔の声はあがらない。
いくらアンデッド化しているとはいえ生物としての機能を多く残していた大猪は首を失ったことでその場に崩れ落ち、まとっていた瘴気はあっという間に消え去っていった。アンデッドとして滅びである。
しかし、晶はブラッディーボアゾンビを倒したことによる安堵よりも、ルリエルが使用している半透明の聖剣のことが気になって仕方が無かった。
『聖剣が何でここに!? あの森に置いてきたんじゃなかったのか!?』
「ん、これはグリュンエルゼの霊体。森にあるグリュンエルゼの半身。それを魔力で作った器で一時的に再現しただけだから、本来の力の半分くらいしかない。霊体が無い森のグリュンエルゼも一緒」
『あれで、半分……? けどそんな霊体、一体どこにあったんだ?』
「腕のいい鍛冶師が魂を込めて作り上げたものには魂が宿ることがある。その魂は元をたどれば作り上げた職人の一部。グリュンエルゼの霊体は、ずっとわたしと一緒だった。だから、グリュンエルゼの力を全部使えるのは、わたしだけ」
つまり、ルリエル以外の者がグリュンエルゼを使用しても、本来の力の半分程度しか発揮されないということだ。
逆に言えば、彼女が死んで幽霊になってから召喚された勇者はグリュンエルゼの力を半分しか使わせてもらえなかったということでもある。何せ、ルリエルは一度も勇者についていかなかったのだから。
そのことに思い至ったとき、晶はその間に召喚された勇者のことが少し気の毒になった。
『……あれ? その理屈だと、聖剣はお前が作ったってことになるんだが……』
「ん、わたしが作った。わたしは、これでも鍛冶師が本業のドワーフ」
『……ドワーフ? ドワーフってあの、背が小さくて力持ちでひげがすごい、鍛冶が得意な種族だよな?』
「失敬、そんなドワーフは……ほんの少ししかいない」
『少しはいるのか』
ドワーフ族の詳しい容姿について聞かなかったのが悪いのだが、晶は現代日本の多くのオタクたちが思い浮かべるようなドワーフの姿をイメージしてしまっていた。それが間違っているというわけではないが、このエル・ファルシアにおいてそのイメージは一般的なものではない。
この世界のドワーフ族とは、一般的には大人になっても幼い少年少女にしか見えない姿のままの非常に非力な種族である。非力というだけならばエルフ族もそうだが、ドワーフ族の魔力はエルフ族のように高くない。そのせいでかつてエルフ族は同じ源流を持つと言われるドワーフ族を劣等と見下し、非常に仲が悪かった時期もあるくらいだ。
『そのドワーフがなんであんな速度で動けるんだよ? というか、さっきから敵の動きが遅く見えるのは何なんだ?』
ルリエルと感覚を共有している今の晶は、なぜかブラッディーボアゾンビの動きがひどく緩慢に見えていた。絶対的な死を運ぶかのような巨体の突進は、晶たちにはブラッディーボアゾンビが歩いて向かってきているような速度に見えていたのだ。
「それは、わたしたちが加速しているから」
『加速?』
ルリエルが使用したのは《身体機能加速》――身体強化系の最上級魔法である。千年前の段階ですでに遺失魔法と呼ばれるほど使える者がほとんどいない、使い手であっても魔法書に具体的な使い方を遺すことができないほどでたらめな難易度を誇る魔法だった。現在では名前しか伝わっておらず、その術式は完全に失われていると冒険者の間では言われている。
これは単純に筋力を強化したりすることで攻撃力やスピードを上昇させる通常の強化魔法とは違い、身体機能そのものを加速させる。筋力の動きを加速することで攻撃力やスピードを高めるが、加速されるのはそれだけではない。思考速度や神経を伝う脳からの命令伝達速度、果ては代謝速度まで加速され、その結果もたらされるのは圧倒的な反応速度と通常ではありえない回復能力だ。
現に、ロードリーパーはまだ動きを止めているように見えるが実際にはブラッディーボアゾンビを倒してからまだ一秒足らずしか経過しておらず、ダメージの多かった晶の体もいつの間にか小さな擦り傷を残すのみまで回復している。これこそがルリエルを銀の聖女たらしめたものの一端であり、ルリエルがもっとも得意とする魔法である。
もともと、ドワーフ族自体が息をするように強化魔法を使いこなす種族だ。《身体機能加速》との相性は高く、聖剣の担い手であったルリエルが使い手であってもそれほど不思議は無い。
「本当はもっと加速できるけど、魔法に慣れてないアキラの体でいきなり全力を出すのは危険」
魔力と言うものは使えば使うほど魔法の使用が滑らかになり、負担も減って扱いやすくなっていくものだ。試運転もしていない魔力で最上級魔法を扱うのは半ば賭けであり、全力を出した際の反動は想像もしたくないものだった。
現時点でも実はかなり危ない橋を渡っているが、そうでもしなければ死んでいたのだ。このくらいのリスクは甘んじて背負うものだ。
『俺も相応のリスクは覚悟の上でコレをやったが――っと、あいつも動くみたいだぞ』
見ると、ロードリーパーは残った三つの大鎌を構えて今にもルリエルに襲い掛かろうとしている。切り札だったブラッディーボアゾンビが倒されたことで、浄化を抑えている場合ではないと判断したのだろう。
だが、加速しているルリエルたちにはその動きはひどく緩慢に見える。それでもブラッディーボアゾンビよりも機敏に見えるのは、さすがはAランクの魔物といえる。
「ん、問題無い。すぐに――倒す」
そう言いながらわずかに身をかがめると、ルリエルは弾丸のようにロードリーパーに突っ込んでいく。
『オォォオオオンッ!』
「邪魔……!」
ルリエルを迎撃しようと三本の大鎌で斬りつけてくるが、まるで邪魔な木の葉でも払うかのような気軽さで放たれたグリュンエルゼの剣閃が大鎌を寸断していく。普通の金属ではないであろうそれが柔らかな粘土のようにあっさりとバラバラになり、剣の軌跡に沿って碧の燐光が周囲に撒き散らされる様はいっそ幻想的ですらある。
一瞬で武器を失ったロードリーパーは目前に迫る脅威に対して素手でつかみかかろうとするが、大鎌を斬るような相手にそれは愚策としかいえない。自分に伸びる三本の腕を易々と切り落としたルリエルは、そのまま輝きを増したグリュンエルゼを大きく振りかぶる。銀の弾丸は、すでにロードリーパーの懐に入り込んでいた。
「これで……終わり!」
振り下ろされた刃がロードリーパーを両断し、声にならない断末魔をあげながら瘴気と共に消滅していく。消滅せずに残ったのは、バラバラに切断された大鎌の残骸だけだ。
『……すげえ。これが、銀の聖女……か』
圧倒的な力であっという間に二体の化け物を倒してしまったルリエルに、晶はなんともいえない感慨を感じていた。そして、ここにきてようやく自分たちが助かったのだと思い至った。
完全憑依したばかりの体でこれだけ動けたのは晶のサポートあってのものだが、元々ルリエルに実力が無ければこうはいかなかったのは間違いない。
ふと、晶は自分の体からルリエルが抜けつつあることに気づいた。いつの間にか手から半透明の聖剣は消失し、髪や瞳は元の黒色に戻りつつある。まだ肉体の制御はルリエルに預けたままだが、この様子だとすぐ晶に戻ってくるだろう。
「……アキラ、ごめん。少し、使いすぎた」
『え? それはどういう――』
ことだ、と続ける前に、晶は突然重力が何倍にも増えたかのような衝撃に襲われた。
ルリエルが抜けたことで制御が戻ってきた体を自力で支えることができず、彼はその場に倒れ伏してしまった。手足はすっかり脱力し、意識は朦朧としている。
最初は肉体の限界を超えた無茶な動きに耐えかねて全身が悲鳴を上げているのかと思ったが、それにしては筋肉痛も関節痛も何も感じていないことに晶は疑問を深める。
「なん、だ……これ……」
『ん、限界を超えた魔力の使用で起こる反動。魔力疲労ともいう』
《身体機能加速》だけならば、ルリエルが加減していたこともあってここまで負担が増大することは無かった。
しかし、グリュンエルゼを稼動させたことで魔力を一気に消費し、魔力の扱いに慣れていない晶の体にとてつもない負担をかけてしまったのだ。痛みこそ無いが、魔力の筋肉痛とでも称すべきものである。
「……で、これは、いつ、治るんだ……?」
『アキラは初めてだから、動けるようになるまで多分三十分くらい。治るのはもっとかかる』
「……ここは、外壁に近いが、町の外、だぞ……」
『魔物が来たら、わたしがなんとか……』
「…………」
『…………』
「……魔物が来ないことを、祈るか」
『……ん』
あの危機を乗り切るのにそれだけ必死だったのだと自分自身を納得させ、二人は動けるようになるまでその場でじっと待つことにした。
太陽が水平線の向こうにゆっくりと沈み始め、空を茜色に染め上げていく。ぼんやりとした意識の中で聞こえてくる夕暮れ時の風物詩に、晶はこの世界にもカラスがいるんだなとどうでもいいことを考えていた。トトが無事であることは確定事項だと信じて疑っていなかったのだ。
ルリエル「バース○リンク!」
晶『もっと先へ、加速したくはないか?』




