傷口に塩
傷口に塩を直接塗るとかえって治りが遅くなるので良くないそうです.
「傷口に塩を塗られたことがある」
彼は言った.僕は「お姉さんに?」と聞き返す.そして続ける.
「そりゃあ,あるだろうね.僕もあるよ.彼女,そういうの大好きじゃないか.落ち込んでる人間に現実をつきつけては嬉しそうにしてるんだ.ひどいもんだよ.こないだなんてさ,僕は自販機の裏に小銭を落としちゃったんだけど…」
「そういうのじゃない」
突然話を遮られて僕は少しムッとする.向こうも話の意図が伝わらなかったせいか,若干ムッとした表情をしている.
街中で偶然出会って,立ち話も何だと入り込んだ喫茶店.木張りの店内は明るく,ゆったりとしたジャズが流れる.店内に漂う落ち着いた雰囲気を踏みにじるように,お互いのくだらない近況報告と,共通の知り合い,つまり僕の彼女で彼の姉たる人物の持つ加虐嗜好に対する愚痴で盛り上がり,頼んだコーヒーがすっかり冷めてしまったところだった.
「じゃあ,どういうのだよ」
「比喩じゃない.本当に傷口に塩を塗られたことがあるんだ」
■
小学校に入る少し前のことだったそうだ.彼は一人遊びが好きで,その日も一人で近所の廃工場を探検していた.薄汚れた廃工場.じめじめしていて,いかにもモンスターが出そうな雰囲気.少年の冒険心をくすぐるにはうってつけの場所だ.
そこで彼は,放置されていた角材に躓いて転んだ.体に走る痛み.膝からは血が出た.胸躍る冒険はおしまい.一気に現実に引き戻された彼は,わんわん泣きながら家に帰ったらしい.
ちょうどその日,親は留守にしていて,家には彼の姉しかいなかったらしい.彼女は泣きわめく彼をなだめ,庭の水道で傷口を洗い流してくれた.落ち着いた彼は何があったのか話し始めた.話すも何も「廃工場で転んだ」というただそれだけなのだが.
それを聞いた彼女の表情は凍りついた.
「あんな錆だらけの汚いところで転んだならバイキンがいっぱい入ってるよ.それに,あそこはもともと薬品工場だったからどこにどんな物質が浸み付いてるかわからない.ちゃんと消毒しないと傷口から菌が広がって足が腐っちゃうかも.そうしたら足を切り落とすことになっちゃうよ」
彼女は一気にそう言うと,慌てた様子で家の中に引き返していったそうだ.彼は突然足を切り落とす可能性を示されて,わけもわからず庭でただ泣き喚いていたらしい.そうしているうちに彼女が戻ってきた.手には絆創膏と,塩を持っていた.
「家の薬箱に消毒液がなかったの.でも大丈夫.塩には殺菌効果があるからしっかり塗り込めば体の中に入った悪い菌をやっつけてくれるよ」
そういうと彼女は傷口に塩を塗りたくった.傷口に塩の沁みる痛みは壮絶で,彼は泣き叫んだが,彼女が「足を切り落とすことになってもいいの?」と言うので必死に我慢した.一通り塗りたくられたあと,恍惚とした表情で傷口に絆創膏を貼る彼女を見て,彼は彼女の中の狂気に気づいたのだという.
■
「それでさ,次の日,気になって薬箱を見てみたら,あったんだよ,消毒液.」
僕は「まじかよ」と呟いた.
「嘘だったんだな.『傷口に塩を塗り込む』ための.お前が小学校に入る前ってことは,彼女,まだ小学校の低学年だろ.その頃からそんな感じだったのか」
「昔からそうだったよ.周りは『読書が好きなおとなしい子』ぐらいにしか思ってなかったけど,俺にとっては恐怖の対象でしかなかった」
吐き捨てるように彼は言う.
「そう,本当に全部嘘だったんだ.あの凍りついた表情も,焦った様子も.転んだぐらいで足を切り落としてたまるか.今思うとあの工場が昔,薬品工場だったってのも嘘だな.なんで薬品工場に角材が置いてあるんだよ」
彼はそこまで言うとコーヒーを一口啜った.そしてさらに話を続ける.
「抗議したんだよ,その後.消毒液あったじゃないかって.嘘だったのかって.そしたらニコニコしながら,『ロビンソン・クルーソー』に書いてあったからって言うんだ.傷口を塩を塗り込むシーンに脚注がついてて,『塩には殺菌作用があるので傷口の消毒に使われたが,非常に沁みるため拷問として使われることもあった』って書いてあったんだってよ.で,ごめんねって一言付け加えるから,こっちはそれ以上何も言えなくなっちまうんだ」
僕も目の前のコーヒーを啜った.あとから親が消毒液を買ってきたとかいくらでも言い訳ができそうだが,あっさり認めてしまうのが彼女らしい.それで適当に一言謝って,終わりにしてしまう.うむ,実に彼女らしい手口だ.この手法が小学校のときにはもう編み出されていたというのだから恐ろしい.
彼は最後にこう付け加えた.
「カワクボさん,あんた最近姉さんと住んでるんだろ.薬箱に消毒液があるか確認しといたほうがいいぜ.傷口に塩を塗られる前にな」
■
「ああ,その話ですか」
彼女は大して興味もなさそうにそう言った.年下の彼女は,いまだに僕に対して敬語を使う.長い睫毛.きりっとした目に控えめな唇.彼女の端正な顔立ちは,一般的に見ても綺麗な部類に入るはずだし,僕にとってはたまらなく美しかった.
「君の加虐趣味が小学校時代から始まっていたなんて,思わず身震いしたよ.なんでそんなことをしようと思ったんだ?」
「ちょっとした実験ですよ.好奇心です.ていうかそんなに大した話じゃないですよね,それ.消毒液でもどっちみち沁みるんだし.言われるまで忘れてました」
何を今さらそんなくだらないことを,とでも言いたげな表情だ.僕は「ふむ」と唸る.
「で,どうだったんだ?」
「何がですか?」
「実験で得られた知見は」
「ああ…」
彼女は少し考えるそぶりを見せ,こう言った.
「痛そうでしたね」
当たり前だろう!僕は彼女の弟が不憫に思えた.年上の僕に対して敬語も使わない生意気な奴だが,わけのわからない実験に利用され,その結果を「痛そう」で済まされてしまう姿はあまりにも可哀想だ.今回は割り勘にしたが,次回はコーヒーを奢ってやろう.
「あ,もしかして塗ってほしいんですか?傷口に塩」
彼女が聞いてくる.さっきまでのどうでもよさそうな素振りが嘘のように目が輝いている.
「違うよ.勘弁してくれ」
言いながら,僕は傷口へ塩を塗りたくられる痛みを想像して少し興奮した.本来なら痛いのは嫌いだが,彼女に与えられると思うと悪くないというか,むしろ….いや,だめだ.こういう考えで受け入れてしまって,当たり前になるうちに彼女の行動がエスカレートしていく.いつものパターンだ.妄想を頭から振り払う.
彼女はそんな僕の姿を見て意味深に微笑んだ.