第3章:宣戦布告
第3章:宣戦布告
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2030年2月20日、午前9時、中国・北京
中南海の地下通信室に、赤い封印を割る音が響いた。
その封筒には、中央軍事委員会主席の朱天龍の直筆印が押されていた。
「『日本国に対し、限定的軍事行動の実施を通告する』——」
大理石の床に、誰かの足音が反響した。
やがて、それは電波に乗って世界中へと拡散された。
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同日 午前9時02分 日本標準時
首相官邸・地下危機管理センター。
総理大臣・川石茂は、苦い沈黙の中で声明文草案を読み上げた。
「本件は、局地的かつ偶発的事案であり、外交的解決を最優先とする。……防衛出動は命ずるが、戦争状態には当たらない。」
その言葉に、作戦統括官の目がわずかに揺れた。
「総理、それは——国民に真実を伝える言葉でしょうか?」
朝倉は短く答えた。
「真実かどうかではない。“暴発を防ぐ言葉”だ。」
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午後2時28分
中国国営放送「CCTV」は特別編成を組み、
声明を荘厳なBGMとともに全国放送した。
「中華人民共和国は、本日を以て、
主権を侵害した日本国に対し、
軍事的手段による正当な措置を開始する。」
「これは“侵略”ではない。
“矯正”である。」
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午後3時10分 東京・渋谷駅前
スマホの画面には、ライブ配信が映っていた。
あるユーザーが、静かにコメントを投稿した。
「これは戦争だろう。
違うって言うなら——
なんだと言うんだよ?」
投稿から3分後、そのコメントは削除された。
だが、既にそれを見た者たちの記憶には刻まれていた。
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午後5時 官邸前
報道各社がマイクを向ける中、川石茂総理は静かに語った。
「この国は、戦争はしません。
防衛出動は憲法の範囲内です。
国民の皆さん、冷静に対応をお願いします。」
だがその横で、秘書官の一人がTwitterにこう書いていた。
「開戦はしていない、らしい。
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その夜。
防衛省市ヶ谷地区、地下の防衛中枢。
重厚な鋼鉄の扉が閉じられる音だけが、張り詰めた空気の中に微かに響いた。地下深く、蛍光灯の白い光が任務遂行の決意を宿す幕僚たちの顔を照らし出す。
「日本海に、直ちに海上自衛隊の艦艇を集結させる。」
低いが、確固たる語調が室内に響いた。作戦室の大型モニターには、日本海の荒々しい海面が映し出されている。
「航空自衛隊も同様だ。小松、新潟、輪島…日本海沿岸の全航空拠点を即時展開。対空警戒を引き上げろ。」
別の幕僚が、地図を指し示しながら、冷静かつ迅速に指示を重ねる。
「陸上自衛隊は、首都圏と北海道の防衛体制を再構築する。第一級警戒態勢を敷け。」
緊張感が走る中、一人の幕僚がわずかに眉をひそめた。
「北海道は、現状維持でよろしいかと。ウクライナ情勢の余波は、まだ北方に集中していると分析します。」
モニターに映る地図を睨みながら、最初の幕僚は短く答えた。
「…状況は流動的だ。念には念を入れろ。各幕僚は、担当戦域におけるあらゆる可能性を考慮し、最適解を導き出すように。」
室内に、再び沈黙が訪れる。だが、それは静寂ではない。それぞれの胸の内には、国家の命運を託された者たちの、静かな決意が渦巻いていた。彼らの視線は、未来の不確実な影を見据えている。
2030年3月20日 東京・市ヶ谷 防衛省 地下作戦本部
モニターに映る衛星画像は、何も語っていなかった。
それが逆に、不気味だった。
「ミサイルの発射兆候はゼロです。レーダーにも軌道はなく、電波照射も確認されていません」
統合幕僚監部の分析官が、沈黙の中に報告を絞り出す。
「中国からの宣戦布告は“事実”。だが、軍事行動の実態はゼロ。これでは“戦争”とすら呼べない」
幕僚長が唇を噛みながら言った。
「挑発されているのは明らかだ。だが、日本は専守防衛。こちらから先に撃つわけにはいかない――たとえ、敵が刀を抜いて目の前に立っていても、斬りかかってくるまでは動けない」
「そんなバカな話があるか……!」
若い幕僚が思わず声を荒らげるが、誰も反論しなかった。
“法”が抑え、“信念”が縛り、“現実”が追いつめる。
敵はそれを熟知していた。
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同じ頃、ホワイトハウス 情報ブリーフィングルーム(SCIF)
アメリカ国防総省からの報告は、次のようなものだった。
「中国は南シナ海で艦船展開を強化。フィリピン周辺のスプラトリー諸島付近に、揚陸艦数隻出現。一方、日本本土近海の動きは“戦略的沈黙”。現段階では、宣戦布告は外交陽動、あるいは“戦略的撹乱”」
ブリーフィング室の奥で、ひとりのアナリストがつぶやく。
「日本は専守防衛――つまり、撃たれない限り撃てない。中国は、それを“盾”にして自由に動いているんだ」
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東京・総理官邸
川石茂総理は苦々しい顔で口を開いた。
「ミサイルが飛んでこないから“平和”とするのは、甘えだ。だが、実際、撃ってこない敵に撃ち返すわけにもいかん」
机上の資料に目を落としながら、続ける。
「専守防衛の原則は、日本が戦後積み上げてきた“信頼の証”だ。だが今、それが我々の“無力の証”として使われようとしている」
外務省の官僚が進言する。
「現状は、“戦争の構えを見せることで外交空間を得ようとする演技”と見られます。おそらく、南シナ海のいずれかの島が本命の目標です。台湾、あるいはフィリピンです」
「……中国は、“撃たない”ことで、我々を縛ってくる。“攻撃”をしないことで、“攻撃”してくる。そういう時代に、我々は生きているんだな」
2030年4月15日 東京・市ヶ谷 防衛省 地下作戦本部
薄曇りの空の下、防衛省地下に続く長い廊下を、制服の足音が響いていた。
状況ブリーフィングの中、自衛隊幹部の一人が、淡々と、だがどこか誇らしげに口を開いた。
「時間が、ありました」
モニターには九州北部から中国地方、そして関西までの地形データが精密に映し出されている。地上レーダー、PAC-3、地対艦ミサイル、電子戦車両の配置が緻密に可視化されている。
「中国が“何もしない”戦術を選んでくれたおかげで、こちらは全力で備える時間を得られました。西日本の防御線は、冷戦時代以降で最も重層的かつ堅固です。いかなる攻撃であっても、正面突破はまず不可能です」
隣の席に座っていた海上幕僚監部の担当者が、タイミングを見て口を開く。
「そして本日午前5時をもって、すべての潜水艦戦力が西日本周辺海域に集結を完了。東シナ海から日本海にかけての水中戦域は、完全に網を張り終えました」
その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まった。
「敵艦の接近は、もはや“見逃しようがない”。水中でも、こちらの目は開いています。音の一つ、振動の一つすら、検知網に引っかかる。潜んでも、隠れても、逃さない」
若い幕僚がもらす。
「撃てない代わりに、こちらは“見続けている”というわけですね……」
幹部は頷いた。
「専守防衛とは、“動かずして封じる”ということだ。これが我々なりの“抑止”だ」
しかし、総合幕僚長が冷ややかに口を開く。
「だが忘れるな。我々がどれだけ備えても、“その時”が来るとは限らん。問題は、撃たれるか否かではない。撃たれるかもしれないという緊張に、いつまで国も国民も耐えられるか、だ」
再び室内が沈黙する。
全ての剣が鞘に収まったまま、すべての盾が掲げられている。
日本は、攻撃せず、しかし確実に“戦場の準備”を完了していた。
2030年4月17日 中国・広東省 湾岸軍港
夜明け前、濃い海霧の奥に、静かに動き出す鋼鉄の群れがあった。
最初にスクリューを回したのは、「崑崙山」級揚陸艦・山河。
続いて、「井岡山」「長白山」「老鉄山」といった同型艦が順に曳航を解除し、ゆっくりと湾を滑り出す。
東の水平線が赤く染まり始めたとき、
その数はすでに9隻の揚陸艦と10数隻の護衛艦艇に達していた。
砲塔が冷えた鉄の匂いを帯び、
通信マストには人民解放軍海軍の第4戦隊旗が高く掲げられている。
岸壁では、地元の住民たちが**“愛国集会”と称された歓送セレモニー**の中、手を振っていた。
一部のカメラマンが、「これは日本への出港か」と尋ねると、
指揮官の一人は、こう笑った。
「行き先は、海だ。
海はどこにでもつながっている。」
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午前6時34分、第一波艦隊が湾外を出た。
速度は維持しつつも緩やか。
明らかに即時上陸作戦を意図した構成ではない。
だが、それが逆に世界をざわつかせた。
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米インド太平洋軍・作戦センター(ハワイ)では、衛星映像が解析されていた。
「……数は揚陸艦クラスで9隻、駆逐艦8、補給艦2、通信支援艦1……」
「数的には**日本侵攻には足りない。だが、**目的地が台湾なら話は変わる」
午後、その艦隊は東シナ海へと進路をとった。
行き先は不明。
だが、動きが“目的”になっていた。
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4月25日 横須賀基地
第七艦隊旗艦「ブルーリッジ」が静かに湾を出た。
空母「ロナルド・レーガン」もその後を追う。
目指すは、フィリピン沖——南シナ海の中心部。
司令官のホーランド提督は声明を発表した。
「これは警告でも挑発でもない。
単なる“航行の自由”だ。