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第2章:照射

第2章:照射

発生日:2030年2月17日 場所:日本海中部海域 記録種別:軍事対峙事例

日本海中部——その日は、神さえも息を潜めるような、重苦しい朝だった。濃密な霧が水平線を曖昧にし、灰色の空と鉛色の海は溶け合い、世界の輪郭をぼやけさせていた。

「いなづま」の艦内は、張り詰めた静寂に包まれていた。冷たい湿気が、まるで生き物のように鋼鉄の壁を這いずり回り、微かな振動が、この俊敏な駆逐艦の神経を苛立たせていた。海上自衛隊が誇るむらさめ型汎用護衛艦の三番艦。全長151メートル、満載排水量4,500トン。それは、最新鋭のフェーズドアレイレーダーと、獲物を逃さない光学追尾装置を搭載した、海の精悍な狩人だった。近接防御火器システム(CIWS)、対艦ミサイル、魚雷、そして強靭な127mm速射砲。その艦名が示す通り、稲妻のごとき速度と、深淵に潜む破壊力を秘めていた。

その「いなづま」は、刻一刻と悪化する事態を受け、海上保安庁の巡視船を支援するため、荒れる海原を切り裂き、最短距離で現場へと急行していた。

「前方、視界に中国艦一隻。距離、10海里。進路、このままでは交差します!」

艦橋に、目に見えない重圧が急速に満ちていく。各員の顔には、拭いきれない緊張の色が滲んでいた。

眼前の多機能ディスプレイに、ぼんやりとした影が浮かび上がった。それは、敵——**中国人民解放軍海軍054A型フリゲート「臨沂リンイー」**の艦影だった。無機質な光を放つその姿は、静かに、だが確実に、「いなづま」の進路を塞ぐように迫っていた。

その瞬間だった。「臨沂」の艦橋から、まるで鋭い針のような、白く輝く線状の光が一瞬、奔った。

「レーザー照射だ!波長は近赤外、高出力!」

けたたましい警報音が、艦内に響き渡る。それは、平穏な海を切り裂く、戦いの序曲だった。

一瞬、航法装置の表示がちらつき、精密な光学センサーがまるで悲鳴を上げるように、数秒間完全に沈黙した。「目視装置、過熱警報!」

「いなづま」は、研ぎ澄まされた刃のように、即座に応じた。

——レーザーによる応答照射。

目には見えない、だが確かに存在する光の奔流が、敵艦に向けて報復として放たれた。それは、飽くまでも攻撃ではない。国際法に則った、正当な防御措置。だが、その「防御」という言葉の裏側に、どれほど鋭利な刃が隠されているのかを、世界の知る者は知っていた。それは、一触即発の均衡を保つ、危険な遊戯だ。

その均衡が、唐突に崩れた。「敵艦、『臨沂』、急旋回!進路変更、こちらの右舷へ、急速に接近!」

それは、友好的な接近ではなかった。明らかに、衝突を意図した、危険な“突進”だ。「距離、急速に接近中!このままでは、回避は不可能!」

艦橋内の緊張は、一気に臨界点を超えた。誰もが息を呑み、心臓の鼓動が耳に響くほどだった。張り詰めた空気の中、艦長の、低く、だが決然とした声が響いた。

「……警告射撃、実施」

次の瞬間、「いなづま」の艦首に据えられた高性能20mm機関砲、CIWS(近接防御火器システム)が、唸りを上げながら目標を捉え、その銃口から、怒涛の砲弾が海上に叩きつけられた。炸裂音と水柱が、敵艦の目前に立ち昇る。

だが、その警告は、まるで存在しないかのように、「臨沂」の突進を止めることはなかった。レーザーでは止まらない。威嚇射撃でも、敵意は衰えない。

「主砲、照準!目標:敵艦艦橋上部、非致命箇所!」

艦長の冷徹な命令が下る。直後、「いなづま」の艦首に搭載された127mm速射砲が、轟音と共に火を噴いた。巨大な砲弾が、空気を切り裂き、目標へと一直線に飛翔する。

着弾。

凄まじい爆風と黒煙が、「臨沂」の艦橋を瞬時に包み込み、甲板には無数の火花が飛び散った。鋼鉄が軋み、焼け焦げた臭いが、潮風に乗って「いなづま」の艦橋にまで届いた。

衝突まで、あとわずか。その寸前、「臨沂」は、ようやく速度を落とし、大きく艦体を傾けながら、辛うじて回頭を始めた。

沈黙が、再び海を支配した。荒々しくうねっていた鉛色の海は、まるで何もなかったかのように、静かに、だが確実に、「臨沂」を「いなづま」から引き離し始めた。

その夜、東京の防衛省で行われた記者会見で、報道官は硬い表情で、しかし静かに語った。「今回の火器使用は、飽くまでも自艦の防御を目的とした、必要最低限の措置であります」

だが、その言葉が、どれほどの重みを持つものだったかを理解する者は、多くはなかっただろう。それは、単なる一隻の護衛艦の、一瞬の判断ではなかった。それは、長らく均衡を保ってきた、戦争という名の境界線に、初めて、小さな、だが決して消えることのない火を灯した瞬間だったのだから。



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