第1章:海底の影
第1章:海底の影
2030年2月15日 06:10 JST
日本海 大和堆南西海域
空はまだ暗く、雪の名残が波間を漂っていた。
日本海の冬は、音すら冷たく砕ける。
その海域に、2隻の白い影が北上していた。
海上保安庁所属の大型巡視船、PLH08「えちご」とPLH21「いず」。
「えちご」は基準排水量3,000トン級、ヘリ格納庫を備えた大型ヘリ搭載型巡視船。
「いず」はその姉妹艦であり、巡視船としては極めて高性能な監視・通信装備を誇っていた。
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艦橋の中で、**「えちご」船長・矢野政春(52)**はレーダー画面を覗き込んでいた。
「距離、30海里。中国の海洋調査船とみられる目標、停止中。……護衛艦らしき艦影も1」
通信士が声をひそめる。
「警告発信しましたが、返信ありません」
矢野はゆっくりと肩をすくめた。
「まあ、想定内だな。『調査』って言葉が好きな国だからな」
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対艦レーダーは、海面下の様子まで捕捉していた。
中国艦船は、複数のワイヤーを海底に向けて伸ばしており、
その末端には多関節型の海底掘削機らしき構造体が映っていた。
「いず」の通信士、**若槻明日香(三等海上保安官・28歳)**は、モニターを睨みながらつぶやく。
「掘ってます……完全に、鉱床かレアアース狙いです。しかも、排他的経済水域ギリギリ」
副長の西村が苦い顔をする。
「護衛付きの掘削なんて、“軍事演習の名を借りた領土確定”と変わらん」
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07:20。
視界の端に、新たな艦影が現れる。
「……もう1隻来ます」
若槻の声がわずかに上擦った。
その艦は、グレーの鋼鉄を波間に滑らせながら、
艦橋に中国人民解放軍の軍旗を掲げていた。
海軍の江衛級フリゲート艦と見られるその艦は、
「えちご」と「いず」の進路をなぞるように、並走し始めた。
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矢野船長が静かに呟く。
「こちらの進路を測ってるな。ぶつかりはしない。けど、伝えたいんだ」
「ここは、俺たちの海だ」と。
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07:36、外務省からの連絡が艦橋に届く。
『自衛隊派遣は検討せず。
中国側との外交交渉に集中する。
巡視船は現場監視を継続せよ。ただし挑発的な行動を避けること。』
通信士が困惑の表情を見せた。
「つまり……見ているだけ、ということですか?」
矢野は頷いた。
「そういうことだ。
“自衛艦が出るのはエスカレーション”——
これは、我々が聞いた、最も丁寧な撤退命令だ」
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それでも「えちご」と「いず」は、海を離れなかった。
任務は“監視”だった。
だがそれは、無力であっても、この国の輪郭を維持するための最後の行動だった。
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「主権というのは、奪われる時には砲弾は飛ばない。
見ているうちに、それが“無意味”になっていく。
だから、海に立つしかなかった。」
——矢野船長、後の手記より
07:42 JST
中国艦が急に針路を変更。
「えちご」の左舷側、約1,200メートルまで接近してきた。
艦橋内の警報が低く唸る。
「スクリューの回転数、上がっています!」
若槻が息を呑む。
「フルパワーじゃない。威嚇航行だな」
矢野船長は落ち着いた口調だったが、その眼は油断なく艦橋窓の向こうを見据えていた。
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突然、「いず」のレーダーに異常が走る。
「電波干渉です。こちらのXバンド、潰されかけています!」
通信士が指差す先には、
中国艦の主砲塔横に設置された電子戦装置が、鈍い紫色の光を発していた。
「レーダーロックまではしていない。ただの“照射”。だが、距離が近すぎる」
副長の西村が低く言った。
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07:50。距離950メートル。
中国艦は、まるで巡視船に並走するように海を滑る。
その甲板上には、防弾チョッキを着た兵士が4名、こちらをじっと見つめていた。
そのうち1人が、スマートフォンで「えちご」を撮影しているのが確認された。
「……威嚇が“記録”されてるな。“こちらに非がない”証拠として。”」
矢野が呟いた。
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08:03。事件は起きなかった。だが、何かが削られていた。
「えちご」の艦橋は、薄暗く静まり返っていた。
誰も口を開かない。
ただ波の音と、干渉で断続的に揺れるレーダー表示だけが、現実を物語っていた。
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「撃たれないから平和とは限らない。
撃たれなくても、“主権が消える瞬間”というのは確かにある。」
——巡視船「いず」副長・西村の証言
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08:20 JST。巡視任務は継続されたが、
その後も数日間、中国艦は大和堆海域に常駐し続けた。
海保の交代班が現地に到着したとき、
矢野は静かにこう言った。
「誰も気づかないだろうが——
今日、この海のルールが一つ、書き換えられた。」