正しき死体は魔女と踊る
一、死体の男
この国はどこへ行っても土の味がする。
赤く腫れあがった頬。切れた唇から砂混じりの血を吐き出した。乾ききった地面に赤色が散る。玉のように噴き出した汗が黄色い砂丘にしみを作る。周囲に建物はなく、厳とした岩肌が広がっている。その向こうには、果てなき砂漠。
命からがらという表現が一番似合う状態だった。
今日がいつなのか、まったくもってわからなかった。そうだ。いつしか日付を数えるのもやめてしまった。視界のはるか下を流れる威照河の水位を見るに、播種期(冬期)の終盤というところか。地下牢の中にいる間に、季節をひとつ越してしまったらしい。
ここはどこなのだろう。看守の目を盗んで脱獄したはいいが、あてどなく走り人気のない場所を目指したらここに行きついた。白冠の街を見下ろす丘の上。近くには王墓の連なる埋葬地、坂羅がそびえ立っている。
息を深く吐き、強く殴られて半分も開かない目蓋から、夜闇を覗く。
西の空にひとつ、星が輝いていた。
「……ぁ」
長らく使っていない声帯から、潰れた音が出る。
天狼星だ。暦を教える星にして、神託を得る星。三百年前には、太陽よりも信仰されていた星。かの国の巫女の星。
そして、俺が牢に入った原因。
「……クソが」
豆だらけの掌に血がにじむほど、強く拳を握る。
泥にまみれた頬を、勝手に流れ落ちるのは涙。
胸を襲うのは、屈辱と、怒りと、絶望と。
そして、あまりにもあっけらかんとした解放感だった。
思想犯、と言えば正しいのだろうか。
鳥族の下級貴族の家に生まれ、武術も学業も手を抜かず、順調にキャリアを積み新米だが王墓の設計技師までになった俺に待ち受けていたのは、至極明快な転落だった。精緻に王への信仰心が組まれたこの国で、滅んだとはいえ敵国の神の名を口にするのはシンプルに罪であった。俺はそこを見誤った。
そう、それだけ。そのまま行けば土方の花形である王宮勤めの設計技師長だった俺の未来は、砂の城よろしく崩れ去った。
そう、面白くはない人生。
「……ッ」
昂った体に意識を呼び戻すと、伸びきった暗緑色の前髪が視界に入った。
浅い呼吸の拍を無理やり変調するように、深く息を吸って吐いた。
「へえ、随分使えるじゃあないか」
細い目の男はにやつきながら言った。順当に行けば今日から俺の雇用主になる男だった。瞳の奥には縦に長い瞳孔がある。鱗のある尾。尖った耳。鰐族だ。
包帯が巻かれた拳からは血がぼたぼたと落ちている。自分の流したものではない。目の前には干からびたように地面に広がる男。動かなくなるまで今しがた俺が殴った相手だった。弱くはなかったが、ゴロツキの喧嘩では生きていけない部類の男だった。真っ直ぐな拳だけでは実戦では役に立たない。一方俺はといえば、長年の監獄暮らしのせいで悪意しかない暴力の類は慣れたものだった。
「実力もあり礼儀もある。用心棒として申し分ない」
将来の雇用主は満足げに目尻を伸ばしている。
「私などには勿体ないお言葉です」
心にもないことを口から出す。この類の詭弁は流石に言い飽きた。
勿論、先ほどの経歴についてこの男は一切知らない。この男が欲しているのは腕が立ち使い勝手の良い用心棒、ただそれだけだ。その要望に応えれば簡単に雇ってくれる職場だった。今の俺には丁度良かった。
鼻を擦ると、香炉から燻る香りが脳を襲う。その花の蜜のように甘ったるい香りは毒にも思える。いや、人間を酔わせるという意味ではどの道毒だ。暗い部屋。淫靡な空間演出のために貼られた派手なカーテンと絨毯には、消せない饐えた匂いがこびりついている。窓はない。暗闇に灯るのは色とりどりの硝子が折り重なったランプ。漏れた光は柄をそのまま壁に投影している。
「採用しよう」
砂を隠すなら砂の中。
罪人を隠すなら歓楽街である。
階下の廊下を、衣装から過剰に金貨をぶら下げた踊り子たちが通っていく。その昔、流浪の踊り子が全財産を体に纏っていたことから生まれた衣装だが、今となってはもう形骸化したデザインでしかない。
その豊かな体は商売道具。ここにいる女は皆踊り子の姿だが、それは舞台のためだけではなく男性の上や下で腰を振るためのものだった。
新しい職場。早い話が娼館の用心棒。
「早速今日から現場に入ってもらうよ、オシ」
頬に傷のある糸目の男は、その桃色の長髪を揺らした。
オシ、俺の新しい名だ。そして、ありきたりな名でもあった。よっぽど特殊な環境で育ちでもしない限り平民は文字が読めないので、忍塚、という本来の名は目立つ。親の名前から漢字一文字取ったりするのは文字が読めるという高慢の表れだった。
「かしこまりました」
俺はそっけない顔で承諾した。
見たところ、この小さな娼館は結構儲かっているらしい。
夜になるとひっきりなしに客が来るのはそうだが、この狭苦しい空間で働く者の数も多い。娼婦の数は出入りが多く把握できないが、用心棒は俺のほかにもう一人、いかにもちゃらついた男がいる。住み込みの下女も五人。下女の中には捨て子や奴隷の子だろうか、年端もいかない女もいた。 「大変申し訳ごさいません」
まだ十かそこらの少女が、光の消えた目で言った。
客の服には赤色の葡萄酒のしみ。遠目で見ておそらく絹の服だ。雲桟国からの輸入品で値が張るものだろう。
そう。少女は客に運ぶための盆をひっくり返したのだった。牛族の中には大きな角を持つ者もいて、少女はまさにそれだった。壁代わりにぶら下がっている緞帳に引っかかったのだ。
客は暴れ牛のごとく怒りだした。少女の黒い髪を引っ張り耳元で怒声を浴びせている。客に指名されていた女郎は恐れを成して寝台の奥の方に逃げた。
少女は華奢な体を縮こませていたが、その瞳はもう慣れたものだとでも言いたげに黒い。その様子が嫌になまめかしく、俺は怒り散らかしている太った男よりも下卑たものを見てしまったような気持ちになった。数日間観察していて思ったが、この下女は多分店主の相当なお気に入りなのだ。顔もいいし、体つきも将来性があるため未来のために飼っているというのもあるのだろう。牛族の女は発育が良いらしい。
店主によるとこの客は随分と金払いがいいらしく、手出しはしないようにときつく言われていた。雇用主にそう言われてしまえば俺は静観するしかない。耳障りな金切り声を聞き流しながら、じっと客を観察する。胸元に隼日神殿の印章。下っ端だろうが神官か。金払いが良いのは納得だった。
いくら怒鳴っても反応が鈍い下女に痺れを切らしたのか、太った客はその丸々とした拳を振り上げた。ぼんやりと見上げる少女の顔に、腕の影が落ちる。
考えるより先に体が動いていた。
俺は客の腕を掴み、背負い投げ床に叩きつけた。生きるか死ぬかの相手と戦ってきたのだ。このくらい朝飯前だった。
「……か、は」
客の丸い体が絨毯の上にごろりと転がる。体型も相まってボールのような滑稽さがあった。
「困りますねぇお客さァーん。こいつァ大事な売りもんなんだわ。傷が付いたら商売にならねぇだろ」
その苦痛に歪み切った顔をわざと覗き込む。
客は地面を這いつくばり強打した背中をさすりながら立ち上がった。意外としぶとい。
「手を出したらどうなるかわかっているんだろうな? わ、私は隼日神殿の神官だぞ!」
よく鳴く客だ。甲高い声は先ほど下女を罵っていた時と同じだが、その声音は少し震えていた。ありがたいことに俺を恐怖してくれているらしい。
「逆に聞くけど、神官様のご身分でこんな場末の娼館に来てるだなんてバレたら大変なんじゃねえの? というかあんたの稼ぎじゃ文字が読めるような女買えるだろ。あぁ、そうか。賢しい女じゃ頭が足りないか、あんたの」
とんとん、と客のつるりとした額を人差し指で叩いた。
「なにを……! 摘発してやる!」
「ご自由にどうぞ。ここの首長を潰せる自信があるならな」
ここのシマはあまり素行の良くない人間が治めている。それこそ俺が投獄された原因である千夜国出身の流れ者たちで形成された、暴力を生業とする集団が。王でも手を焼く相手。故に暗黙の了解となっている人間たちだった。こんな末端の神官に潰せるはずがない。
客の顔から一気に血の気が引く。そしてそのまま逃げるように店を出て行った。
「……やっちまった」
小さくなる丸い背中を見つめながらガシガシと頭を掻いた。いくら頭に血が昇ったからといってあれはやりすぎである。太客を一人おじゃんにしてしまった。
「あ、あの」
目線の下から、弱々しい声がした。
「ああん?」
幼い声がした方に振り向くと、あの牛の下女がこちらをじっと見つめている。
何を考えているかわからない潤んだ瞳はまさに牛のそれだ。細い尻尾は嬉しそうに揺れている。「旦那様」
相変わらずあどけないが、確かにはっきり口にした。
「は?」
「やっぱり星が交わる日だった。会えて嬉しい。イシの、愛しの旦那様」
言っていることの意味が理解できない。
俺は数秒きょとんとしてから、薄く生えた髭を撫でた。
「何を勘違いしてんのかわかんねえが、俺はお前の旦那様じゃねえぞ。お前の旦那様は店主だろ」
「あんなの旦那様じゃない。あなたこそが、イシの旦那様だよ」
イシと名乗った少女は、柔らかい黒髪を揺らして微笑んだ。
その弱冠十歳の目線は、明らかに熱情が籠るもの。
変なのに懐かれてしまった。完全に思い込みが激しい脳内お花畑のタイプだ。こういうのに優しくする時は気をつけないとミイラ取りがミイラになる。子供だからといってその素質がある女に構ってはいけない。そう本能が告げていた。魔性がある。
俺は再び頭をボリボリ掻いて、ため息をついた。
その日から娼館の中で見つかる度にイシはくっついてくるようになった。
何度引き離そうとしても旦那様、旦那様と言ってつけ回してくるので、数日経つ頃には相手する気力もなくなり適当に応対するようになっていた。本当に面倒な女。
「あのなあ、良い加減旦那様はやめてくれねぇか?」
暗い路地裏でシャワルマ(薄いパンに野菜と回転グリルした羊肉を包んだ軽食)に齧り付きながら俺は言った。お情けとしか言えないような短い休憩時間をこの女との会話に割くのは正直遺憾だったが、少しでも心的被害を減らせるならしょうがない。
「じゃあ、オシ」
イシは相変わらずニコニコしながら小さな口でシャワルマを頬張っている。もそもそ食べるその感じがやはり牛が草を食んでいる姿と重なる。牛族ってみんなこうなのか?
「……まあいいか」
今のは半ば自分に言い聞かすために言った。
「オシは太陽の舟って知ってる?」
イシは俺を見上げ言う。口の端に肉のカスがついている。俺は腰にぶら下げた布巾でその口を拭った。一瞬だけ、イシの大人びた顔が年相応にくしゃくしゃになる。
「新年祭の舟神輿だろ」
「違う」
イシはふるふると首を振った。
「太陽の舟は全ての病を治癒する舟。三百年前、千夜国との戦争で使われていた伝説の戦艦。坂羅のどこかの墓に埋まっていると言われている。生命の根幹がそこにある。だから不治の病も治る」
その小枝のような細い指で、俺の胸をなぞった。
鈍く痛みが走る。イシの指が軌跡を描いた下には、誰にも見せていない不可解な傷があった。
まるで、それを知っているかのような。
「それなら、オシのこの傷も治せるかもしれない」
「なぜ、それを」
俺の一族に受け継がれる呪い。
他言無用のその傷を、なぜただの奴隷が知っている。
「大切なことは、ちゃんと覚えてる。オシの胸には緑色の傷があって、オシの一族は生きたまま死体になる病気を持ってて、オシはあと五年の命」
全部本当の話だった。
俺の一族には遺伝病がある。歳を重ねるごとに体が緑色に化膿していくのだ。そしてそれは、三十二歳を迎えるころには全身に広がり、生きたまま死体となるように息を引き取る。信じられるかどうかは別として、俺の祖先は千夜国の神官家、特に裁判を司る家だった。照耀国との戦争の時、照耀人を大量に裁いたため、その犠牲者の呪いがかかっているというのが幼いころ散々言われた話だった。三百年前に懸けられた呪いが、刻一刻と体を蝕んでいる。
俺の人生には常にタイムリミットがちらついている。
二十七歳、あと五年。牢獄の中で生ける屍として余生を送る選択もあった。しかし、このまま何事も為さないで終えるのは不服だった。だから脱獄した。
落ちるところまで落ちたのなら、せめて、この傷の謎をひとかけらでも解明してから死んでやる。
俺はこの少女の詳細を知らない。しかしその糸口を少しでも掴んでいるのなら。
冷や汗を垂らしながら、唾をのんだ。
「お前、何者だ」
イシは大切なものに触れるかのように、俺の胸に頬ずりをする。
そして、愛をささやくように、言う。
「だから、オシのお嫁さんだよ」
魔性の少女は、思わせぶりに瞳を潤ませた。
仕事を終えて、住居も兼ねた詰所に戻ってきた。
男二人詰め込むにはいささか狭すぎる部屋に、布を敷いただけの寝床。薄汚れた布の上には俺より数刻早く退勤した相方が寝転がっていた。空は白んでいるだろうが、この地下空間に明かりはない。油を皿に引いた簡易ランプを床に置いて、汚れた腰布を巻きなおす。
「イシも月のものが来たかあ」
相方がぼやく。濃く甘い顔つきにうねった黒髪を編み込みにしており、いかにも女にだらしなそうな男だった。自分がモテると自覚している厄介なタイプだ。
「お前下女のそういうこと把握してんの? 気色わりぃな」
「違うわ。ここの店主処女が好きなんだよ。また早々にお手つきになっちゃうなあって」
その言葉の裏を一瞬想像してしまい、軽く吐き気が襲った。こんな場所では日常茶飯事なのはわかっているが、なんせ数年前まで潔癖な貴族社会にまぎれていたためまだあまり耐性がなかった。
ばれないように吐き気を飲み込む。
「けっ、マジでクズしかいねえな」
幸い相方は気づいていないようで、口を尖らせて反論する。
「店長がクズなだけで俺は違うもんな」
あのぬるぬるした男と一緒にされたのが心外だったのだろう。声を張り上げた。
そんなこと抜かしていても同じ穴の狢なのは事実である。視覚と違い耳は塞げない。娼婦の噂話は嫌でも入ってくる。
「前の職場の踊り子に手を出して子供産ませた挙句捨てたってのは俺の聞き間違いかな」
「あれはあの女がわりぃの! 避妊薬飲んだって嘘つかれて遊ばれたのはこっちだ。俺だって、叶うなら幸せな結婚をしてえよ……かわいい奥さんと、食べるものに困らない生活と、あったかい家庭と……」
相方は両手で顔を覆ってごしごしと擦った。
「……まあ、俺たちみたいなのが普通の幸せを望む方がおかしいか」
こんなところに行きつく男は、前科のひとつやふたつ負っている。じゃなきゃこんなイカ臭い穴倉で暮らす理由がない。
「……そうだな」
監獄に入ってこの方、将来の生活など考えたこともなかった。そんな余裕はない。これからのことなど。
この男の淡い夢は、俺には一生無縁の話だな、と思うだけだった。
何か悪い予感がして、数時間で目が覚めてしまった。
二度寝の気分でもなかったので顔を洗おうと、共用の洗い場(と言っても水がめが置いてあるだけだが)に向かう道中、曲がり角を小さな人影がふらりと通った。
「おい!」
手に持った布巾を放って走り出す。
見間違えようがない。イシだ。
壁に手をつきながらよろよろと歩いている。脚に力が入らないのか、細い脚はがくがくと震えていた。朝日に照らされた顔は蒼白。今にも倒れそうな感じだった。
ぐらり、と上体が傾く。
寸でのところで受け止める。イシはそのまま胸の中に自重を預けてきたが、信じられないほど軽かった。
「イシ、お前大丈夫か?」
イシはちらりと俺の顔を見た。
「大丈夫。こういうの慣れてるから」
明らかな作り笑顔だった。
その目尻には、うっすらと涙の跡が浮かんでいる。
玉のような汗。首筋の赤いうっ血と歯形。なにが起こったのかは明白だった。
「慣れちゃダメだろ、慣れちゃあ……」
昨日の相方の杞憂は的中したのだ。
許されない蛮行が行われているにも関わらず、その惨状を甘んじて受け入れている彼女に、何とも名状しがたい、苦い気持ちがこみあげてくる。
イシの肩を掴み、体から引き離す。真っすぐ彼女の光のない瞳を見つめる。
「わかってるのか。子供産まれるかもしれないんだぞ」
窓から斜めに差し込む朝日は、彼女のぼんやりとした顔に光の粒を落とす。
「うん」
「うんじゃねえよ」
感覚として本当にわかっていないのだろう。それはそうだ。彼女の育った環境がどんなものであれ、こんなところに行きつくなんてまともな教育は受けていないに決まっている。
「よぉく聞け。こういうことは、好きな人とするもんなんだ」
「オシ?」
「ちげえよ」
間髪入れず返すと、イシは不服そうに目を伏せた。長いまつ毛が頬に影を落とす。
「……でも、好きな人はオシだから」
「ダメだ。せめて胸と尻がデカくなってから出直しな」
「けち。この体じゃ女として見てくれないんだ」
「話を逸らすな。あのな、あの男は自分の快楽のためにお前を道具として扱っているんだ。お前はそれでいいのか?」
「別になんでもないよ。男の人なんてみんなそんなものでしょ」
イシはさも当たり前のように言葉を発した。そして、ゆっくりと小首をかしげた。
息を飲む。
狂っている。この環境も、そうさせた大人たちも。
「ふっざけんじゃねえ!」
俺の怒声に、イシの薄い肩がびくりと震えた。
「そんな悲しいことがあってたまるか。行為は行為自体に意味があるもんじゃねえんだよ。相手への慈しみがあって初めて行為という名のコミュニケーションになるんだ。そんなことも……」
そんなことも、教えてもらえなかったのか。
何に怒っているのかわからなかったのだろう。イシは小さな口をポカンと開けた。やがてなにか一人で納得したようで、少し非難を孕んだ声音で言葉を発した。
「理想主義者」
「なんとでも言え」
吐き捨てるように言うと、イシは再び俺の胸に顔を押し付けた。
その圧迫感に、緑の傷がじくじくと痛む。
「うん。貴方はどの貴方でも公正で、厳格で、そして」
服が少し濡れたのがわかった。泣いているのだ、彼女は。
「……苦しいほどに優しいんだね」
その日の夜、案の定店主に呼び出された。
「オシさあ、イシをかどわかしたでしょ」
「滅相もございません」
反射的に返す。
片膝をつき首を垂れているので店主の顔はわからない。唯一解るのは、この店主の部屋の香が一層強く焚かれていること。それは彼の機嫌の悪さを暗示していた。
「知ってるよお、イシがオシのこと旦那様って呼んでるの」
粘性がある声音が近づいてくる。
「イシはね。僕が拾ってきたんだ。怪しい教団の根城で神様扱いされてた。いや、魔女だったかな? 彼女には子孫繁栄のご利益があるとかなんとかで、相当酷いことされてたみたいだね」
彼女の事態は俺が想像したよりもずっと悪質なものだった。あの思考にならざるを得ない環境で育ってきたのだ。幼少期から尊厳を壊された子供。道具としてしか他者から認識されなかった子供。俺はまたこみあげてくる吐き気を抑えるので必死だった。
息がかかるくらいの耳元で、店主はささやく。
「商品を買う人はね、大概の場合クオリティを求めているんじゃないんだ。その商品についている物語を消費しているんだよ。そして彼女の場合、肉体の将来性に加えてもあまりある物語がある。そんな商品を汚した君はどうやって落とし前をつけてくれるのかな」
見えないが、屈んだ店主が下品な笑みを浮かべたのはわかった。
俺はなるべく表情を変えず、淡々と言う。
「いいですよ。内臓でもなんでも」
「そういうことじゃあないんだよなあ!!!!」
上体を起こしながらいきなり大声を上げた店主に、流石に驚く。
「罰を罰として捉えられない人間に罰を課しても意味がないだろう。うん、君に一番効く罰はわかっている。元葬祭殿所属王墓設計技師の忍塚さん?」
「……ッ」
顔を上げて、店主を睨む。
いつの間にかソファに腰を下ろした店主は、その桃色の髪を派手な扇で仰ぎながらにやついている。華美に付けた安い装飾品が揺れる。
「君の居場所を王に告げれば、君はまた牢獄の中だね」
ここでいくら平謝りしたとして、この男が口に戸を立てるとは思えない。どう動いてもこれからの五年はまた水の泡になる。わかっている。やっとここまで来た。この機会を逃すわけにはいかない。
ならばすべきことは一つだ。
天井から垂れ下がっている羅紗布を引っ張る。布を釣っていた竿が落ちてくる間に部屋から飛び出した。
騒音を立てて店主の部屋の「擬態」が壊れていく。浮き立った埃に鼻を擦りながら、欄干に手をかけそのまま一階に飛び降りた。
騒然となる娼婦たちを横目に狭い廊下に走っていく。裏口まで出られればこちらのものだ。
次の角を曲がれば裏口、その時だった。
「おっとお、そうはさせねえよ!」
裏口の前に、元相方が立っていた。持っているのは木の棒だけだが、彼が見た目にそぐわず素早く動けることを知っている。
舌打ちをする。この狭い娼館に閉じ込められたら逃げ場はない。ここで引き返して正面玄関から出たとして、騒ぎにならない確証はない。早速万策尽きたか。いや、最初から逃げ場なんてないか。
「オシ、こっち」
ふと、右の通路から声がした。
そのまま暗闇に引きずり込まれる。確かここは物置で、しかも行き止まりだ。
「逃げるんだね」
明るい場所から一気に暗くなったから顔はわからないが、イシの声だ。彼女の冷静な声に皮肉にもほっとしている自分がいた。
「オシが逃げるなら、イシも一緒に行く」
気が動転していた。いつもなら反論するところだが、言葉が出てこない。
「イシとなら、オシは太陽の舟を見つけられる」
俺の腕を包む細い手は、食い込むくらい堅く握られている。
「オシを呪いから、解放してあげる」
この上なく力強く、真摯な言葉だった。
ふと思う。これまで彼女が嘘を吐いたことなど一度もない、一度たりとも。
俺はそれを知っている。彼女は律儀に恩を返すし、彼女の愛は増水期の威照河のように深い。
(……なぜ、それを知って)
「こっちにいたぞ!」
我に返る。暗闇に慣れてきた視界で、イシが倉庫の奥に体を向けたのが見えた。
腕が引っ張られる。
「早く」
イシは嗜めるような目線を向けるが、確かその先は何が入っているかわからない木箱しかない。
「待て、こっちは行き止まり……」
深呼吸する音が聞こえた。
「炎の王よ。我は彼の巫女には在らねども、其に忠実なる魔女。小さき炎を一筋扱い賜ることをお許しください。坤儀より高楼に接続。力を貸して、イフリータ」
イシの瞳が金色に輝き出す。
「それは……」
端々が簡略化されてはいるが、聞いたことがある呪文だった。
先祖代々謎の病に対し、なにも対策してこなかったわけではない。俺の家は照耀国の貴族ではあるが、王に見つからないようひそかに千夜国の文献を集め、病の完治方法を探していた。その文献の一つに今の言葉が載っていたのだ。
千夜の呪文。
滅んだ国の、名前さえ忘れ去られた王の、圧倒的神力を借りる呪文。
イシの掌で一瞬だけ炎が舞い踊る。それはすぐに消えてしまったが、木箱の一つに引火した。
その瞬間、轟音とともに木箱が破裂する。
「おい、イシ⁉」
爆風に身が一瞬のけぞる。俺は思わず目を閉じた。
煙があたりに充満している。視界は悪いが、腕には柔らかい手の感触がある。幸いイシはがっしり俺の腕を握っていたため吹き飛ばされなかったようだ。
そして後に残ったのは、地面にぽっかりと空いた穴。
「地下室?」
「行くよ」
大量の疑問符が消えないままイシに手を引かれる。
ぐらりと体勢が崩れたかと思うと、俺たちは奈落の底に落ちて行った。
舞い上がった埃に咳き込みながら目蓋を持ち上げると、瓦礫の外に広がっていたのは予想外に整頓された空間だった。
天井の穴から差し込む光に照らされた地下室は暗闇の奥へと直線状に続いており、部屋というよりかは廊下のようだ。壁も床もよく磨かれた石畳で、明るかったら自分の姿が映りそうなほどにつるりとしている。
この構造、俺の見間違いでなければ。
「王墓……」
まるで地下にある城郭だった。
俺が数年前まで設計に携わっていた墓そのものだ。そういえばここは王の埋葬地として名高い坂羅からそう離れていない。王の墓は侵入者を排除するために罠や迷路を仕掛けるのが一般的であり、誰かの墓のその一部に落ちてきたのだろう。
「イシの予想通り。ここの娼館に入り込んでいた価値があった」
イシは自慢げに言った。
「入り込んでいた? お前、攫われてきたんじゃねえのかよ」
「んふふ。そうなるよう仕向けたのはイシだよ。信者にちょうどここの娼館まで導いてくれそうな人間がいたからね。ちょっとけしかけてみたら成功した。運命は糸のようなものだよ。衣の完成形が見えたら一本一本丁寧に紡げばいい」
「うーわ。なんか急に寒気がしてきたな……」
イシが言うことが本当なら、全て先読みをして俺までたどり着いたことになる。最悪な環境に甘んじていたのも計算ずくだったのかと思うと、隣にいる少女がなんだか哀れな子供なんかじゃなくて……。
「あの男も言ってたでしょ。イシは、魔女だよ」
やはり鼻を鳴らして、少女は自慢げにほほ笑んだ。
「急いで。今にこの穴も見つかる。奥に行こう」
ひんやりとした広い空間に、無数の像が立っている。
通路の先を護るように配置された像は犬の頭の男性の像たちで、これは墓を護る神として現在も信仰されている神だった。起源は千夜国にあるというが、千夜の遺物は照耀王家に大半は抹消されているので、残存する数少ない千夜信仰のひとつだろう。あるいは、死という凶事にまつわるから残されているのかもしれないが。
正中を真っすぐ走る通路の先には、堅く閉ざされた石の扉がある。扉は堅く閉ざされており、遠くから見ただけでもちょっとやそっとじゃ開く様子がない。これも侵入者を防ぐための防壁だ。
「そんな……」
イシから絶望の声が漏れる。行き止まりまでは読めなかったのだろう。薄々感じていたが、イシの予知能力も万能じゃないらしい。
「やっと見つけたあ!」
背後から声が飛んでくる。
恐怖と狂気の使い方を弁えている声。俺とイシが振り向くと桃色の髪の男とその配下が迫っていた。首長から借りてきたガタイの良い用心棒たちを十人ほど従えている。
店主の金靴が磨かれた床を叩く。そのたびに甲高い音が鳴る。
「クソッ……早いな」
イシの手を取り通路の奥へと走る。
俺の足の速度にイシはもつれそうになるのを転ばないよう必死で脚を動かしていた。
「逃げるの? 無駄だってえ。君たちもう囲まれてるんだよね」
男たちは非情にも迫ってくる。決して焦ることなくじりじりと追い詰めてくるようなその歩みは、より一層恐怖を植え付けるためのもの。こちらには余裕があるぞ、適わないぞ、という意思表示だった。
俺はちらりと天井を見た。
地面と平行に平らな岩が渡されている。岩は一定の間隔で溝が彫ってあり、縞模様を描いている。
しめた。このタイプの墓なら希望はある。
(何も出口がないように思えるが、この構造だと……)
部屋の隅を観察する。予想通りだ。目的の物が沈んだ闇にまぎれるように存在していた。
「イシ、ちょっと耳貸せ」
牛の耳がぴくりと動いた。複耳の種族の者は動物耳の方が聴力と方向感覚能力が高いため、普段会話に使っている人間耳ではなくそちらを使いわけていると聞いたことがある。
敵方に聞こえないように、最小限の声で囁く。
「この墓の構造だと、上に重力調整の空洞がある。俺が時間を稼ぐ。そこの空気取りから上に潜り込め。空洞には大概罠の操舵室がある。頭がいいお前なら使いこなせるだろう」
平行屋根の墓は重力が上にのしかかる都合上、力を分散させるため部屋の上に三角屋根を作るのだ。力を二方向に分けることにより、倒壊を防ぐことができる。
それに加えて、大きな墓だと死後も葬祭殿の人間が儀式に使ったりするため、罠もはめ殺しにならないよう操作できるようになっている。そしてその場合、墓泥棒に見つからないよう「空間があるわけはないと思い込んでいる場所」に操作する場所を作る。小柄な人間なら入り込める空気穴に繋げて操舵への通路を掘り、行き来できるようにするのだ。設計技師時代の知識がここで役に立つとは思わなかった。
「俺が合図したら、罠を発動しろ」
「でも、オシは」
イシは不安そうな目を向けてくる。黒い瞳は濡れていて今にも涙が落ちそうだった。
俺は繋いでいた手を解くと、小さな頭を撫でた。
「はッ、手のかかる子供を置いて死ぬわけねえだろ?」
子供扱いされたことが不服だったのだろう。イシは頬を膨らませて口を尖らせた。
「……ばか」
小柄な少女は体を離した。
裸足のまま部屋の隅の暗闇へ駆けていく。ペタペタと地面を踏む様子は幼さを感じさせるが、今はそれに賭けるしかなかった。
イシの逃亡に、用心棒のひとりが気づいた。
用心棒たちは少女の背中を追わんと一斉に走り出した。俺は先頭を行く男の前にすかさず陣取り拳を構え、そのまま下あごを突き上げた。俺より二回りも大きい巨躯は無残にも地面に伸びた。
雑然とした隊列に動揺が走る。
一般的に俺のような鳥族はどちらかというと体が弱い。この国の文官を鳥族が牛耳っているのは種族差別と貴族の選民意識からだけではない。肉体より頭脳が発達しているのである。鳥族の男に狗族や蹄族が一泡吹かせられるとは思っていなかったのだ。
「クズにガキは渡さねえよ」
俺は再び拳を握りなおした。
目を白黒させる男たちをかき分けて、桃色の髪の店主がぬるりと躍り出た。
「君も僕も、同じようにクズだろ。肥溜めに行きついた人間に、貴賤があると思ったら大間違いだ。いくら忍塚様がお貴族出身だとしたってね」
鰐の男は黄色の目を細めて鼻で笑った。
店主が指を鳴らすと用心棒たちに緊張が走る。一斉にかかれの号令だ。俺一人に対して九人がその体躯をしならせ、八方から重い拳が降りかかってくる。
「ああ、そうだな。クズだよ。クズだけどよ」
天井をちらりと見て、数歩後退する。
深く、息を吸う。
「女を泣かせる趣味はねえなあ!」
この空間全域に響き渡るように、柏手を打った。
それが合図だった。
時を告げる鐘のように、轟音が鳴り響く。
それは砂漠では滅多に降らない雨が来る前兆の、雷の音にも似ていた。雷は古来より、千夜の主神、枢神が来迎する音だとも言われる。嵐と戦争を巻き起こす音。過酷な砂漠を拡げる音。黒い夜に世界を終わらせる音。
俺の丁度目の前に岩の衝立が降りてきた。衝立は部屋を二つに分断するものであり、圧し潰されたらひとたまりもないだろう。男たちは後ろにのけぞった。
罠の構造は簡単である。天井の溝は飾りではなく、板状の岩がはめ込んであるのだ。岩には穴が開けられており、そこに一本棒のようなものが通してある。操舵室のレバーを引くと、その棒が背後の扉に近い方から抜けていく。棒が抜けた板は支柱を失い地面に落ちる。
ごおん、ごおんと雷鳴を響かせながら、岩が落ちてくる。
砂埃を巻き上げて、大広間は細かく仕切られた部屋になる。
「やめろおおおおお!」
遠くで店主の断末魔が聞こえた。
それほど経っていないだろう。やがて、全ての音が止んだ。
「イシ、よくやった!」
天井に向かって叫ぶと、心配させないで! と返ってきた。
背後で、また物音がした。同じ岩の雷鳴だが、いままでとは違い俺には祝福の歌のように聞こえた。閉ざされていた出口への扉が空いたのだ。
光が差し込む扉の向こうに、迷うことなく俺は歩みを進めた。
光だと思ったのは太陽からのものではなかった。
扉が開くと勝手にランプが点く構造になっていたらしい。人工の明かりは煌々と輝いて、部屋を埋め尽くすものに乱反射していた。
「玄室……」
極彩色に塗られた棺に、びっしりと壁画が描かれた壁。そして部屋の主を囲むように配置された金銀財宝。金塗りの財宝たちは装飾品や貨幣だけでなく、椅子や手鏡に至るまでここで暮らしていけそうなほどの日用品まで取り揃えられていた。
いつの間にか操舵室から戻ってきたイシは、財宝を手に取り吟味し始める。
「捧げられた財宝に価値はないけど、一、二個くすねて行こう。これからの生活の足しにはなる」
「だからって人のもの盗んじゃだめだろ」
「罪人の癖に何言ってるの。ここに人はいないよ。死者が蘇ることなんてない。ならばこれは誰のものでもない金と宝石」
イシは財宝の中でも小ぶりな首飾りを懐に入れた。
死者の蘇生を強く信じる者が多いこの国に住んでいる割には、えらく現実的な発想だなと思いながらため息を吐いた。確かにイシの言う通り、先立つものなど何もない。
「生活ねえ……」
一緒に住む気満々じゃないか。もとよりこの押しの強い少女から逃げられるとは思っていないが。
イシは俺の気持ちなんてつゆほども気にせず、上機嫌に鼻歌を歌っている。
「見えるの。オシとイシは、いずれ最高の相棒になる。イシは魔女。オシは墓の設計に詳しいでしょ。二人なら、最強の墓泥棒になれる。太陽の舟も見つかる」
気に入ったのか、太陽の形を模した頭飾りを被りながらイシは言う。地味なものを選んでいるあたり、盗品を売りに出した時変に疑われるのを避けているのだろう。周到な女である。益々この少女の年齢がわからなくなってきた。
「まったく……運命だかなんだか知らんが勝手に俺の将来のことを決めるな」
苦し紛れに悪態を吐くも、イシの耳には完全に入っていない。
将来、なんて考えたこともなかった。書記官になり建築技能を学び、葬祭殿に入ったのだって病を治す糸口を探すためだった。両親も、親戚も、同じ病で若くして死んでいるのだ。なんとしてでも呪いを断ち切りたかった。
ずっと、一人で。
だがもう、一人じゃないのだ。強引にも程があるが、運命を共にしてくれる者が現れた。その者の姿は幼く、謎も不可解なことも多いが、知恵と勇気を確かに持つ。相棒としては十二分だった。
屈託なく笑顔を見せる少女に、なんだかくすぐったい気持ちになりながらつられて笑う。
「……まあ、その生活も少し面白いかもな」
別にまんざらでもないのだ。多分、ずっと昔から。
二、魔女の呪い
魔女。
気が付いたら言われていたその侮蔑の言葉は、もはや水よりも身に馴染んでいる。
丸太に括りつけられた両腕。見せしめに高台に立たされ、やることもないので地面の砂粒を数えていた。両脇には槌矛を持った衛兵がいる。だから、何。私には何も関係がない。
いわゆる魔力を修行の類なしで扱える人間はごくわずかだ。私はそのわずかな人間のひとりだった。小さいころから難しい詠唱などなくても土を操れたし、植物を活性化させることもできた。調子に乗って使いまくっていたら、いつしか人々は私のことを忌み嫌っていた。
私を見上げる民衆は石でも投げてきそうな勢いだった。さぞムカつくでしょうね。学も巫女経験もない女が、血が滲むほど努力しても得られるかわからない魔力をのうのうと使いこなしているなんて。
だから、罰。
罰なのだ。例え私がやったことじゃなくても、その責任は私にあるのだろう。だって、みんなより優れているんだもの。魔術が扱えることに対する税のようなものだ。身に覚えのない罪など散々背負わされている。
だから、もうあきらめている。
「判決を言い渡す。この女は無罪だ」
緑髪の、ダチョウの羽を耳の後ろから生やした裁判官が言った。
「……え」
その判決に、一同騒然とする。そりゃそうだ。私だって驚いているんだから。
「この魔術痕跡はこの女のものではなく……」
裁判官は周りなど気にせず、淡々と理由を告げる。その様子は冷静でかつ自信に満ちたものだったから、民衆の熱は段々と収束していった。
私はというと、今起こったことが信じられなくて何も内容が入って来なかった。
私が、無実? いままで全部私のせいにしてきたのに? 私は、穢れた魔女なのに?
今更、いまさら!
……私は、赦されるの?
千夜国中央裁判所横の庭園は薄紅色のエリカの花が咲き乱れ、ここが荒山の谷だということを忘れさせるようだった。蝶が舞い、噴水が緑を彩る。これも安定した治水が成せる業だろう。
回廊を通り過ぎる広い背中を追って、手を掴み引き留める。先ほどの裁判官は、いたって冷静に振り向いた。白い衣が風に舞い上がる。
名前も知らぬ裁判官の顔をまじまじと見る。黒い瞳は月のない夜のように静かで、褐色の肌は赤い砂漠を思わせた。
絵巻で見た森林のような色の髪だ、と思った。静謐、その言葉を体現しているかのような。
「なぜ私を無罪にしたの」
聞かずにはいられなかった。理由じゃない。納得として。
「無罪だからだ。証拠が揃っていた。なにより貴女がそんな行動を取る意味がない。罪を犯さぬ者に正しい判決を下しただけだ。貴方の経歴は聞いている。そのすべてを調査したわけではないが、明らかな冤罪ばかりだった。今まで、ずっと辛かっただろう」
胸を締め付けられるような感覚が襲った。
私が、辛い?
そんなこと言われたって!
変だな。胸の柔らかいところからこみあげた涙が溢れて、ぼろぼろと落ちていく。地面に水滴のしみが広がっていく。
変だと言えばさっき、判決が下された時からそうだ。安易に泣きたくなるくらい胸が苦しいのだ。手足も縛られていないのに、縛られているような。それとは反対に、頭に血が上って頬は上気している。
私は、多分、馬鹿になってしまった。
「お、おい」
気づいた時には胸に飛び込んでいた。初対面の男にこんなことするのは無礼だとはわかっている。
(でも)
誰も私を信じてくれなかった。
嘘を吐いたことなど、ただの一度もなかったというのに。
それでも貴方は。
「初めて、私を信じてくれた」
白い衣を、両手で握りしめる。
「一生かけて、貴方に呪いをかけるわ」
私にはそれしかできないから。
それでしか、恩を返せないから。
「貴方にあまりある豊穣と、祝福を」
裁判官はしばらくぽかんと口を開けていたが、言葉の裏を察したのかいきなり私の肩を掴み、体を引きはがした。
「待て、俺についてくるつもりか」
「当たり前でしょう。魔女は恩を忘れないし、魔女の愛は増水期の威照河のように深いのよ。一生をかけて愛す。貴方が望んでなくても」
そう、愛すの。憧れだった。好きな人に一生を誓って、一生尽くすこと。
私には分不相応な願いだと、わかっているけれど。
普通の人間は、機微とか色々大事にして、ゆっくりと距離感を詰めるんだってことはまあ理解している。でも、嫌われ者の魔女にはそんな余裕はないの。
「厄介な女に好かれてしまったな……」
予想に反し、男は少し眉根を寄せてため息を吐いただけだった。その場から一目散に逃げられる前提だったので、なんだか拍子抜けしてしまった。
でもまあ、乗ってくれたならこちらのものだ。
「んふふ、残念でした」
少し背伸びをして、その乾いた頬に軽く唇を落とす。
流石に動揺したのか、男は身を引いた。
「初対面でいきなりキスするやつがあるか!」
慣れていないのだろう。耳まで真っ赤に染まって、ダチョウの尻尾はふわふわ逆立っている。かわいいな、と思いつつ私は目を細めた。
「でも、まんざらでもないでしょう?」
図星だったのか、男は照れを隠し切れない様子で顔を覆った。
「それは……はあ、しょうがねえな」
次の瞬間、唇に感触があった。がさがさした表面は手入れされていないもので、力加減がわからないとでも言いたげに自信なく震えていた。あまりこういった駆け引きを経験していないのだろうな。私はというと、経験だけは沢山あった。愛のないものなら。
肌と肌が離れる。
ただ唇を合わせただけのキスになんだか笑ってしまう。相手の方はというと余裕がないのかぜえぜえと息を切らしている。
「不器用」
「自分から誘っといて文句垂れんな」
男はくちばしを突き出すように下唇を尖らせた。
その様子に笑いが堪えられなくなってしまい、最後には爆笑と言っていいほど腹の底から笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
「おい、笑うな。茶化したのなら容赦しねえぞ」
「違うの、そんなつもりじゃなくて」
涙を拭いながら息を整える。
「……貴方、本当に優しいのね」
こんな柔らかなくちづけ、やっぱり初めてだったから。
「どう見ても死んでるが応急処置はした。私は行く」
赤い鳥の羽に黒い蛇の尻尾を持つ異形の男は、そっけなく言って寝室を去っていった。
「すみません、あの人いつも無礼で。あとできつく言っときますんで」
小麦色の巻き髪を持つ山犬の娘が庇う。彼女はあの男に対していつも憎まれ口を叩いているが、愛情の裏返しなのだろうな、ということは伝わってくる。あの男の話をしているときの彼女は、なんだかふわふわしているから。
「いいのよ。さっぱりしてるのも緋砂様の長所だわ」
目の前には清潔な寝台。そこに寝かされているのは紛れもなく私の夫だった。体はばらばらに引き裂かれ、雨後群生する植物のように青々としていた髪は今や枯れ木のようにかさかさだった。
この状態で、残酷にも、生かされている。
「……忍野さん、毒を直に浴びたから長くは持たないかもしれません。とりあえず死体のつなぎ合わせはやってみますが……」
死に逆らう行為。千夜の化け物が散々重ねた罪のひとつだった。あれに飲まれぬよう足掻く彼女にそんな道を採らせたのは他でもない私で、理由があっても許されないことなのは理解していた。
「ごめんね、来楽。辛い選択をさせてしまって」
自分でも狡い女だなと思う。こんなんだから魔女と言われるのだ。
来楽は気づいていない様子で、ふるふると首を振った。
「そんな、いいんです。一番辛いのは、衣梓さん、貴女でしょう」
その言葉に、一瞬目を開く。
ごまかしたくてほほ笑んだ。そうか、私って辛かったんだ。今更だ。
今の夫に初めて会った時も指摘されたというのに、いい加減学ばないな。
無意識に臨月の腹を触っていた。中の子が壁を蹴った。この子は父なし子として生まれてくるのだ。私がしっかりしないといけないのに。
「しばらく二人きりにさせて」
来楽は静かに頷くと、何も言わず部屋を去っていった。
窓の外では、淡い月の光を受けて、都が銀色に輝いている。
「辛いのは貴方も一緒ね」
その乾いた褐色の頬を撫でた。触れると熱かった肌は、今や冷たい置物だった。
私たちを護るため、生まれてくる子に美しい世界を見せるため、戦場に身を投げたのはわかっている。貴方はずっと優しくて、不器用だけど周りのことをちゃんと見て、考えているから。
でもそれって、すごく辛いことなの。私がその半分でも背負えたらよかったのに、貴方はきっとそれも許してくれないのでしょうね。
だから私は、せめて自分ができることを。
この子が生まれてくる国の、未来に託すわ。
「大丈夫。魔女はね、生まれ変わっても覚えてるから。一生かけて、貴方に呪いをかけるわ。そして、季節が廻り星が揃ったら、私がそれを解きに行く」
自分に言い聞かせるように、誓うように、祈るように。
「それまでゆっくりおやすみなさい。愛しの、旦那様」