EP 37
窓の方を頑なに見ているので、その表情はわからないけれど、白井さんは少し俯き、そして続けた。
「リバウンドしてもいいってことですか……?」
「……ん。いいと思うよ」
「でもそれじゃ、せっかくのび、ビフォーアフター……が……」
頬だけでなく、声も震えている。
はっとした。
そのやわもちアイスに光るものが。
「ゆ、優里さん?」
そっと肩に手を置くと、白井さんが振り返って俺を見た。その反動で、ぽろぽろっと涙が落ちる。
「ど、どうしたの! なんで泣いてるの!」
ごくっと唾を飲み込んだ音がした。や、これはタクシーの運転手のものだ。固唾をのんで見守っているようだが、なんか気になるぅ。
だが、それどころではない。
「優里さん、なにか辛いことがあったの?」
「……うっ、ふぅっ」
涙が溢れ出てくる。俺は慌てて上着のポケットからハンドタオルを出して、そっと白井さんの頬に当てた。
「もしかしてまたあの三羽烏に嫌がらせされてるの?」
「いえ」
「じゃあ黒田くんのことで悩んでる?」
「ち、違」
「職場で何か言われたの? あ! あいつ? 滝沢バナナになにか言われた?」
「そうじゃないんです」
「じゃあそいつに告られたとか?」
ピクッと白井さんの身体が跳ねた。この反応はやっぱり。
腹の底で大人しくしていたマグマが沸騰した。
ごごごっと噴き上がってきて、俺の心臓や頭を燃やしていく。自分を保てなかった。黒い気持ちがせりあがってきて。ヤケになってしまったと言ってもいい。
「そう。そうなんだ。優里さん、モテ期突入だね。黒田くんといい、あのバナナヤロウといい、モテモテじゃない? だったらさ、やっぱりこのままダイエット続けた方がいいんじゃない? そしたらさ、もっとモテるかもよ」
黒々とした液体はついに俺の口を占領してしまった。
「そっかそっか、なるほど! 優里さんはモテるためにダイエットしてたってわけだね。で? どっちいくの? 黒田くん? それともあのバナナ? はは! 二股って手もあるか? じゃあ、そこに俺も入れてよ。俺も合わせて三股……」
「もうやめてくださいっ!!」
白井さんの渾身の叫びに、俺はようやく口を止めた。
白井さんはガバッとカバンを引っ掴むと、赤信号待ちで止まっていたタクシーのドアを開け、降りてしまった。
黒いマグマが口から、目から、耳から、身体中から噴き出したことは覚えているが、なにを言ったんだ、俺?
「ゆ、優里さんっ!!」
俺はバシンと閉められたドアに食らいついた。が、「あんちゃん! 青! 青!」運転手の声に前を見ると、信号はすっかり青へと変わっていた。振り返って見ると、白井さんは横断歩道を渡り終え、向こう側へと走っていく。その後ろ姿。
やってしまった。
いや、俺、いったいどうしちまったんだ?
そんな俺を気にすることなくブウゥーとタクシーは走り出した。
少しして、「あんちゃん、どうすんべ? このまま彼女んちでいいかい?」
送り先は、白井さんのアパート。ここからは目と鼻の先だ。
「あ……えっと……さ、財布」
カバンから財布を取り出す。けれど。
「……すみません。行き先を三田町に変更してもらえませんか」
自分の家だった。俺は震える手で掴んでいた財布を、カバンへとそっと戻した。