第百四十四話 天城越え
山中幸盛はテレビっ子だ。ゆえに、見始めたらキリがないので、毎朝、新聞の番組欄に目を通してこれぞという番組を予約録画し、大体寝る前の十時頃から、民放はコマーシャルを飛ばして視ることにしている。
最近はバラエティが多く、ドラマはNHKの朝ドラと大河だけで他の番組はほとんど見ない。音楽は「詞」よりも「メロディー」を重んじるため、若い頃は意味が分からなくても洋楽ばかり聴いていた。かといって音楽番組を録画してまで視聴しようとは思わないが、この一年間にどんな曲が流行って話題に上がったのか最低限知っておこうと、大晦日のNHK紅白歌合戦は録画してあった。
それを視始めたのは数日経ってからのことで、最終盤で石川さゆりの『天城越え』を聴いて、今さらながらに詞の内容に度肝を抜かれた。
これまでは、吉岡治作詞のこの曲の
「誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか」
があまりに強烈過ぎて、他の箇所はじっくり聞いていなかったらしい。それが今回、これほどまでに強烈な歌詞だったのかと、あらためて思い知らされた次第だ。
隠しきれない 移り香が
いつしかあなたに 侵みついた
誰かに盗られる くらいなら
あなたを殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿
九十九折り 浄蓮の滝
舞い上がり 揺れ墜ちる肩のむこうに
あなた……山が燃える
何があっても もういいの
くらくら燃える 火をくぐり
あなたと越えたい 天城越え
ふたりで居たって 寒いけど
嘘でも抱かれりゃ あたたかい
恨んでも 恨んでも 躰うらはら
あなた……山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地を這って
あなたと越えたい 天城越え
これほど情念の強い女がこの世に実在するのだろうか、と首を傾げたとき、三十年ほど前の、公営団地に住んでいた頃のことが思い浮かんだ。
八月の蒸し暑い夜七時頃、六棟の村上君を訪ねると、家の前に村上君のお母さんが出ていて向かいの五棟を眺めている。このお母さんはかつて水商売をしていたと聞いているが、その名残か今夜も化粧は派手で服装もきわどい。
「和也君いますか」
「あと五分もすれば帰ると思うで」
幸盛はうなずき、尋ねた。
「ところで何してるんですか?」
彼女は十五メートルほど離れた五棟を見て顎をしゃくった。
「一階の田所さんを知っとるやろ」
幸盛は五棟の四階に住んでいて、昨年は棟長をやらされたから名前くらいは知っている。
「たしか、母子家庭の?」
「いま、男が来とって一戦交えたところだがね。もうじき二回戦が始まるで」
「そんなこと、なんで分かるんですか?」
「六棟の三階におっ母さんがおってな、夕方に子ども二人を預けに来るところを見たで」
「はあ……」
そのことと、彼女がわざわざ廊下に出ている理由がわからない。彼女はニタリと笑って言った。
「まあ、見とりんさい」
その時だった。田所さん宅の辺りから、
「アーーー」
と、ターザンの雄叫びのような声が聞こえてきた。そして引き続き、喘ぐような、悶えるような、官能的絶叫が連続して聞こえてくる。
「ヒーッ、アーッ…………」
おそらくエアコンがないため網戸にしているのだろうが、あまりに無神経すぎるではないか。それにしても、幸盛だって男だから若い頃に大方のアダルトビデオは見てきたが、このような絶叫タイプは見たことがない。現実は、作り物のドラマより凄まじいということなのか。
やがて静寂が訪れ、どこからかコオロギの鳴き声が聞こえてきた。村上君のお母さんが言った。
「終わったな、次は三十分後だで」
「まだヤルんスか」
「たいてい五回はヤルね」
「精力絶倫男ですね、次はいつ頃来るんスか」
「たぶん二週間後の水曜日だわ」
「なんで分かるんスか」
「声が聞こえた日は、カレンダーに○をつけとるでね」