86.バルコニーでお願いを
バルコニーに出ると、さすがに寝衣では少し肌寒く感じた。
一年中温暖とはいえ、初冬の夜だしね。
前の世界のスペインだったかポルトガルだったかが、これくらいの気候だと習ったような習わなかったような……。
私を後ろからヨハンが包みこみ、肌寒さを感じなくなった。
「私、実はヨハンにお願いしたいことがあるのよ……」
「いいよ、なんでも言って」
「そんな安請け合いできないほどに、厄介なお願いなのよね……」
「え、それは嬉しいな」
……なんでよ。
「日の曜日の隔週が潰れるし、二人だけの時間は減るし、しかも学園生活最後までだし、護衛も必要になるし、手配は丸投げだし、断ってくれていいというか無理にとは言わないんだけど……完全に私の我儘で……」
「君が僕にそんなに逡巡するようなお願いをしてくれるなんて、最高だな。あ、他の男は絡まないよね」
「他の男は絡まないけど。苦悶の表情を浮かべられると思うから言いづらいんだけど……。しかも理由は、いつかあなたの妻になるのなら度胸試しがしてみたいくらいの軽い動機だし」
「それは、わくわくしてきたな」
……だから、なんでよ。
「あのね……」
ヨハンの耳元で、こしょこしょとお願いをする。
「駄目……よね」
「いいよ。言っただろう? 僕は、恋人と言えば僕たち、という存在を目指しているんだ」
入学式の時に言っていたわね……。
適当なことをしゃべっていると思っていたけれど、もう少し真剣に聞いた方がよかったのかな。頭が湧いているような、わざとらしい口説き文句だと思っていたけど……実は全部本気だったのかしら。
――前にも言った。
そんな言葉が、最近はよく飛び出す。
一緒にずっと過ごしてきた。
それは、私たちの歴史だ。
星空の瞬きのように、無数の大事にしたい言葉がある。
「……私、ものすごく愛されているのかな」
「部屋での会話はなんだったんだ。今気付いたのだとしたら、相当落ち込むよ」
「いつもいつも、そう思うのよ」
「それならいいか」
「……都合のいい男になろうとしなくていいの。嫌なことは、嫌だと言っていいのよ」
「ごめん……僕の言葉で君を傷つけた。君のために何かできるのは嬉しいんだよ、本当に」
さっきまでよりも、強く抱きしめられる。
「でも……よく考えるとあなた、王太子なんてろくでもないとか言ってなかった?」
「あれ、気付かれたか。そうだよ、ろくなもんじゃない、綺麗な世界じゃないんだ。君も結婚すれば、今以上に身に染みるはずだよ」
「それなら都合のいい男ではないじゃない。楽しみね。結婚したら、やっと私も証明できるわ。都合のいい男だから惚れたわけじゃないってね」
「はは、言ってくれる。お互い証明し合うわけか。君は、本当に僕を愛しているということを。僕は、僕の愛が不滅だということを」
……言葉にすると、酷いわね。
酷く酷く甘ったるい。
年甲斐もない。
こんなに長く生きてきて、こんな……。
「あっ、今、精神年齢コンプレックスを発動しているよね、ライラ」
「人の心を読まないでくれない? それから、何そのネーミングセンス」
こうやって彼がすぐに見抜いて茶化してくるので、最近は落ち込まなくなってきた。
「それよりライラ、いつ部屋に戻る? ずっと朝までここにいるの?」
……そこなのよね。
早めの夕食も食堂で済ませてきた。
さすがに髪は濡らせないけれど入浴も早めに寮で済ませ、ここで身支度を整えて会場へ向かった。
別室で寝ると言ったら却下されたし、ヨハンには我慢してもらって眠くなるまで布団の上でしゃべっていれば、まぁなんとか……と思ってはいたのだけど……。
本当に我慢できるのかな。
十七歳なのよね……、まだ。
「あ、今度は僕を子供扱いしているよね」
「だから、なんで心を読むのよ。読心術でも習ったわけ?」
「ライラが分かりやすいんだよ。目つきで分かる」
「……顔を隠したくなってきたわ」
前世での話をしてから、かなり心を読まれている気がする。王太子だと、そういうのにも聡くなるのかしら……。
「大丈夫だよ、朝まで我慢する覚悟はしたよ」
「……でも十代なのよね……」
「まだ言ってる。そうだよね、ライラは十七歳の男にも、詳しいもんね」
「……う。十七歳の男と付き合ったことは、前の世界でもないわ」
「それなら詳しくないじゃないか」
「でも、十九歳の男となら……ある。すぐ別れたけど。やっぱりそういうの嫌でしょ」
「こだわるなぁ。僕だけが知っている君の自信のない部分だ。慰めてあげるのも僕にしかできない。最高だね。それは嬉しいけど、君は嫌みたいだ」
本当に、よくこんな台詞がポンポンと出るわよね。
うだうだ言っていても仕方ないし、部屋に戻ろうかしら。この国の、この世界の行く末について話していれば、気も紛れるかもしれない。
「でも君の言う通り、確かに僕だけが朝まで我慢しなければならないよね。寝られる自信がない。きっとすやすやと眠る君の横で、悶々とするよ」
「――――う」
「君は僕と違って色々と経験者だから、そんなに我慢しなくても大丈夫なはずだ」
「――――いやぁ……」
どうかな、それは……。
十七歳の男よりは、きっとそうだ。
「僕だけが我慢をする。それは確かに不公平だよね」
「……何が言いたいのよ」
ものすごく意地悪な顔をしている気がするんですが……。久しぶりね、この顔……。
「妊娠、しなければいいんだよね」
ヨハンの瞳に、これまでにない色が灯る。
「ぇ、ちょっと……」
「その手前までなら、いいわけだ」
「いやいやいやいや」
「君が経験者でよかった。手取り足取り教えてもらえる」
「え……いや、え、そっちは、あんまり……」
「何をどこまでどうしてほしいのか、きっと詳細に教えてもらえるはずだ」
「ちょ、ちょっと待って、なんか雰囲気が……」
「君は優しい。僕だけが我慢するなんて耐えられない。違う?」
「――――っ」
「僕に欲情するって、言ってくれたよね。君にだって我慢してもらわないと」
さっきまで欠片も見せなかった色気が、ぶわっと私に襲いかかる。声にも顔にも私に触れる指一本一本にも、なぜかそういうことを想起させられる。
これを全部隠してきたの、この人は……。
底の知れない濃密な色気に、呑み込まれてしまいそうだ。
「無理強いはしない。君の希望に沿わないことはしない。どこまで許してくれるのか、君の愛情に期待しようかな」
――駄目だ。頭がおかしくなっていく。
この人は十七歳なんかじゃない。
そんな可愛い相手じゃない。
いつもいつも私を翻弄し続ける、年齢不詳の恋人だ。
彼が、私の身体からすっと離れた。いきなり外気に触れる部分が増えて心細くなる。
ぞくりとするような甘い瞳で、手を差し出された。
「お手をどうぞ、僕の君」
誘われているのは、ダンスを踊る舞踏会場じゃない。部屋の中、ベッドの上だ。
「……望むところよ、私のあなた」
――分かっていて、彼の手に私の手を重ねる。










