82.もう一つの人生
「あなたにとっては、私が予知夢を見てまるで違う女の子になったという認識だと思う」
「……そうだね」
「私の認識では違うわ。ここではない世界で生を受けて、ここと同じ重さの濃密な毎日を送り、男性と結婚し息子をもうけ……事故で死んだの。四十年分の月日を生きて、その記憶を持ったまま目覚めたのが、九才のライラ。あなたに婚約解消を迫る、ほんの少し前のことよ」
「――――――!」
私を見る顔つきが変わってしまう。十六歳の女の子を見る目では……なくなってしまう。
怖くて怖くて仕方がない。
でも……話すのは止められない。
「ここは、私がその世界で遊んでいたゲームが舞台なのよ。ボードゲームではないわ。魔法の絵本のようなもの。今のままのあなたがそこに映り、声まで聞こえるの。そのゲームの目的は、お相手となる男性を選び恋愛をすること。主人公はメルルよ。私はメルルとして、あなたと愛を育んだ。メルルとして話をして、メルルとして愛された」
「それは…………」
言葉が出ないようだ。
いきなり全てを信じられはしないだろうけど……私がそう認識しているということだけは、伝わるはず。
「他の相手を選ぶこともできたけど、私は二人しか選ばず、好きになったのはヨハンだけだった。何度も何度も繰り返し見たわ。メルルを好きだと言い続けるあなたを、心をときめかせて見続けた。ここに来ても、その未来しかないと思えるほど」
「そういえば……昔言っていたな。僕にとっては心のオアシスだとかどうとか」
「……そうね。あなたに言われた言葉の一部よ」
ヨハンの私室のバルコニーで果実水とフルーツを目の前に、私を捨てる根拠を問われた時の話……ね。
「あの時は、私をよくも翻弄しようとしてくれたわよね」
悪戯めかせて聞いてみる。
「心外だな。君の意図を聞いただけなのに」
彼も笑ってくれる。
彼の内心がどうなのかは全く分からない。
もう……自信がない。
「私がその類いのゲームにはまったのは、今の年齢よりも若い時。両親が不仲で、私への関心もほとんどなかったわ。成績も友人関係も進路も、何もかもね。私は誰かに愛していると言われたくて、この乙女ゲームと言われるジャンルにはまったのよ。でも、ここが舞台のゲームをしたのは息子の妊娠中。つわりで家事ができず料理もままならない日々の中、夫との会話もおざなり。気付けば夫は、私と目も合わさなくなった。ほとんど無視され休日もどこへやら。きっと浮気されていたわ。あなたほどではないけれど、顔も整っていたしね」
「……僕も、浮気しかねないと?」
「今の話を聞いた後のあなたなら、分からない。あなただって、お相手は若い方がいいでしょう?」
「――それか。それが、僕の言葉を信じられない理由。君が、僕に相応しくないと思っている本当の理由か。分からないはずだ」
何を……考えているのだろう。
私を見る目は変わったのかな。
それとも、まだピンとこないだけかもしれない。
彼の知らない四十年がある。
きっとそれは、今後ずっと私たちを蝕む。
「私の息子は十一歳だった。ライラ自身の記憶も持ってはいたけれど、私にとって最初に出会ったあなたは、息子よりも若かったのよ」
「……それは、憧れも何も消えるはずだな」
淡々と言う彼の本心も分からない。
傷つけているのかどうかすらも分からないほど、隠してしまう。
「それでも好きになったわ」
「好きにはなっていないだろう」
「……なったんだけど」
「なってないよ」
「なったって言っているじゃない」
「……それは、いつだよ」
サラサラと感慨深く話していたのに、いきなり突っかかられた。本当に全く、私の想いは通じていなかったのね。
確かに婚約解消はお願いしたけれど……好きだと何度かは言っていたし、恋人であることは受け入れていたのに。
「……最初にメルルと会った、お忍びの時よ」
「はぁ? 好きじゃないだろう。君、母親みたいな視線で僕が買い物をするのを、見ていたじゃないか。荷物まで持つよとか言ってさ」
……バレていたらしい。
「……ほ、頬にキスしたでしょう」
「雰囲気に流されただけだろう。あの時は僕だって、もしかしてとは思ったけどさ。お忍び以外では学園に入るまで、一度も自分からはしてくれなかったじゃないか。君がキスしたせいで僕はあれから、どれだけ君に夢中になってしまったことか」
「あら、あれからなの。それなら、私の方が先に好きになったんじゃない」
「それまでだって、たぶん好きだったよ。どっかの時点から」
「適当ね」
「それなら君はいつ、あの日のどの時点から好きだって、はっきり言えるの?」
完全に話が脱線している。
でも、好きだと証明するには必要なことかもしれない。
「あなたが言ったからよ。僕は僕の意思で、決めた相手の前でだけ素直になりたいって」
「……そ、んな、たった……」
「それだけの言葉が私の中に響いた。格好いいなって憧れる気持ちが芽吹いた。自分のことを変質者だって思ったわ。自分の子供より年下の男の子を好きになるなんて変態でしょう」
「……身体は僕と変わらない」
「でも、中身はもう人生半ばすら過ぎているのよ。あなただって、すぐにはピンとこないかもしれないけれど、気持ち悪く思うに決まっている」
「――これは、よっぽどだな」
何を馬鹿なという顔をしているけれど、考えれば考えるほど気持ち悪いはずよ。
「君の行動、言動全てにその年月が影響しているのなら、僕はそれごと愛しているんだよ」
「そんなの綺麗ごとよ」
「なんで君は、僕の言葉を信じないんだ!」
お互いに睨み合う。
寝不足だし泣いたばかりだし、だんだんと苛々してきた。綺麗な言葉ばかり言って本音を隠す男に言われても、説得力がない。
「だったら、あなたは受け入れられるわけ? 私は他の男と結婚していたのよ!」
「僕と会う前だろう、そんなの関係ない!」
「キスも何もかも経験済みの女なんて、嫌に決まっているじゃない!」
「そんなものどうだっていい!」
「あなたと初めての子供ができたって、私にとっては初めてじゃないのよ? 同じ感動を味わえなくて、辛くなる時がくるわ!」
「全く同じ感動じゃなくたって、いいじゃないか!」
言い返されて言い返されて、反論できる言葉が少なくなっていく。
「でも……、気持ち悪いでしょう。私は……」
「君の世界では、歳をとると恋愛は禁止なの?」
「禁止……では、ないわね……」
「恋をしているおばあちゃんがいたとして、気持ち悪く思う?」
「……可愛いと、思うわね……」
「君が君なら、どれだけの生を繰り返して百歳だろうと千歳だろうと――、僕はかまわない」
頑なだった心が溶かされていく。
でも、完全に信じてしまったら……心変わりされた時に立ち直れなくなる。
「私は愛し合った男性と結婚して、失敗したのよ。いかに心が変わりやすいか知っている。若い反応をしてくれる子が、よくなる日が……」
「本当に、よっぽどなんだな」
ヨハンが苦笑して、私の頭をなでた。
「君の強みであるはずの積み上げた大切な年月を、コンプレックスにするなよ」
私の、強み……。
本当にそう思えるの……?
「ゲームではね、ライラは婚約破棄されるか、されなくても不仲なままの未来しかなかったわ。だから婚約解消を提案したの。この世界では、ずっと誰かと愛し合いたかった。ずっと……仲のいい夫婦に憧れていた」
「ああ、不仲なままの未来も、もしかしたらあったのかもしれないね。君の過ごした歳月のお陰で、僕たちは愛し合うことができる。そうだろう?」
「信じたくは……あるのよ」
「でも、今の君は信じられない。夫婦になり、子供が巣立つ頃まで仲よしでいられれば、やっとその時に信じられるのかもしれないね」
「……そうね。そうかも……しれない」
「いいよ、それなら今すぐ信じなくていい。少しずつ積み上げていこう。きっといつか、信じられる日が来る」
なんで……この人はこんなに綺麗なことが言えるのだろう。
綺麗すぎて、本当かどうか分からない。
「そんなことを言われたら……どうしようもなく愛してしまうわ。あなたなしではいられなくなって、心変わりされた時に生きていけなくなる」
「それを望んでいると言っているのに」
「そもそも、なんであなたは私が好きなのよ。キスをされて少年らしい淡い恋心を持ったところまでは分かったわ。その後の理由がない。こんなに愛してもらえる根拠がないから、不安なのよ」
「君が言ったんじゃないか。気付かないうちに絡め取られて、出られなくなるんだろう?」
……食堂でのアンソニーとの会話ね。
って、それ……。
「根拠、ないんじゃない」
「君はあるの? たった僕の一言じゃ、根拠としては弱すぎる。都合のいい男にいてほしいだけなんじゃないの?」
反論が厳しすぎるわね……。
「ちゃんと、好きだなって何度も思ってる……」
ずっと言葉には、ほとんどしてこなかった。好きだという証明は……難しい。
「ああ、僕もだ。根拠なんてなくてもいいじゃないか。たくさんの時間を一緒に過ごして……もう僕は、君がいないと生きていけなくなっているんだよ」
「……本当に私への想いに変化はないの? 嫌でしょう、普通。他の人と愛し合ったことがあるのよ?」
「嫌ではないよ。過去のことで、しかも目の前の君じゃない。違う体で違う名前の君だろう?」
「そ……うだけど。でも、記憶はしっかりと残っているのよ」
「そうだろうね。君への理解は今まで以上に深まったよ。だから分かる。言いたいこと……全部まだ、言ってないよね」
ええ……?
言った気がするけどな。
おかしいな。
……ジェラルドのことかな。
「カムラには昨日、行き場を失った母としての愛情を皆さんに注がれているんですね、と言われたのよ」
「そ、れは……きついことを言うな」
「ジェラルドへ特別な思いがなかったとは言えないけれど、それは、そういう類いのものよ。息子はなんでも話してくれる子だった。音楽の授業で誰の声が大きいとか、そんな小さなことまで。なんでも相談してくれるような息子と似た存在を、私は欲していたんだと思う。少しでも楽しい思い出をあげたい、幸せになってほしい、そういう相手よ」
「息子さんの名前は?」
「…………拓海よ」
その名前を口にするだけで、心が痛む。
会いたい、今はどうして……。
「君は僕に、反抗期はなかったのかと聞いたことがあったよね」
ドク、と心臓が鳴る。
「君は頻繁に、拓海くんを思い出しているはずだ」
本当に……この人は十六歳なのだろうか。
メルルが昨日言っていた。
ここは記憶を失くした魂もあるんじゃないか……、と。
私よりも、すごくすごく大きな存在に感じる。
「……正解よ。よく思い出す。あなたにとっては無関係の……」
「君の大事な息子だ。思い出したら、言っていいんだ」
「迷惑でしょう。好きな女と他人の子よ」
十代の男が、受け入れられるはずが……。
「君の大事な子供なら、僕も大切に思うよ。特徴を言って、似るまで何枚でも肖像画を画家に描かせたっていい」
「――――っ」
「今の年齢の彼も想像で描いてもらって、結婚したら僕たちの部屋に飾ったっていい」
「――――――――――っ」
「誰にも言えずに我慢しなくてもいい。どんなふうに育っているか気になった時には、僕に口にすればいいんだ」
いったい……この人は何者なのだろう。
今度こそ、涙腺が崩壊したように涙が次々とこぼれ落ちて、地面まで濡らしていく。
十代に言うような言葉じゃない。
分かっているのに、頼りたく縋りたくて……、たまらない。
「……いいの……言っても…………」
「いいんだよ、いくらでも」
手が、足が、唇が、全身が震える。
ずっとずっと我慢してきた思いが、堪えきれず爆発する。
気付いたら、彼にしがみついていた。
「頑張って……育ててきた。可愛い子だった」
「……ああ」
「最初の言葉は、ママじゃなくて……どうぞだった」
「……可愛いな」
「オムツが外れるのが遅くて、すごく心配した」
「……大変だったんだね」
「歯磨きを嫌がる子で、いっぱい格闘した」
「……頑張ったんだね」
「大きくなって、なんでも自分でできるようになって。これからだった。どんな中学生になったの、どこの高校に入ったの、どんな将来を思い描いて、どんな大人になるの、どんな子と結婚して……全部、見たかった! 見守りたかった! もう会えない! 二度と、二度と会えない! うっ……っく、ぅぁぁ、ぁあぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その日は、身体中の水分がなくなるかと思うくらいに泣き叫んだ。
幼子のようにヨハンの腕の中で――……、ずっと。











