6.ヨハネスの変化
そうして、両親と仲を深めた数日後、予定していた日にヨハネスとのお茶会が開かれた。
父はまだ意識が戻って日が浅いと心配していたものの、適当な理由をつけて延期するのも気が引けたのか、母に押しきられる形でこの日を迎えた。
タロットカードは、実は6番の『恋人』しかできていない。ミーナにそれだけ手配してもらって、出来がよかったので他のカードもという手筈だ。
この世界にイラストレーターなる職業があるのかどうか分からないものの、数日で「作ってもらいました」とミーナが持ってきたカードは、とても神秘的で美しく、額に入れて部屋に飾っておきたいくらいの出来映えだ。著名な画家に描いてもらったのかもしれない。
私の目の前で固まっているヨハネスも、きっとその芸術性にも目を奪われているはず。
「この、カードは……?」
大理石のクラシックなテーブルの上で、外からの陽光を受けて輝くその『恋人』のカードには、赤い羽の天使の下に、アダムとイブが描かれている。
アダムの後ろには生命の樹。
イブの後ろには、知恵の実とそれを食べるよう唆した蛇。
恋人を表すのに、蛇の誘惑に負けて罪を犯したことを示唆する二人が描かれていることに面白さを感じたので、絵柄もよく覚えている。
分かりやすさを重視して、両手をつないで見つめ合っているデザインにした。
「二十二枚のカードで占う、タロットカードというものですわ。こちらは『恋人』のカード。夢の中で、大いなる存在からの啓示を受けて、作りましたの」
我ながら、怪しすぎる物言いだ。前世でもしこんな人が身近にいたら、きっと絶交なり絶縁なりしている。
ヨハネスも、眉をしかめて戸惑っている。
大丈夫、その価値観は間違っていませんわよと太鼓判を押してあげたいけれど、そこは耐えなくては。
「占いは、私はあまり好きでは……」
「生きるヒントになればという、軽いものです。でも、何度占ってもヨハネス様との未来は、『恋人』の逆位置」
そう言って、カードをスッと上下反転させた。
「恋人にはなれないという結果を何度も見て、やっと現実を直視できましたの。ヨハネス様、少なくとも今、私を恋愛の意味で好きだという感情は……ありませんわよね?」
何を言えばいいのか分からない様子で、ヨハネスは私とカードを交互に見つめた。
カードの中の二人は、強い愛情で結ばれているようにみえる。何か思うところがあるのかもしれない。
『恋人』の逆位置だからといって、恋人になれないという意味だけではないけれど、そこはヨハネスを説得するためだ。前世の占い師やタロットファンには、心の中で謝っておこう。
こんなふうに尋ねることは、まだ九歳のライラには絶対にできなかっただろうなと思う。今の私ですら、自分を好きではないよねと直接聞くのは、胸がちりりと少し痛む。
沈黙が訪れ、私もじっとヨハネスを見つめた。
まだ幼い顔立ち。
本来なら、両親に生意気な口をきいたり、隠れてご飯前にお菓子を食べるなどの小さなしてはいけないことをしたり、誤魔化して嘘をついたり、そんな年齢だ。
そんな時期を経なかったから六年後、平民であるヒロインへの憧れも強くなったのかもしれない。
まだ子供なのに、しゃべり方すら肩肘を張っている。この子にも、今はもっと子供らしく生きてほしい。
そんな思いで、つい予定外の話をしてしまった。
「先ほども言いましたが、ヨハネス様は真面目すぎ、優秀すぎます。だからこれからも、ストレスをため続けてしまうのです。いずれは、私ではない方と恋に落ちて癒されるのかもしれませんが、適度に発散されませんと」
「私だって、さっきも言っただろう。父上の顔に泥を塗るわけにはいかないんだ。それに、いきなりそんな未来の話を――」
「これは、内緒の話なんですが」
彼の言葉を遮り、近距離で唇に人差し指をあて、声をひそませた。
「実は私……数日前に手すりを滑り台にして落ちて、頭を打って丸一日意識を失っていましたの」
「は、はぁ……!?」
「背負ってばかりでは、重みに潰れてしまいますわ。ほら、今なんて私たち以外、誰もいませんわよ。机の上で逆立ちでもなさったらいかがです?」
「……さ、さかだ、ち……?」
「あ、私みたいに倒れて意識は失わないでくださいませ。私のせいにされてしまいます。でも、やっちゃいけないことだって、たまにはされませんと息が詰まりますわ。逆立ち、付き合いましょうか?」
シーン………………。
ちょっと、阿呆なことを言いすぎたのか不安に思っていると、突然ヨハネスが笑いだした。
「――――っ、ははっ、何を言っているんだ、ライラ。あっはは、君はおかしいよ。どうかしている」
見たこともないような笑顔だ。
――この顔だ。この顔が見たかった。
十歳の男の子の、我慢している顔なんて見たくない。
前世の息子の顔が、頭をよぎる。
ヒロインであるメルルに会うまでの間だけでいい、少しでも屈託のない笑顔をさせてあげたい。
嫌でもいずれ、国を担う。
今は、内容のない馬鹿げたことで笑っているくらいがちょうどいい。
「いいじゃない、一緒におかしくなりましょうよ」
「逆立ちって、どうやって? 君はドレスじゃないか。そのネックレスだって、価値あるものなんだろう?」
反論してもいい相手、と認識を変えてくれたらしい。突然、詰問口調になった。
「こんなもの、脱いでしまえばいいのです。アクセサリーだって、全て取ってしまえばいい。私たちの逆立ちには、邪魔なものですわ」
「君はヴィルヘルム公爵の、自慢のお嬢様だろう? まだ若いかもしれないけれど、身分や教養のある淑女のはずだし、そうあろうとしていたはずだ」
「そんなもの、今のヨハネス様の笑顔に比べたら、屁みたいなものですわ」
「屁って……」
下ネタはまずかったかな。
さすがに今のは公爵令嬢として、駄目だったかもしれない。
「なさいます? 逆立ち」
「しないよ、まったく」
「あら、残念」
ヨハネスの目の隅に、涙がにじんでいる。
笑いすぎたのかもしれない。
前世でいえば、まだ小学生。
……他に小学生らしいことって、なんだろう。
「なら、こちらのクッキーで、勝負でもします?」
お皿からクッキーを一枚取ると、パキッと割って小さくする。左手の指先にのせると、ポーンと手の平を叩いて空中に飛んだクッキーを、口の中に入れた。
すごい、入るとは思わなかった!
「んぐ、成功ですわね。ヨハネス様が失敗したら、私の勝ちです」
そう言って、もぐもぐと頬張る。
紅茶の味が、ほのかにする。美味しくて、全部一人で食べてしまいたくなってきた。
そこはレディとして自粛しよう。
「だんだんと、僕もこの婚約に不安を感じてきたよ」
「それは、願ったりかなったりですわ。一応言っておきますけど、誰かの目がある時には、こんなことしませんわよ」
ヨハネスの一人称が、私から僕へと変わった。私への話し方にも、大きく変化が見られる。
多少は、気を許してくれたのかもしれない。
お互いに協力して、話し合いでの円満な婚約解消を迎えるための下準備としては、上々だ。
「僕は、その誰かの目とやらでは、ないと?」
「あら。今、私は婚約解消のご提案をしているんですもの。解消に値する女性だと、思ってもらわなくては」
「なんだそれ。なんだか、色々と馬鹿馬鹿しくなってきたな」
ヨハネスが、だらーっと背もたれに体を預けた。
気を遣わないといけないお嬢さんから、おかしな知人あたりにでも昇格したのかもしれない。
そういうポジションのまま、ヒロインとの恋を温かく見守れるのなら、今後のためにもその方がいい。やはり、王族の人たちとは上手く付き合っていきたい。
そのためにも、早急に婚約を解消しなければ。
「そうでしょうとも。ぜひこの馬鹿馬鹿しい婚約も、さくっと解消してしまいましょう」
「いいや、しないよ」
「なぜ!? あ……っと、な、なんでですの?」
しまった。
お嬢様言葉にするのを、驚きすぎて忘れてしまった。
「恋愛の好きって感情がないのは、当たっているよ、ごめんね。でも、君としゃべるのは少し楽しくなってきた」
「いいえ、ないのが当然ですわ。そんなものより、もっと楽しいことはいくらでもありますもの。恋愛は、王立学園に入られた時に、私以外の可愛いお嬢さんといくらでもなさいませ。そのためにも今、この時期での婚約解消は不可欠です」
「ふーん。なら、婚約解消を賭けて、勝負する?」
「な……!?」
雲行きが怪しくなってきた。
なぜか、私が動揺させられている。
「あ、逆立ちで勝負する?」
にやにやと笑いながら挑発してくるヨハネスに、このクソガキがっ……と言いたくなる。
でも、こんな時間こそが、彼には必要だ。そう思って苛立ちを抑えよう。
「な、縄跳びの方が得意ですわね……」
咄嗟に言葉が出ず、訳の分からない返事をしてしまった。そもそもこの世界に、縄跳びはあるのだろうか。
「あっはは、じゃぁ次は、縄を用意しておくよ」
十歳のヨハネス。
やはりまだ、思考は幼いのかもしれない。
でも……、手強い。
次回のお茶会までに、作戦を考えておこう。
今日のところは無理だと諦めて、この後は雑談に興じた。