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阿呆がぶらりと神保町

作者:
掲載日:2018/11/24

 長編小説の構想を練っているときのこと。物語の結末をどう迎えるかを考えていると、「そもそもこの話は面白いのか?」と疑心が芽生え、あれやこれやと改善のアイディアを出しているうちに、物語の中に無理や矛盾が発生していることに気が付き、手直し修正の嵐、結局ほとんど進展なし。

 気晴らしにと、youtubeでサンドウィッチマンのコントを見ていると、面白いのだが、時間がどんどんとすぎて行ってしまう。

 天井を見上げ、伸びをしながら思った。「俺は阿呆か」と。


 全然進んでいないのに、時刻は15時、お昼過ぎ。今日は何にも書ける気がしない。このまま布団にぶっ倒れて眠ってしまおうか、それとも、散歩にでも行こうか。俺は後者を選んだ。なんせ休日、せっかくの散歩日和、眠るなんてもったいない。行き先は古書の街、神保町。理由は「行ってみたかったから」。


 恥ずかしながら、神保町へ行くのは初めてである。神保町へは新宿駅から都営新宿線で行けるのだが、迷宮新宿駅に惑わされるのを恐れている俺は、JR以外の電車に乗ったことがほとんどない。精々、小田急線と京王線を利用することがあるくらいで、普段は知っている道しか歩かないため、新宿駅を1年以上利用していながらも、未だに新宿駅の全貌を理解していない。しかし今日は、案内板を見ながら歩いても道に迷う魔境に潜り、「今に道を見失うのでは」という恐怖におののきながらも、都営新宿線の乗り場を探して、人波を歩いた。

 新宿駅はいつも人で溢れかえっているが、この人混みを形成する彼らは、一体どこから来てどこへ行くのか、一体どこを目指して生きているのだろうかと、いつも不思議に思う。数え切れないほど多い、この行き交う人びと全員に、それぞれ行きたい場所や目的があるなんて、想像するだけで頭が破裂しそうになる。一体、ここには何人の人生があるんだ。この人たちの人生を全部集めるとどんな歴史が出来上がるんだ。全く想像がつかない。この中の何人かは、目的もなく、なんとなく、野良犬や野良猫のように、向かう場所なんかないけど偶然ここにいる、そんなことも、もしかしたらあるんじゃないか。ただなんとなく楽しい方向へ進もうと、そんな感覚だけで生きてきて、そしてこれからも生きていけるんじゃないだろうか。そうでなきゃ、どうしてこんな息の詰まりそうなところにわざわざやってきて、服を買ったりコーヒーを飲んだりするものか。こんな訳の分からない迷宮に移動以外の目的でやってくるなんて、俺には不可思議でならない。


 そこらへんにある地図を駆使してやっとのことで都営新宿線の電車に乗ると、目的地神保町に着く前に、既に歩き疲れていた。新宿駅に着いてから、既に30分が経過していた。

 電車のなかは混んでいなかったため座ることが出来たのだが、隣の男性が前後左右にゆらりゆらりと舟を漕ぎ、俺の肩にもたれかかろうとすることおよそ10回。そんなに眠いなら椅子にもたれてぐっすり眠ればいいのに、隣の彼は何度も目を覚ましては、自分が数秒眠っていたことを確認するように虚空を仰ぎ、また舟旅へ出発するのだった。


 新宿から10分ほどで、神保町に到着。「案外近いんだなァ」とアホ面をぶら下げていると、くたびれたオッサンたちが車内から出てきて群れを成していた。「ここで降りよう」と仲間同士で示し合わせたわけではないのだろうが、どうしてこう、みな同じようにくたびれているのだろうか。資本主義の荒波に揉まれてきた、人生の先輩方。人間の顔には、人生が刻まれている。あと30年もサラリーマンをすれば、俺もこんな顔をしているのだろうか。前を歩くオッサンの歩調に合わせてだらだらと歩いていると、気が付けば俺はオッサンの群れの中にいた。追い抜くには、あまりに道が狭すぎた。

 やっとオッサンの群れから抜け出て、地下から階段を上って地上に出ると、空はすっかり暗くなっていた。辺りを見回すと書店がいくらもあり、やや興奮。さっそく通りを歩いて、近くの書店の様子を眺めた。

 俺は書店が好きだ。この世で最も身近に非日常を感じられるからだ。それは見知らぬ本との出会いのなかにある。本とは、知識を言語化・物体化したものである。新たな知識に出会うとき、面白くないわけがない。書店には、そんな機会が溢れている。ワクワクする。ドキドキする。出会いの喜びとはつまり、好奇心の充実なのだ。


 歩いてみると、なるほど、そこいら中に古本が売ってある。古書の街というのも納得である。

 実は俺は、新品の本に比べると、古本があまり好きではない。汚れが嫌いなのだ。ページが折れ曲がっていたり黄ばんでいたりすると、なんだかむむむという感じである。買っても著者の利益にならない辺りも、なんとなく腑に落ちない。そんな俺がわざわざ古本の街にやってきたのは、本という存在そのものに敬意を持っているからである。

 ここで、本への敬意とは何かを説明させてほしい。そのために、俺が思う、本に最低限必要な要素とはなにか、ということを述べる。まず、どんな本にも言語が必要である。例え写真集や画集であろうと説明文が必要なように、言語無き本は無いと言っていい。なので本に必要な一つめの要素は、「言語」だ。次に文化が必要だ。文化がなければ本に価値が生まれないからだ。「こういうものに価値がある」と認めるのは、文化の力である。価値が無いものを作る者はいないのだから、文化が本を生み出すとも言える。よって二つめは「文化」。三つめは「論理」である。論理がなければ文章に意味が生まれない。人は論理を介して言語を理解する。だから論理が必要だ。四つめは「想像」だ。想像無くして創造無し。想像は全ての源である。考えるまでもなく必要だ。ものを作るには、技術・需要・アイディアがあれば良い。本に必要な技術は文章を書く技術だから、言語と論理があればいい。需要はその時代の文化が生み出す。アイディアは想像によって生み出されるものだ。以上の理由から、俺は言語・文化・論理・想像の四つの要素こそが本に最低限必要なものであると考える。この論理に乗っ取れば、逆説的に、四つの要素が本には必ず含まれているということが言える。言語・文化・論理・想像、どれも人間の知的な生活に欠かすことはできない。ならば本という存在に尊敬の念を持たずにいるなど、出来るはずもない。

 ましてや古本とは、時代を超えて生き残っている本である。どうでもいい本は時代に淘汰されて消えてしまうが、我々の人生以上に長く読まれている本も、数え切れないほど存在する。そのような本の価値は推して知るべしである。人類の進歩は歴史の積み重ねと共にある。ならば、常に歴史の発展と共にある本の存在が、人類の歴史を作っているのだと言っても、過言ではないだろう。本には人を動かすパワーがある。良い本ならばなおさらである。時を超えて現代に残っている本に、価値が無いわけがないのだ。


 さて、そんなことはどうでもいい、閑話休題、神保町を歩くとそこら中に古本屋があった。古本屋の隣に古本屋があった。「お前ら仲良しか」と歩きながら思った。おそらく、この町に競争相手・同業他社という概念はないのだろう。俺は神保町の本屋は全部、本好きの道楽なんじゃないかと睨んでいる。利益が出ているようには全然見えなかった。実は儲かっていたりするのかも分からないが、全くの赤字なら潰れてしまうのだろうから、もしかしたら意外と狭い需要があるのかもしれない。司馬遼太郎のように本棚をまるまる買い占めるツワモノが、まだ東京に生息しているのだろう。多分。


 眺めて歩いているだけではつまらないから、古本屋の中に入ってみた。ドアを開けると、形容しがたいが、これぞまさしく古本屋、という感じがした。なにかの残り香を集めて真っ黒になるまでブレンドした成分が、明らかに空気中に漂っているのだ。外と中とで酸素濃度が違う。呼吸が楽じゃなかった。上物の気配を感じた。

 一歩、二歩と歩みを進めると、圧迫感が押し寄せて来た。近くになにか得体のしれない生き物がいるような気がした。周りには誰も居ないのだが、気配がするのだ。常に誰かに見つめられているようで、しかもその視線はひとつではなかった。辺りをキョロキョロ見回していると、違和感の正体がわかった。俺を見つめているのは、本だった。気が付くと、圧倒的な量の本が、至近距離で俺を取り囲んでいるのだった。

 今まで、こんなに強烈に本の存在を感じたことはなかった。本棚の背が高いので、複数の本に「お前は誰だ」と顔を覗かれている気分である。通路の関係上、常に身体の両側を本棚に挟まれており、しかもその本たちは、見たこともないタイトルの難しそうな本だったり、ぶ厚い鈍器のような威圧感を放つ本だったりする。そんな恐ろしげな本たちがぎっしりと本棚に詰まっており、俺は悪いことをしたわけでもないのに、本に申し訳なく感じた。「教養が無くて申し訳ありません。私は本好きと名乗りながらあなた方を知らないのです。ごめんなさい」と心のなかでぺこぺこと謝りながら、狭い通路を歩いた。


 目線を動かしていると、やっと知っている名前に出会った。哲学者ニーチェ。知っているだけで詳しくはないのだが、見知らぬ土地で知っている者に出会った安心感が、俺の心を覆い尽した。「ああニーチェ先生、お久しぶりです。こんなクサいところで何をしてるんですか」。フリードリヒ・ニーチェは俺の問いかけに全くの無言だったが、俺の中のルサンチマンが代わりに答えた。「やあ、ここはな、君のような貧乏人が来るところではないんだよ。本とは、教養と知性の象徴なのだよ。財布を出して買う気がないなら出て行きたまえ」。我ながら、それもそうだと思った。俺は本屋に冷やかしに来たのではない。卑屈なルサンチマンもたまにはいいことを言う。

 俺はニーチェのある本棚を適当に眺めた。どうやら哲学のコーナーのようで、よく探すとニーチェのほかに、カントやナントカがいた。また、彼らについての研究本も多く、ここにいれば随分楽しく過ごせそうだなと思った。

 ふと、「面白そうだ」と思った本を手に取ってみた。パラパラとページをめくってみると比較的綺麗で、汚いのが嫌いな俺でも気にせず読むことが出来そうだった。値段はいくらなのか気になり、値札シールを探してみたが、どこにも見つからなかった。怖気づいた俺はそっと本を棚に戻し、店からそそくさと立ち去った。


 なかなかハードなショッピングだった。このまま次の本屋に行ったところで、また本に脅かされてすごすごと出て行かざるを得ないだろうということは明々白々であった。こういうときは飯を食うに限る。今の俺にはエネルギーが足りていないのだ。

 さて、「神保町と言えばカレーだろう」と意気揚々と歩いては見たものの、なんだか、どうにもカレーの腹ではなかった。冷たいものが食いたいような気がした。とはいえ季節は秋、風も吹いているから身体を冷やすのは良くないのではないかと思案していると、右手側にそば屋があった。しかも、なんと十割そばらしい。値段もかなり安い。それに、食後に蕎麦湯があるのだから身体も温まる。これは入るしかないと、俺は店に飛び込んだ。


 入るなり、食券機があった。「ざるそば一択だ」と意気込んでいたが、この店ではもりそばと言うらしい。違いは何なんだ。もりそば二枚を注文。どうやらつけダレも二種類ついてくるらしい。

 店員に食券を渡すと席で待つよう指示されたので、椅子に腰かけてふうとため息をついていると、「もりそばのオキャクサマ~」とあっという間にお呼び出し。体感1分ほどの出来事である。本当にそばを茹でたのか疑問であった。

 まずは普通につゆにつけてパクっと一口。歯ごたえがあり、つるつるとした食感で、まあ普通、なのだが、十割そばという割には、全く香りがない。蕎麦粉の香りも、小麦の香りも、なんにもない。

 つゆも、そばの味を際立たせるということもなく、あまり味がしない。うどんならこのくらいの濃さでいいのかもしれないが、そばにはもっとキツく絡んできてほしい。

 もう一種のつけダレは、胡麻ダレだった。こちらは胡麻のにおいがキツく、正直言ってまずかった。ほとんど手を付けず、普通のつゆでそばを2枚食べた。

 蕎麦湯も自分の蕎麦を茹でたのをもらえるわけではなく、魔法瓶に入っているのを勝手に飲めというスタイルだった。「そば屋なのに、風情が無いなァ」と不満はつのったが、とりあえず空腹は満たせたので、まあ良いかという気分である。目的は古本屋であって、飯を食いに来たのではないからだ。


 またとことこと歩き、気になった古本屋に入った。狭かったが、前の店のような圧迫感はなかった。というのも、本の種類がカジュアルなのである。哲学やら歴史やら重々しいのではなく、いわゆる普通の文庫本が多かった。さらには2階があり、階段にはかなり古い映画雑誌や演劇雑誌が飾られていて、きちんと値段がついていた。まず買うことはない本たちだが、なかなかオシャレだと思った。

 2階には映画や歌舞伎、演劇などの雑誌が豊富にあった。色々ありすぎてはっきりとその種類を覚えていないためこれ以上の紹介は割愛するが、他の店と比べてカフェテリア的であった。店内に自販機と、いくつか机と椅子が置いてあり、コーヒーを飲みながらゆったりと本を読めるのである。狭い店内に、店主のロマンが見えた。

 読書とは冒険である。文字から伝わる世界に思いを馳せる、小さな冒険が読書だ。椅子と机はいわば港と船。温かいコーヒーを啜りながら、本を開きページをめくる。そのとき人間の精神は、現実とは違う世界に出発している。読書にはロマンがある。この店はそんなロマンの在り方を、よく理解している。店が狭いとか本が古いとかコーヒーが不味いとか、そんなことはロマンに関係ない。読書には机と椅子を置く程度の空間があればいい。ロマンの在り方は、広いも狭いも古いも新しいもなく、そこに冒険を求める心さえあれば、完成するのである。

 木造で温かみと落ち着きのある店内を歩くと、外からやってきた自分はまるで異邦人であるかのように思われる。俺は異国から本の国にやってきた旅人だ。本の国には見知らぬ本がいっぱいある。手に取ってみると、自分の知らない文章が書いてある。俺の知らない物語。誰かの思い、歴史。いつ書かれたかは知らないが、その本は確かにどこかの誰かが書いたのだ。どんな思いで書いたのだろうか、どんな人生を送ってこの文章を書いたのだろうか。読んでみなければわからない。読んでみたい。そんな思いを察してか、本の国の住人は、そっと俺に机と椅子とコーヒーを差し出す。そして俺はこの国を好きになる。また来たくなる――そんな筋書きを、思った。

 この店には間違いなく物語がある。俺はその物語の一文に入り込み、ひとつの理想を見た。

 人生にはロマンが必要だ。そして、ここにロマンがある。穏やかなる空間と、精神の冒険。嗚呼ロマンよ、ここにいたのか。


 良い精神を見ると嬉しくなる。こだわりの中に深い人間性を感じたとき、人間の想像力に鳥肌が立つ。もっとこの世界になにか、自分の想像を超えたものが生まれているのではないかと震える。

 俺はいてもたってもいられず、溢れる感情を持て余して店を飛び出した。神保町は面白い! 買わずに本を読み続ける客をもてなす、変な古本屋があるのだ。ロマンがある! ここにはロマンがあるぞっ! この感動を叫びたかった。きっと俺の思いは神保町の誰にも伝わらないだろう。だがそれでもよかった。小さな古本屋にロマンがありありと存在していたことが、嬉しくてたまらなかった。人間の想像力は面白い。それが目に見えただけで、満足なのだ。興奮冷めぬまま歩いた。


 神保町の町並みは綺麗である。整った道路は道幅も広く歩きやすい。往来に面した様々な飲食店、古本屋。店の明かりが薄暗い足元を照らす。俺は気の向くままにぶらついた。

 神保町は路地が多くて良い。小さな居酒屋の看板がピカピカと光って綺麗だ。暗くなった空をビルとビルの隙間から覗くと、自分がいかにも小さく、ちっぽけであるかを思わずにいられない。

 歩みを進めると小さな十字路があり、小さな駐車場があり、ここらへんに住む人々の生活を思わせた。

 置き看板。サワー240円。焼き鳥120円。客のいない居酒屋、バー。店内から外を眺める料理人。どこかの店から聞こえてくるスピッツの『チェリー』。秋の風。遠ざかる雑踏。ペタペタと鳴る俺のサンダル。

 

 狭い路地が好きだ。人の気配がぷっつりと無くなるのが好きだ。静かで寂しいのが好きだ。別に世界から人が消えたわけじゃないのに、ひとりぼっちを味わえるのがたまらない。

 「ここはどこだろう」と思う、別にどこでもいいのだが。振り返って道を曲がれば、さっきまでいた大きな通りがあって、たくさんの人間が何にも考えずに歩いている。でも俺はこの狭い路地でひとり、誰にも知られず、非日常的楽しさを味わっている。俺は、世界に一人ぼっちだ。このまま誰にも知られず、どこまでも歩いて行きたいと思った。

 旅人になりたい。どこか遠く誰も居ない場所で、ギターを弾いたり本を読んだりしながら、永遠の自由に縛られたい。南の島の浜辺で波の音と暮らしたい。星が流れるのを見上げながら眠りたい。そんな夢を女の子に語ったらドン引きされたことがあるが、俺は本気だ。

 旅や冒険には、ロマンがある。だがロマンには別れの寂しさが伴う。だからロマンと寂しさは表裏一体なのだ。俺が路地を好きなのは、路地に漂う寂しさが、ロマンへの憧れを思わせるからなのかもしれない。


 ぽつりと雨が降った。雲は濃くないが、もしかしたら大降りになるかもしれなかった。俺は路地を出て、駅のありそうな方向へと、適当に歩いた。そうしていたら道に迷ってしまった。

 最近買い替えたiPhoneで道を調べようと立ち止まると、偶然にもそこはオムライス屋の前だった。気が付くと俺は、オムライス屋に吸い込まれていた。ずいぶん歩いたので疲れていたのかもしれない。


 食券機の前でメニューを選んでいると、チキンライス大盛りやら特盛りやらの文字が目に留まった。食い意地が張っている俺には、大盛りを見ると頼まずにはいられないという悲しい習性がある。何も考えず、大盛りの食券を追加購入した。

 席に座ってオムライスが出来上がるのを待つ間、セルフサービスのピクルスとコンソメスープを楽しんだ。なんとこれらどれだけ食べても無料である。ピクルスは、酸味のなかに角を取るような甘みがある。コンソメスープは甘くて優しい味がする。なかなか美味い。

 そしてしばらくして出てきたハヤシチーズオムライス。ふわっととろっとした卵。甘味のあるハヤシとバターで炒めた甘いチキンライスの絡み合い。うーん、甘い……全部甘い。甘すぎる。

 決してまずくない。美味しいのである。ただし口に入れるもの全部甘いと、話が違ってくる。想定外の事態であった。オムライスには酸味が少し強いくらいの想像をしていたのだが、この店はとにかく全部の味が優しすぎる。

 黙々と食べた。基本的には美味いのだ。ただ、甘いというのが気になるだけだ。そんな理由では、決して俺は飯を残したりしない。

 だが残り半分にしてスプーンが止まってしまった。水を飲みながら思った。「失敗した」と。

 完全なミスだった。腹がいっぱいになってしまったのだ。ちょっと前にもりそば食べたからだ。2枚ももりそば食べたからだ。


 オムライスを残すことはできなかった。何故なら俺は大盛りを頼んでいるのである。大盛りを頼んで半分残していたら、完全無欠のバカな客と思われてしまうことだろう。

 今はまだ店主に俺が腹いっぱいであることはバレていないはず。なんとか食い切れば済む話。そんなことを思っていると、頭の中に声が聞こえた。「隠せ」――島崎藤村先生のありがたいお言葉、この一語に尽きた。

 隠すと言ってももちろん腹の中である。ひたすらに喰らった。やはり甘い。バターの甘味が強すぎる。チーズも甘い。マッシュルームも甘い。鶏肉も甘い。全部甘い。きつい。

 がむしゃらに喉に押し込み、水で流し込み、そしてなんとか食べきった。腹がはちきれそうだ。「ごちそうさまでした」。小さくつぶやき、ゾンビのような足取りで、俺は店を出た。

 

 外は強い雨が降っていた。俺は傘を持っていない。

 仕方がないので途中でビニール傘を購入し、駅まで歩いた。腹も足もパンパンである。電車の中で眠った。

 やっと家までたどり着き、濡れた服を脱いで、風呂に入り、しばらくくつろいでから上がり、身体を拭いて寝間着に着替えて、パソコンの前に座った。何にも思いつかないし書けない。もう疲れていた。泥のように眠りたかった。


 俺は布団に横になり、天井を見上げながら、思った。「俺は阿呆か」と。

 


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