ウサギ殺し
文学寄りで筆を取りました。どうぞお納めください。
学校とは飼育小屋だ。ウサギを大事に大事に扱って餌をやり、清潔な環境を維持し、下の世話まで教師が行う。結果育つのは、小屋から出てしまっては何もできない軟弱な生き物だ。社会の箱庭などと言われるが、学校がそんなものであるなら、子ども達が将来社会に出てひどく苦労することはないだろう。今の子ども達は、するべき苦労をせず、してはならない苦労をしている。私はまだ二十代だが、その昔小学校とはこんなところではなかった。教師による公開処刑や体罰は当たり前で、それが良いか悪いかは別としても、児童達は教師に対して畏怖の念を持っていたものだ。教師に叱られるから、という理由がいじめや非行の抑止力になっていたのも事実だ。少な くとも私の通っていた小学校では、だが。他も似たようなものだったと私は思っている。
今の時代、中学校はもちろん、小学校でも、昔はなかった文明の利器での陰湿ないじめが教師の目に届かぬところで横行している、らしい。そんなことにまで私は構ってやることはできない。教師の死角など掃いて捨てるほどある。モンスターペアレントの話も真剣な振りをしてただ聞き流す。私にとって信用を得るということはたやすいことだ。子どもも嫌いではない。甥や姪とよく関わるので扱いには慣れている。ただその小さな瞳の奥に何を隠しているのかわからないため、私は彼らから一歩も二歩も後ろに立って、最低限の教訓を教えるに止めている。私の陰口が叩けないよう、児童を平等に嘘でも丁寧に扱う。
「リツコ先生」
「リッちゃん先生」
「なあに?」
昼休みに入ると、教室を出ようとする私を二人の女の子が呼び止めた。この学校では教師が児童のことを下の名前で呼ぶという決まりがある。全くもって理解しがたい。そう呼ぶので児童達も私達教師のことをリッちゃんだのリツコだのと呼ぶのだ。私がいくら間合いを取っても、児童達には身近な存在となってしまっている。だから私はそれに応えるように、優しく気さくなリツコ先生を演じなければならない。
「暑いからお団子にしてー」
「あらあら、水泳の時に崩れちゃうんじゃないかしら」
「そしたらもう一回お団子にしてー」
「あたしも編み込みにしてぇ。リッちゃんが昨日してきたみたいなの。リッちゃん髪長くていいな」
仕方ない、と思いながら髪をその場で結ってやる。彼女達の専属スタイリストになった覚えはないのだがこういうことをよく頼まれる。しかしこれは慕われていると見て間違いあるまい。悪いことではない。可愛くないこともない。
私の容姿は普通とも、整っているとも言える。これは小学校で女教師を演じるのにはもってこいのことだと私は考える。まだ幼い子ども達、特に女子は綺麗物好きだ。私は学校で邪魔にならない程度のお洒落をしてきており、この顔とそれが相まって、先程の女子達のように気に入られる。これが中学校や高校であったなら、男子の気を引いている、と嫌がられるはずだ。しかし小学生男子には私の普通の部分が目に映り、絶大な好意を寄せられることも悪意を持たれることもない。絶妙な立ち位置を確保し、決して熱血教師のようなことはせず、はた目からは平穏なクラスを育成し見守っている。
私は今年、六年生のクラスの担任になった。教壇から見下ろすクラスはさながら人形劇のようだと、初めて担任を任された三年ほど前に思った。真面目に質問に答える子、ノートに絵を描いている子、突っ伏して寝ている子、手紙のやり取りをしている子、携帯をいじっている子。その俯瞰図は私の視界にすっぽりと収まり、その中の人物達は実に活動的だった。私が見ているとは思っていないのだろう。私は授業に集中していない児童を片っ端から立たせ、叱ることなく問題を解かせたり教科書を音読させたりしていった。そのせいか、幸いこのクラスの学力平均は良いとされた。他の先輩教師達はそのことでよく私にどうやって授業をしているのかと尋ねてきたが、逆にその教師らがどのようにしているのか というと、扱いに困った児童はその場で怒っているのだという。そのやり方は間違ってはいないが、私に言わせると効率が悪い。この程度のことで怒りを連発していたら、児童はそれに慣れてしまうだろう。それに、怒るのと叱るのは全く違う。怒るのは感情に流されるがまま一人で喚いているようなもの。児童達を怖がらせることはできてもそれが教育的指導となるかと言えば違うし、何より児童達が離れていく。叱るのは純粋な教育的指導だ。感情任せではなく、何がどう悪いのかを理路整然と少々きつい口調で言って聞かせる。これは、本当にするべき時に奇襲のようにしかけるから効果がある。ちなみに私は今年度まだ児童を叱ったことはない。パッと見た感じではクラスが平和だからだ。大体の人間関係図は把握できている。自分が女であるので女子同士のグループ相関図は非常にわかりやすかったし、男子の行動パターンもよく見ていれば自ずと理解できた。
その男子達の中で気になる存在がいた。ジュリ、イサム、エツヤ。気になるというのは、このクラスの癌になるのではないかという予感がしているということだ。俯瞰図からすると三人でつるんでいるわけではないようだった。だが三人が揃って何かをしでかすのでは、という不安があったのだ。彼らが全員でいるところを見たことがないというのに。
ある日の放課後、その三人の中のジュリが職員室にいる私のところへ質問しに来た。いつものことだ。ジュリは学年で一番成績がいい。百点を取りこぼしたことなど、私が担任になってから一度もない。そんな子がこれ以上何を質問する必要があるのか、疑問だった。質問内容はいつも簡単なもの。しかしこの日は少し違った。
ジュリ、という可憐な響きの名前に負けていない可愛らしい顔は、どこかしたたかさを醸し出していた。この時を待っていた、今までのことは自分を印象付けるための余興に過ぎない、そう言っている面持ち。
「リツコ先生、これがわからないんです。教えてくれますか?」
見せられたのは学校の教科書ではなく、彼が塾で受けた算数のテスト用紙。塾で直接訊けばいいものを、わざわざ私を試しているように思えた。いや、多分そうなのだろう。ジュリは私立の難関中学を受けるのだと、いつぞやの三者面談の際に母親から聞かされた。私も中学受験は経験しているので、その難しさはよく知っている。教師だからといって、全部を解けるわけではない代物。下手をしたら全く取っ掛かりを見つけることができず、恥をかいてしまうだろう。
ジュリが渡したのは思った通りの難問だった。解答もなく、普通なら教師もお手上げだ。
「どう?先生わかります?」
舐めるなよ。
「これはね、まずここに補助線を入れるでしょう?」
悪いが私はその昔勉強ができたのだ。中学や高校を職場として選ばなかったのは、小学校が一番子ども達を御しやすいと考えたから。私にとって厄介な子どもがより少ないと考えたから。やろうと思えば今でも大学受験用の勉強だってできる。
「はい、これで解が出る」
「わぁ、ほんとだ。先生すごい」
「それは塾のものなんでしょう?ちゃんと塾の先生に訊いた方がいいわ。私じゃ間違った教え方をするかもしれないから」
「先生なのにわからないことがあるんですか?」
「そうかもしれない。だって貴方のやっていることは公立小学校で教える範囲じゃないんだもの。普通先生達は対応しないわ」
「ふぅん。でもリツコ先生は解いてくれましたね」
「今日だけよ。さ、もう遅いんだから気を付けて帰りなさい」
「はーい」と言ってジュリは踵を返した。それまで屈託のない笑みをこちらに向けていたのが、その瞬間、不愉快そうな表情になったのを私は見逃さなかった。
やはりジュリは私に鎌を掛けて楽しんでいたのだ。見た目は素直で優しそうな男の子。この難問攻撃に、去年の担任の教師はかなり難儀したらしい。しかしそれは自分の力不足なのだと、本当にジュリは愛嬌のあるいい子なのだと、その教師は私に語った。
力不足は正解かもしれないが、あのジュリのどこに愛嬌があるというのだろうか。私には彼の腹黒さが初めて会った時から知れていた。アレはまるで子どもの目をしていない。
そのジュリの目が、表情が、突然曇る時があった。一週間に二回。給食が終わり、昼休みに入る頃、彼はすっと立ち上がって暗い顔で教室を出て行く。それを追うように、今度はイサムが席を立って行く。
イサムは、一言で言えば昔のガキ大将だ。クラスで最も体格がよく、勉強はできないが体育は文句なしの成績。そんな彼には黒い噂があった。同級生に暴力を振るう、つまりいじめをする側にいるというのだ。イサムが五年生だった時の担任によると、去年もターゲットを決めてこそこそとそんなことをしていたらしい。被害者はイサムの報復を受けることを恐れ、何も打ち明けなかったという。言えたとしても人伝え。だからイサムを責めることができなかったのだろうか。まるで彼が児童達の中で一番権力を握っているよう。暴力権とでも言おうか。
まさかあのジュリが標的に甘んじているわけがない、としか思っていなかったので、私はそれを放置していた。一応水泳の時間に体をチェックしたが、どこにも暴力を受けた形跡はなかった。だが一度、「イサム君、ジュリ君とは仲がいいの?いつも昼休みに会っているでしょう」と訊くと、「会ってねーよ!このババア!」、そのように返してきたので「貴方もいつかジジイになるのよ」と言って、彼の赤い頬(紅潮しているというより、元から赤いようだった)をぺち、と手で挟んだ。彼はびくついていた。私がうっかり怖い顔をしていたのだろうか。とりあえず、その時の彼の態度はまさに痛いところを突かれた、という感じだったので、私はジュリとイサムにつながりがあるのを確信した。しかも イサムが隠さなければならない事情があるらしい。暴力権があるなら、ジュリがいじめを受けているのを私に話すのではと気に掛ける必要はないのに一体どういうことなのか。ジュリが暗い顔をしている、というだけで「いじめられているの?」と訊くわけにもいかない。暴力は受けていないようだが、暴力を行使しないいじめなど山ほどある。私にできるのは詮索することまでだ。あの打算的なジュリなら大丈夫だろう。いじめを乗り切る術くらい知り尽くしていそうだ。無責任にそう放っておいた。
授業を終え、職員室で黙々と全教科のテストを採点していた時だ。
「またか」と私はつい口に出してしまった。採点していたのはエツヤのもの。エツヤとは例の三人の内の一人だ。彼は問題児中の問題児と言われていた。私は深呼吸をしたのち、気合を入れて彼のテスト用紙を採点した。
エツヤの成績は学年で最下位だった。だが、これには奇妙な訳がある。今採点したテストのようなことがたまに起こるから。即ち、彼は時々全てのテストで零点を叩き出すのだ。それも空欄を作らず、きちんとした言葉で問題に答えている。こんな真似は、ジュリと同じく全ての答えがわかっていないと出来ないことだ。なぜこのような行為に走るのか。そう思っていると、後ろからかなり年上の男性教師に声を掛けられた。
「エツヤがまたやりましたか」
勝手に人の机を覗くなと言いたかったが堪えた。
「ああ、高橋先生。四年生の頃からなんでしたっけ?彼がこんな風になったのは」
この件でエツヤは教師の中で学校の大恥の一つだと決めつけられることになった。
「そうらしいです。僕は去年持ちましたけど、本当に問題児。リツコ先生も大変ですね。まさかイサムとエツヤを同時に持つことになるとは」
それに加えてジュリ、だ。それはともかく、同僚にまでリツコと呼ばれる筋合いはないだろう。
「そんなことはないですよ、高橋先生。エツヤ君も意味があってこんなことをしているんでしょうし。それを汲み取れないのは私が不甲斐ないからです。もっと教師として精進しなければなりませんね」
「はぁー。まだ若いのにそこまで覚悟ができているんですね。でも若いっていうのはいいですね。こう気合が入っているというか、初々しい志があるというか」
「そうですか」
昔は若いことがステータスだと思っていたが、こう言われると馬鹿にされているようにしか聞こえない。それと、そんな風に言われるほど私は教師としての情熱を持っていない。持っている振りをするからいけないのだろう。うら若き真面目な女教師。それが私に張られたレッテルだ。その通りに振る舞っているのも事実。だがいざそれを指摘されると少し腹が立つ。おかしな言い分だとはわかっている。
「リツコ先生、もうすぐ丸付けも一段落でしょ?どうですか、そのあと」
高橋先生は、くいっとジェスチャーをした。確か独身だと聞いていたが、なかなかストレートな人だ。だが腐っても先輩、気になっている生徒達のことを聞けるかもしれないと思った。
「金曜日ですし、構いません」
エツヤの答案を三つ添削すると、やはり全て間違いだった。全員分の添削をするのはどちらにしても家に持って帰らなければならず(本当はダメなことだ)、中断して私は高橋先生に連れられなんだかお洒落なバーに入って行った。多分、口説くにはここと決めているのだろう。奥の席で向かい合って座る。私は素が出るといけないので酒ではなくノンアルコールのものを頼んだ。「今週もお疲れ様でした」と乾杯をして、私は酒っぽいものを一口飲み、グラスを置いた。「おいしいです」「それはよかった!」高橋先生はご満悦のご様子だ。
「リツコ先生はお酒飲まないんですね」
「ええ、すごく弱いので」
大嘘だ。酒は好きなわけではないが、飲めと言われたらいくらでも飲める。ただ酒癖は悪い。学生時代はそれでよく失態を晒したものだ。ここで酒が入ったらまずいことになる可能性もある。もうこの歳になってやってはいけないことだ。私の子ども時代は終わってしまったのだから。
高橋先生が私を口説く前に――自惚れ過ぎか――、私から話を切り出した。
「私は去年二年生を教えていたのであの三人のことはよく知らなかったのですが、先生はいかがですか」
「三人?イサムとエツヤの二人ではなくて?」
「ああ、あとはジュリです」
彼は「あっはっはっ」と笑って手を「ないない」という風にパタパタさせた。
「ジュリは自他ともに認める優等生じゃないですか。我が校のホープですよ。どうしてそんなことを言うんです?」
そうか。あの、人を馬鹿にしたような目をこの人は知らないのか。担任でなかったから。いや、担任であっても気が付かなかったかもしれない。私が敏感過ぎるのか、この男がアホなのか。
「ならいいです。イサムはどうですか」
高橋先生は急に真面目な顔になって答えた。
「同じ学年だったから多少知っていますよ。大問題になった奴です。何人もの児童に暴力を振るって、一人を病院送りにして……。それも女の子だったんですよ。顔に大きな傷が付いてしまいましてね」
「待ってください、そんな大きな事件があったのなら、教師全員での会議になったはずじゃないんですか?私は知りませんでしたよ」
「こうしてリツコ先生に話しているのも実はいけないことなんです。校長と教頭、当時の五年生の担任四人しかこのことを知りません」
「ということは、家の問題ですね」
「なぜ……?いや、リツコ先生ならわかりますか。そうなんです。イサムの家はカタギじゃないんです」
そうか、それで学校は暗黙の了解でイサムについては何も言わないのか。被害者の親御さん方もまた然りということ。
「リツコ先生のクラスでは大丈夫ですか?」
「ええ、今のところは。大人しいものです。そういうこともあるかと思って、男子だけでもと肌を見てみましたが、暴行を受けているような子はいませんでした。女子は何かと私に報告したがりますが、イサムが女子をいじめている、というようなことは言って来ないんです。そういう女子はイサムを怖がっていないし怖がる理由、家のことを知りません。去年のその事件については知っているかもしれませんが、密告しても自分に害が及ぶとは考えないでしょう。ですから彼女らの進言は信じるべきです。つまり無言をも信じなければならないはず」
「そこまで考えているとは……。なんかどっちが年上なんだかわからなくなりますよ」
それはそうだ。生憎私は貴方よりよく見てよく考えている。それは息をするのと同じ自然なことで、別に教師生活に燃えているわけではない。ただクラスには穏便に終わりを迎えて貰わなければならない。それだけだ。
「高橋先生は、エツヤ君の去年の担任でしたよね」
「エツヤ『君』?あの子だけ?」
「ああ、いえ、つい。憎めないもので」
「ジュリはジュリって言ったのに」
「ジュリは憎むところがありましてね」
「うーん、リツコ先生変わっていますよね。非の打ちどころのないそれこそジュリみたいな、優等生を絵に描いたような人なのに」
頼むからジュリと並べるのは止めてほしい。だが周りからすればこれが私への評価なのだろう。正規の道から逸脱せず、教師として、健康で毛並みの良いウサギ達を上手く育てることのできる飼育係。
それが違うから、今私は酒を飲んでいないのだ。
「エツヤは……リツコ先生の見ている通りですよ。テストでわざと零点を取って。授業中はずっと窓の外を見ているし、突然いなくなって、何してたんだ、って怒ると『ウサギを見に行ってた』って言う。そういうこと、ありませんか?」
ウサギ。
「それは……初耳ですね。テストのことしか知りませんでした。授業中、態度の悪い子には問題を当てているくらいですから、エツヤ君がそんな行動に出るのであれば気が付くと思うのですが……。授業中も私の方を向いていますし、教室を抜け出したこともありません」
ウサギを見に行っていた?
「そうなんですか。それってあれじゃないですか、リツコ先生に惚れちゃってるとか」
「あはは、まさか」
「いやいやわかりませんよ!小六っていったら男子だって、もうませてきていますよ。綺麗な女性の先生が勉強を教えてくれるってシチュエーション、僕だって好きでしたよ」
上手くかわさなければ。そう思い適当に話を続かせ終わらせ、早めに帰ることにした。
「そうだ、すみません忘れていました。私このあと約束があるんです」
「えっ、まさか彼氏……とか」
「さぁ、どうですかね、ふふ。あまり時間が取れなくて申し訳ありません。お誘い頂きありがとうございました。代金、ここに置いておきますね。失礼します」
私は多めにお金をテーブルに置き、有無を言わさずバーから早々と出て行った。収穫はあった。私が三人に関わらなければ無駄な話だったのだが。
マンションに帰ると、添削していない残りの答案を採点していった。国語、算数、理科、社会、体育、図画工作、家庭科、と、まさにほぼ全教科。学校で終わるはずもなかった。なんとか全部を終え、一息つきコーヒーを飲む。やはりエツヤの答案は全て零点であった。それだけを集めて見つめる。理科で『ヨウ素』と書くところを、『葉酸』と書いてある。もちろん小学校で習う言葉ではない。算数もxとyを使った方程式で計算した跡がある。そんなものは中学からしか学ばない。
どういうことなのだろう。彼は完全に小学生の域から脱している。数字だけ見ればジュリが学年一位だが、知識に関してはエツヤの方が軽く何馬身も先を行っている。なぜ、博識を駆使してこんなことを。私には彼が意味もなく零点を取っているのだとは思えなかった。なぜだろうか、彼にいい意味で注目している自分がいるのは。
今まで彼をこのことで呼び出したことも、注意したこともなかった。これは一度彼と対話してみるべきなのだろうか。そんな教師らしいことを私にしろと?そう思いながら、彼の答案を床の上に並べてみた。あとで他の児童の答案に混ぜるので、順番に、テストが行われた順で。
その時、あることに気が付いた。全部の答案の最初の欄がカタカナで書かれているのである。他の欄は漢字やひらがな、記号であるのに。一教科ずつ全員の答案を採点していたので気が付かなかった。
国語から順に、「トバク」「カイトウセヨ」「ナイゾウ」「クジョウ」「テヲフリアゲル」「シュールレアリスム」「スキヤキ」。私は目を見開いた。
順に頭文字をつなげていくと。
『トカナクテシス』つまり、『咎なくて死す』になる。
いろは歌にまつわる有名な説。いろは歌を七文字ずつ分解し、始めの文字を拾っていくとこの言葉になる。偶然なのか作者の故意なのかどうかははっきりしない。
それよりも重大だったのは、これをエツヤが知っており、用いているということ。それも恐らくこの言葉の意味することが起きる、または起きていると私に伝えているということ。何かを苦にして自殺を?あるいは他の誰かが?自殺、他殺といかなくとも、傷んでしまうとも解釈できる。
これだけはわずかな可能性があると言えるので流石に後には引けなくなった。呼び出さなければならない。今までの答案ではこんなことはなかった。零点を出していたのは気付いてほしかったから?もしそうだったのなら。
ごめんなさい。私はもっとちゃんとした教師でいるべきだった。思えば彼の顔をまともに見たことがない。後ろから私をじっと見つめている彼を知っていたというのに。熱血教師になろうというわけではない。私の感情の、思考の赴くままに行動しようとしているのだ。それがどんな評価を受けることになるかなど、私は考えてもいない。普通の教師として目覚めかけただけで。
月曜日の放課後、談話室にエツヤを呼び出した。
向かい合ってソファに座る。
「エツヤ君は随分と難しい言葉を知っているのね。高校で習う言葉なんかも。どうして?」
「あれ、零点の話をするのかと思ってた」
「その話はあとよ。今は貴方の背景が知りたいの」
エツヤは声を出して笑った。
「先生って面白いね。俺とこんなに近くで話した人いないよ。なんで俺が難しいこと知ってるのか、だっけ。そんなの簡単。高校生の兄貴と同じ勉強をしているから」
「そう、なるほどね。それなら頷けるわ。でも普通じゃない。自分でしようと思ったの?」
「うん、簡単そうだったから」
「じゃあ小学校の勉強が退屈だわね。零点を取っているのはそのせいなのかしら」
「すごい」
エツヤは目を輝かせて言った。
「気付いてくれる人なんていないと思ってたよ。四年も五年も担任は的外れな説教をするだけだった。でも今年これをやっている理由はそれだけじゃない」
「私に胸中を察して欲しかった?『咎なくて』?」
「『死す』!」
エツヤは立ち上がって腕を広げていた。嬉しくて仕様がない、といった面持ちで。
「よかったわ。その様子だと、死のうだなんて考えていないみたいね」
「死ぬのは俺じゃないよ。でもウサギの誰かがそうなるかもね」
私と同じく、エツヤも児童のことをウサギと喩えているということに、私は改めて眉をひそめた。
「貴方が殺すの?」
「うっわー、そう返してくるんだ。やっぱり先生は他の誰とも違う。いや、俺と同じだよ」
「同じ?私の何が貴方と同じだと?」
エツヤは私の方へ顔を近づけて言った。
「逸脱者、ってとこ」
「どういう意味なの」
エツヤは脚を組んでゆったりとソファに埋もれた。
「先生は、真面目で育ちのいい、上等な小屋で育った高級なウサギに見えるけど、俺だけは知っている。先生が育ってきたのはウサギ小屋なんかじゃない。大自然だ。猛禽類なんだよ。ウサギなんていつでも捕らえられる。でもあえてそうしない。食べる気なんかない。外面は優秀な飼育係だから。教師だと思わせて教師じゃないんだ。打算的」
私は上手に演技をしていたと思っていたのに。更に先程から『ウサギ』という言葉が飛び交っていて――一方的にエツヤから飛んでくるのであるが――私は今実に怖い思いをしている。それほどまでに私は彼とシンクロしているというのか。
「私が、貴方と同じだって言ったわね。なるほど、貴方が説明したことは正しいわ。私は仮面を被っている。教師としては逸脱者かもしれない。でも私には貴方が、自分で言うほど普段から逸脱しているとは思えない。去年の貴方の担任は、貴方の奇行に手こずったと言っていたけれど、あのくらいの行動なら本来よくあることと認識されるべきだし、今は貴方、そういうことをしていないでしょう。テストのことは確かにおかしいとは思ったわ。でも何か意味があると、なんとなく思っていた。貴方は私と同じではなく真逆にいる人間よ。逸脱者の振りをして、私に気付いてほしいと思っていた。『トカナクテシス』じゃなくて『オレニキヅイテ』でもよかったはず」
エツヤは嬉しそうな顔を更に輝かせた。
「俺もどちらにしようか迷ったんだ。でも前者じゃないとダメだと思った。いつかウサギが死んじゃうから」
「ほらね、ちゃんと考えた上での逸脱。貴方と私は構造が似ているだけで、体現している物は全くの逆のものなのよ」
エツヤは少し黙っていたがすぐに言葉を返してきた。
「真逆だとしても、構造が似ているんだろ?それは嬉しいよ」
嬉しい。小学生男子が、自分より一回り以上年かさの女と同じで何が嬉しいというのか。
「構造というなら、先生はジュリにも似ている」
児童から、それもエツヤからもそう言われなければならないとは。しかしその理由は想像できた。
「二重人格のいい子ちゃん、ってところが、かしら」
「そうだね」
「貴方、ジュリ君と親交があるの?」
「親交というものはないけど、一方的に俺が観察しているからわかるよ。先生に質問しに行っているところも見たことがあるし、あの頭でもう訊くところなんてないと思うのに、おかしいなと思って考えたら何のことはなかった。ジュリは優等生の振りして先生を困らせたいと思っているんだ。ね、構造は先生と同じだろ?」
彼と話していて気になることがあった。
「二つ、質問を許してちょうだい」
「うん、先生なら大歓迎」
「まず一つ目。ウサギが死んじゃうっていうのはどういうことなの?まさかクラスの誰かが死んでしまうということ?病気か……それとも誰かに殺されてしまうとか」
「そこまで考えちゃうなんて、先生はやっぱり逸脱者だよ。普通こんなに文字通りに捕らえて追及なんてしないと思うな。またエツヤがバカやっている、って流すはずだよ、他の先生……他の人なら。だからすごく嬉しい。でもその質問には答えられない。言ってしまうと俺の立場が危うくなるんだ。言えるのはここまで。今の先生じゃあ残念だけどウサギを救えない」
話が見えてこない。ウサギを救いたくてあのメッセージを書いたのではないのか。『俺に気付いて』よりも『咎なくて死す』を選んだということは、ウサギの誰かが罪もなく死ぬ、あるいは痛めつけられる、ということを言いたかったのだろう。しかしそれに対応するには私の器量は不十分なのだという。ならばこのメッセージも意味がないではないか。
それとも、これから何かが起こることを彼は知っていて、その前に私に自身をアピールすることで精神的な支柱を作ったのだろうか。その出来事が起こっても心が折れないように。だとしたら、それは即ち殺されるのは、八割方自分だと言っているようなもの、か?
「エツヤ君、貴方……」
「質問は二つだって言ったじゃん。二つ目、してよ」
私がここで訊いても話してくれるわけはない。
「そうだったわね。じゃあ訊くけれど、貴方はどうしてジュリ君のことを観察していたの?貴方みたいに頭がいいから?話が合うと思って近づこうとしたの?それとも私と同じだから興味を持った?」
エツヤは組んでいた脚を戻して、背もたれに預けていた背中を起こし、改まった。
「頭がいいとかそんなんじゃない。先生みたいだっていうのも、ごめん、違う。逆なんだ。先生はジュリみたいだから気に入ったんだ、多分」
私がジュリみたい、だから?
「俺はジュリが好きなんだ」
意外過ぎる答えに、流石の私も少しだけ意表を突かれた。
「それは友達としてではないわよね」
「あはは!先生最高。そりゃ友達じゃないしね。俺の一方通行」
「それは一筋縄ではいかないでしょうね」
「前の担任は腰抜かして喋れなくなったんだよ?先生はなんで普通に受け止めてんの?」
「別に珍しいことではないのよ。小学生の男の子が、っていうのは初めて聞いたから少しびっくりしたけれど。大人になったらもっとそんな人がいる。前の担任の高橋先生は人生経験が浅かったのね。遥か歳下の私に言われたくはないでしょうけれど」
「すっごいなー」
「すごくはないわ。これは常識と言っていい。まだまだ常識知らずの人がこの国には溢れているけれど」
「俺はおかしくない?」
「当然よ。難を言うなら、なぜジュリ君を、ってことね」
「俺だってあいつの腹黒さは知ってる。先生を試すのもどうかと思う。でもなんか、どうしようもないんだ。会った時からあの顔の残像が消えないんだ」
誰の目にもわかる明らかに叶わぬ恋だ。応援できるはずもない。
「もう一つだけ、質問を許してくれない?」
「いいけど」
「貴方、女の子を好きになったことはないの?」
「ないよ。何人か男子を好きになったけど、本気なのはジュリだけなんだ」
私が暗い顔をしていたのだろう、彼は気遣うようにこう言った。
「大丈夫だって先生。俺だってこれが実るとは微塵も思ってないよ。ジュリはノンケだし、性悪だし、大体俺まだ小学生なんだし、そういうのは早いと思っている。これから先大人になっても男しか好きにならないんだったら確かに困るかもしれないけど、先のことはわからないじゃん。もしかしたらいい相手が見つかるかもしれない。女の人を好きになることだってあるかもしれない。だから平気だよ」
私がこの年齢だった頃こんなにも自分の頭を自由自在に操って今のようなセリフを作れたか、と言われたら無理だっただろう。
「そう、貴方は強いのね。そして正しい。逸脱者なんかじゃないわ。と言われるのは嫌かしら。逸脱者でいたい?」
「いいや、先生に正しいって言われたら、嬉しいよ」
「小学生にしてそんなにしっかりしているのは、逸脱者かもね」
ふふ、と私達は笑い合った。
やはりこのエツヤの本性を、他の教師は見抜けなかった。私が見抜けると思って、エツヤは必死に私の気を引こうとした。クラスの中で彼は浮いた存在だった。それは変な子どもだから、という周りの教師や児童達が思っているような理由ではなく、彼があまりに大人びていたから、だ。誰とも喋らないので、私に声を掛けることも憚れたのだろう。そうして一生懸命零点の答案用紙を作り続けた。
これが俺のメッセージ。今までの担任とは違って、先生ならわかるだろう。
なぜなら先生は、同じ穴のムジナなのだから。
「そうだ、今なら大事なことが言える」
「大事なこと?」
「きっと俺にしか先生にチクることができない」
エツヤの顔が突如真面目なものになった。
「聞くわ」
「先生も気付いていると思うけど、たまに昼休みになるとジュリとイサムがふけるだろ?」
「ええ、知っている。でもそれだけで二人を呼び止めるわけにはいかないから何も言わなかったのだけれど、まさか……ジュリ君はイサム君にいじめられているの?」
「いや、違うと思う」
ここまで、私は話が掴めなかった。あの、ジュリが教室を出る時に見せる顔からすると、いじめられているのだと考えるのが自然だと思ったのだが。
「ジュリが、イサムをいたぶっている」
「え?」
それはつまり、私が思っていた彼らの立場が逆だったということ。
「どうして……いや、その前にあのイサム君がいじめられる?」
「イサムは去年暴力事件を起こしたんでしょ。そこからどうなったかくらい想像できるよ。それ以後先生達がイサムに何も言わなくなったことも知っている。それがなぜかってことも頭を使えばすぐにわかる。お家柄がイイんだろ?でもそれってジュリの前では逆に弱みになるよ。先生なら知っているはず。ジュリの父親の職業を」
私は一時息をするのを忘れていた。
「警察官」
「そう。それも結構偉い人みたいだよ。まあ、たかがイサムのことで警察は動かないけどね。それでもイサムには脅威に感じられたんだろ。『家に知れたら』って。あまり頭が回る奴じゃないし」
「確かにそれならイサム君が被害者になれる理由が説明できるわ。でもジュリ君はどうしてそんなことをするの?わざわざ私に重たい顔を見せていかにも今からいじめられに行きます、って伝えてまで」
「それは俺にもよくわかんない。あの顔、やっぱ先生も気になってたか。つい視線で追っちゃって俺とも目が合う時があるから、俺のことは気付いているかもしれない」
「みんなの肌をよく見てみたけれど、盲点だったわ。私イサム君の肌を見ていない」
「水泳の時でしょ?それでも見えないところがあるから。ちょっとイカガワシイくてセクハラになるから言わないけど。でも多分そういうんじゃないよ。先生は体の傷とか痣とかを探したんだろ?でもいつも見慣れているところには気付かなかったね」
「見慣れているところ?」
「イサムの、顔だよ」
言われても、わからなかった。必死にいつものイサムを思い浮かべる。小学生にしてはごつい顔の輪郭、坊主頭、太い眉、いかにも堅気ではなさそうな鋭い目、それに似合わぬ赤い頬。
「頬……?」
「そうだよ、イサムはうちのクラスに入りたての時はあんな赤いほっぺたじゃなかった。度々ジュリに叩かれてああなったんだ。よく見ると紫色になっているよ。俺、怪しいと思ってつけたことがあるんだ。そしたら二人がウサギ小屋の裏に隠れていて、叩く音がしてきた」
私の見ていないところでそんなことが。いや、それよりも、やはり怪しいと思った時に話を聞くべきだったと大いに反省した。この時初めてクラスを持っている教師としての責任感が生まれた。今までの私は無責任過ぎた。
「先生、頼むよ。もうジュリにあんなことさせないでくれ」
エツヤの悲痛な声に私はきちんと耳を傾けた。
「ジュリ君とイサム君にも話をしてみましょう。今聞いたのはあくまで可能性の話。貴方の密告とはしないでおくわ。ある生徒が気付いたことだと……しても貴方だとわかるか。先生の推測で、ということにしておきましょう。どうせ目撃情報なんてジュリ君からしたら証拠にはならないと言われるでしょうし」
「ありがとう、先生」
彼は初めて柔和に、花がほころぶかのように笑った。
自宅に帰ってから物思いに耽っていた。
エツヤとは、あのように話してみるまでまるで私と関係がない児童だった。無口で、誰とも絡まず、笑ったところも見たことがなかったのだ。仕組まれた解答用紙だけが彼の言葉だった。私は彼について何も知らなかった。自分の重い恋心に関して、わきまえているような口ぶりであったが、それはつまり小学生にして大人の恋愛をしているということであり、叶わない恋であると受け止めているということは自傷行為でもあり大人であってもそれは手痛いものであるのに、やはり小学生の彼は大人よりも重荷を抱えているのではないだろうか。あの、最後に見せた笑みは、ジュリへの想いが詰まっていた。私はせめてジュリが彼の心を踏みにじらないように導きたかった。エツヤが好きな相手であって も、私にとっては癇に障る児童だ。上手く話を聞き出せるだろうか。
ジュリもまた、小学生とは思えぬ人間。勉強ができるだけではない。脅威の記憶力を持っている。一度見たこと、聞いたことは、興味があれば忘れない。
一度こんなことがあった。私が学校でクラスの連絡網が必要だった時、それを家に置いてきてしまっていたことに気付いた。授業が全て終わって教室から児童がいなくなった時だった。パソコンに上書きをするため、間違いのないように、児童に番号を確認して添削をしてもらった一枚の試作品。忘れて来たのはそれだった。今すぐ全員の電話番号が必要な時。ここまで言えば察して貰えるだろうか。いつものように私に質問しにきたジュリが来たので、冗談のつもりで言ってみたのだ。
「ジュリ君、この前の連絡網、私の机にあったやつじっと見ていたわよね。先生持っていたんだけれど忘れてきちゃった」
「はい、全部覚えていますよ」
それからジュリは児童四十名の家の電話番号と携帯番号を全て正確にすらすらと言っていったのだ。面食らうなんてものではなかった。
知識だけならジュリよりもエツヤの方が上だと言ったけれど、それはジュリに現状覚えなければならないことしか覚えないという、ただの無関心から生まれている順位であった。記憶力はジュリが上で、思考力がエツヤの方に分があるのだ。この二人の天才を擁するクラス、その上ガキ大将までいる。高橋先生の言う通り、私は大変な教師なのだろう。だが、負けるつもりはない。
「なんだよ、俺帰りたいんだけど」
「大事な話があるの。遅くはならないわ」
他の教師が恐れるイサムを、私は躊躇なく捕まえた。エツヤと話しをしたあの談話室に連れて行く。イサムはごねたが、「私が知っていることを、お父さんに言いつけるわよ」、そう教師らしからぬ脅し文句を言い放つとイサムはびくついて私についてきた。
「イサム君、貴方去年までいろんな子に暴力を振るってきたんですってね」
「悪いかよ」
「悪いわね。貴方のことだから、いけないことをした子にお仕置きしたってわけではないでしょう?何も悪いことをしていない子達を傷つけたんでしょう?女の子の顔に傷をつけるってことがどれだけひどいことだかわかる?わからないでしょうね。でも世の中ではひどいことだと言われているの」
相手はイサムだ。このくらいの揺さぶりはして当然だと私は考えた。
「そりゃしたよ。だってすかっとするじゃん」
「私はしたことがないからわからないわね」
「俺がちょっと殴っただけですぐ死ぬんだよ。死んだらもう面白くないから他のを殺す」
「そうやっていじめが広がっていったのね。最低だわ」
イサムが腹を抱えて笑う。
「リツコも他のセンセーと同じこと言うんだな。そんなんで俺を止められるとか思ってんの?」
思っていたより背伸びをした話し方をする。私も普通の子にする喋り方を止めた。
「ちゃんと先生と呼びなさい。上下関係の重要さくらい貴方なら知っているでしょう。それに私を他の先生と同じだなんて思わないことね。貴方の後ろ盾なんて何も怖くないの。去年のことは学校の対応がまずかったってだけ。貴方の家に対抗する手段くらい、いくらでもある。そうなれば貴方は今やただの子どもなのよ」
イサムはぐうの音も出ない様子だった。私がただの教師でないことが伝わった証拠。これでいい。実際これが問題となって学校がイサムの家と揉めたとしても、私がこうしているということは私とイサムしか知らない。イサムが何と言おうと、私が単なる指導を行ったと言えばいい話。そもそもイサムが悪いのだから、文句を言われる筋合いはない。多少卑怯な手を使ってでも事を進める。私は教師である前に、人間として甘くはないのだ。
「貴方を止められるのか、だったかしら。止めるも何も、今貴方は何もしていないじゃない。いや、出来ないんじゃないかしら」
イサムは完全に沈黙した。
やはりエツヤの言ったことは正しかったようだ。
「皮肉ね、今は貴方がいじめられているなんて」
彼の顔色が明らかに変わった。
「そんなことっ!あるわけねーだろーが!なんで俺がいじめられなきゃなんねーんだよ!」
それを聞いて、そうなのよ、と私は思った。この間から思ってはいたことであり、それはエツヤにもわからないこと。
「そう、どうして貴方はいじめられているのかしら。ジュリ君に」
その名を聞いてイサムが硬直した。もう何も言えなくなってしまった。
「家のことはわかるわ。警察官の父親を持つジュリ君は貴方をいじめることができる。でもいじめる理由が思いつかないの。イサム君、これ以上いじめを受けたくなかったらここで吐いてしまった方がいいんじゃない?」
「うるせー!」
いきなりイサムは席を立ち、部屋から出て行った。
ジュリによるいじめが行われていること、それだけは確定した。証拠不十分ではあるだろうが、問題ない。狩ればいいのだ。ただジュリを陥れることは容易ではないだろう。泳がせて尾行し現場を目撃するか。いや、イサムに詰め寄った今、犯行の手口を変えてくるかもしれない。やはり一度ジュリと対話してみた方がよさそうだ。
その前に、エツヤのことが気になった。ジュリによるイサムへのいじめはエツヤの言った通りだったと見ていいだろう。そのことは私につまびらかにしたのに、どうして「ウサギが死んじゃう」と言いつつも、その意味を「言うと俺の立場が危うくなる」と言ってぼかしたのか。立場が危うく……。それはどの場所での立場なのか。ジュリを想う上での立場なのだろうか。他にもありそうだが、これが一番現実的だと思われた。またはエツヤがジュリに与しているということか?そうは、見えなかったが。エツヤは悪さをする子どもではない。だがエツヤとジュリにつながりがあることをほのめかしている。いや、そう伝えている。
いずれにせよ、ジュリを上手く炙り出さなければ正確な関係図が見えてこない。そして、『ウサギが死ぬ』。
職員室の席で、何かジュリに関して手がかりになるものはないか探してみた。色々な資料を漁り、その中から『委員会表』という紙を見つけた。その名の通り、各委員会に属する児童の名前が書かれた一覧表だった。私が作ったものではないのでこんな物があることもすっかり忘れていた。そもそも私は委員会に関わりがない。児童達も各々の委員会の顧問の指導の下活動するので、担任がその顧問でなければ児童達の活動の様子などを知ることがないのだ。委員会での活躍を報告させるクラスもあるようだが、私のところはもう六年。そんな幼稚なことはさせなかった。委員を決めたのは私のクラスでのことだとしても、そんなことをわざわざ覚えておく必要もなかったのだ。
だから気が付かなかった。ジュリとイサムが同じ飼育委員であることに。飼育委員。飼育小屋。エツヤの言っていた、ジュリの犯行現場。
飼育委員の顧問である、年配の男性教師に話を伺ってみることにした。まず飼育委員会がどのような仕組みになっているのか、そこからだ。
「うちの委員会は人手がいるんでね、美化委員会なんかもそうらしいけど、三年生以上は各クラス二人ずつ取っています。六年生が中心になって他の学年の子とウサギ小屋の清掃と餌やりを、一組から四組までのローテーションで行います。活動時間は昼休みの終わり三十分と放課後。第三金曜日に全体の会議のようなものをしますね」
「その会議の時に先生は立ち会われるんですか?」
「いや、私なんかはお飾りのようなもので、会議にいるにはいますがちゃんと聞いてないんですよね、あはは。そんなに深い話をするわけでもなし、六年生の飼育委員長のサラって女子が仕切っていますよ。六年二組だったはず」
「それは出欠を取るのですか?」
「何年何組、はい、みたいな感じです。だから全員いるかというと怪しいですね。それは当番の時も同じです。あと、私は直接活動を指導したりはしません。事務員の方が立ち会ってくれていますよ」
「ちなみに、うちの……六年四組の飼育委員は何曜日に当番が回ってきますか?」
「えーっと、ちょっと待って下さいね」
先生は机の引き出しの中からファイルを取り出した。
「ああ、ありました。火曜と金曜ですね。四組だけは週に二日やって貰っているんです。申し訳ないですけどね」
「そうですか。大変参考になりました。ありがとうございます」
そのまま自分の席に戻った。
今までジュリとイサムが昼休みにいなくなるのはいつだったか。
おかしい、と初めて感じた日、それは午前中の体育の授業でジュリが貧血を起こしたというので学級委員の児童に保健室へ連れて行って貰ったということがあった日だ。ジュリはその授業の間で回復したと言い、ただサボりたかっただけではないのかと思ったのを覚えている。次の授業が音楽だった。算数や国語とは違う特殊な授業が二時間続いたということもあって印象的だったのだ。体育のあとに音楽がある曜日、それは火曜日。
ずっと週二回くらい彼らが一緒にいなくなるような気がすると感じていたのは勘違いではなかった。ちゃんと週二回だった。怪しいと思い、その火曜日からなんとなく気を付けていて、まただ、と気が付いた日というのが、週末の職員会議のあった金曜日だった。ジュリとイサムのことがもし深刻な問題であれば面倒なことこの上ない、と会議中にぼうっとしていた。
火曜日と金曜日。間違いない。もし万が一、私や他の教師に二人でいるところを見られても、飼育委員だから今から飼育小屋に行く、飼育委員だから飼育小屋にいる、と言うことができる。
あの計算高いジュリのことを考えると、二人が同じ委員会、それも二人で行動できる飼育委員会に入ったことは計算した上でのことだったのではないか。そうなると、ジュリの矛先は六年生になった時すでにイサムに向けられていたことになる。
私は満を持して、いつもの時間、いつもの場所に、ジュリを呼び出した。そして今まで私が辿った経緯を、エツヤのことを抜きにして全て話した。貴方がイサム君をいじめている犯人よね、と。
「全部、憶測に過ぎないんじゃないですか。先生が勝手に怪しいと思い込んで、怪しいと言えるところを後付けしているように思います」
相変わらず小憎たらしい流暢な大人の話し方をする。これがエツヤであったならこのような感情は湧いてこなかっただろう。肯定し話し合うことが出来ただろう。それをさせない、この態度。
「第一、証拠がありません。動機も」
「そうね、でも貴方だって意味もなくあんな暗い顔をしてイサム君と教室を出て行ったのではないんでしょ?自分が被害者だと演じていたように私は思うわ。これは貴方の『思います』と同じ『思う』よ。私と貴方の言い分、どちらも成り立つのだと、『思う』わよね?」
すぐに私の言いたいことを察し、言葉に詰まるジュリ。
「私は貴方を断罪したくてこう言っているのではないの。このことが本当なら、いじめを止めてほしい。そしてなぜそんな行動に出たのか、貴方が言ったようにはっきりしない動機というものを、知りたいのよ」
部屋の中が静まる。ジュリは思考を巡らしていた。ようやっと重い口を開いた。
「もしこれが真実だとして、動機なんて、そんなデリケートなことまで言わなきゃならないんですか」
私はハッとした。ジュリの行動が本当なら、決して許されることではない。だが動機をないがしろにはできない。だから今質問した。けれど、エツヤと話し合ったような、そう、触れられたくない理由だってあるかもしれないではないか。エツヤが隠さずに言う子で、そのように自然と受け入れてしまったので思いが至らなかった。ジュリまでもがエツヤのようであるとは言い切れない。
「ごめんなさい。その通りね。動機は言わなくていい。これは仮の話なのだと思ってくれていい。私の願い事だと解釈してくれていいわ。どうか、イサム君へのいじめがなくなるように、私は祈っている」
ジュリはクス、と微笑んで私を見た。
「先生って、優等生なのに優等生らしくないと思っていました。今の会話だって普通じゃないです。普通の先生はまず僕のことを疑ったりしないし、もし僕が犯人なら断罪するはずです。それもクラスみんなの前で。うちの学校、中途半端に新しい時代にシフトしていて、その実まだまだ古臭いから」
「そうね、私はそれをしない。そのあとのことを想像できるから。昔は体罰なんてみんな受けていたのよ。教卓の前に立ってね。公開処刑。私はそれをある程度必要だと思っているわ。でももう時代は変わってしまった。貴方達に見せたかった、私の子ども時代の環境を。今はもう、教室はウサギ小屋なのよ。そして私の知らないところでウサギ狩りが起こっている。その抑止力でいなければならない私が公開処刑をできないことはある意味問題と言える。ただ私は貴方も含め、みんなを、処刑したくないの。きっと、ずっと小屋で大事に育てられた子達の心は、ぽっきりと折れてしまう。そして、児童同士での制裁が日々繰り返される。私がウサギ狩りをするわけにはいかない。ああ、でも今はやっている のよね。貴方を狩ろうとしている」
私がこう告げて視線をジュリの顔に向けると、彼は真剣な面持ちで私を見ていた。私はそれに一瞬心を奪われた。
「どうか……した?」
「先生、一つだけ僕に言えることがあります。僕のことではないから役に立つかわからないけど」
「何?何でも言ってちょうだい」
「見落としています。先生。大事な駒を」
「駒?」
「先生は教室をウサギ小屋と喩えたけど、僕は先生達にとって教室っていうのがチェスの盤上なんじゃないかと思うんです。といっても駒は四十個もある。把握することは難しい。だから盲点が出てくるのは仕方がないと思いますけど」
「何が言いたいの?」
「僕とイサム君が飼育小屋に向かう時、もう一人あとからついて来ている人物に心当たりはありませんか」
盲点……人物?
「僕らの後ろをひっそりと付いて来ている、エツヤ君」
私は声にならない声を出した。
「ほら、ややこしくなったでしょう?」
ニコリ、と笑んでいない笑みを私に向ける。
全く、ジュリという子どもは舐めた口を利く。一瞬でもあの真剣な眼差しに呆けた自分を殴ってしまいたかった。
帰宅してから整理してみた。
私のしていることはまるで闇雲に行う狩りだ。もうこんなことは止めた方がいいのだろうか。もし違う獲物を仕留めてしまったら元も子もない。ジュリの口からエツヤの名前が出た。これはもう二人につながりがあるという決定的な証拠だ。
エツヤが犯人候補?にわかには信じがたいが可能性がないわけではない。しかしそんなことを言っていたら全てが可能性の話になり、堂々巡りである。恐らく誰も口を割らない。割ったとしても嘘かもしれない。
ジュリが好きで、ジュリを止めてほしいと言ったエツヤ。それを私は信じたい。だがもしもそれこそが作り事であったら?
ごめん、エツヤ君。私にはどうすることもできない。
何も信じられなくなりそうになった上に、火曜日の昨日、とんでもない事件が起きた。
飼育小屋のウサギが一羽、血を流して死んでいたのだ。
この事件は朝の職員会議に持ち込まれた。第一発見者はいつも飼育委員を指導してくれている例の事務員。彼の話によると、昨日火曜日、昼休みに飼育委員達を手伝っていた時は六羽のウサギに異常はなかったという。放課後は委員会に当番を全面的に任せることになっており、そのあと施錠の確認のため飼育小屋を覗いてみると、そのようなことになっていたので報告をした、と彼は言った。
飼育小屋――ウサギしかいないのでウサギ小屋なのだが――は厳重に鍵がかけられており、それがどのようなものであるのかは詳しく説明がなかったのだが、とにかく飼育委員と事務員にしか開けられないようになっているらしい。火曜日の放課後に発見されたというのであれば、犯行のタイミングはそのまま火曜日。他の学年の飼育委員がいない時にやったと考えるのが自然で、それができたのは火曜日の当番である私のクラス、六年四組を始め、三年以上の四組の飼育委員だけ。つまりイサムとジュリも容疑者に入る。
その朝の会議でもそう指摘された。そして授業を一つ潰して、命の重みを教える時間を設け、その場で犯人探しをしろ、と私や他の四組の担任に命令が下った。つまりそれは公開処刑をしてもよいとも取れる。その重大さを上の者がどこまで考えているのか理解しかねた。私は一時間目にその『命の授業』を行った。このような事件が起きたことは断じていけないこと。それをいつものリツコ先生として言い聞かせた。そして犯人であるなら名乗り出ろと。少し気が引けた。しかし昔は普通のことだった。罪を犯した者は広く知らしめられるべき、その主張にはどちらかというと賛成である。ただ今の子ども達が受け止められるかどうか、それが心配だった。その気持ちを押し切り、下らないことだがこう言った。
「みんな、目を閉じて机に伏せなさい」
どよどよと児童達が静かに騒ぐ。私の口調が、怒気が、恐ろしかったのだろう。
内心、匿名に留まらせるつもりなどなかった。手を挙げさせたのちクラス全員に伝えようとしていた。我ながら卑怯な手口。しかしどうせ挙げないだろうと予測していたので、公開処刑には至らないはずだった。その時。
「そんなつまんないことしなくていいよ」
私を含め、児童達が声のした方を見て驚いた。エツヤが、クラスの皆の前で話すなど。
エツヤは席を立って私のいる教卓の裏側まで来た。そして蚊の鳴くような声で私に乞うた。
『ウサギ、死んじゃったでしょ。俺を叩いて』
それを聞いた私は、躊躇いながらも右手を大きく振り上げ、そのまま教卓の上にぶつけた。児童を震撼させる大きな音がした。
「この事件は、貴方が飼育委員と一緒に行動しなければ不可能よ。普段一人でいる貴方が彼らといたの?」
「いいや……」
エツヤがここまで出てきたということは、ジュリが傷つくのを防ぐため。これでほぼ決まったと言っていいだろう。犯人はジュリだと。
「他のみんなにも言っておくわ。もしこの中で、隠れて人を傷つけている人がいるなら、止めなさい。私が許さない」
クラスは静まり返った。リツコ先生が豹変してしまったから。
「戻りなさいエツヤ君。授業を始めます」
私は思った。児童がウサギ狩りをしてはいけない。それは揺るぎようのない事実だ。けれど、教師は時にウサギ殺しをしなければならない。
私が体罰を行わないのは、それが学校で禁止されているからに過ぎない。罪を犯し、体罰を受けないで幼い子どもがその罪の痛みをどうやって知るというのだろうか。エツヤやジュリのような突出した子ども達を除けば、他の児童の言語能力は極めて低い。言葉で諭して全てがわかるわけではない。痛くもなんともない体罰は行使するというだけで効き目があるのだ。だがそれができない今、私に子ども達を止めることはできない。残念ながら。
だがこの件に関しては一歩も引くつもりはない。必ずジュリを吐かせる。
今日エツヤが自白しに来たことで、大体の予想がついた。「ジュリがイサムをいじめるのを止めて」と隠れて言ったにも関わらず、公の場所でジュリを庇う理由は一つしかない。いつからかは知らないが、エツヤはジュリの鎌に狩られているのだ。イサムのように。
私の説明で、犯人が飼育委員なのだと児童達にも知れ渡り、まさかジュリがするわけはなく、犯人はイサムなのだと噂されているようだ。このことは他のクラスにも広がり、イサムの過去を知らない児童にも、イサムに暴力権があることがわかってしまったので、イサム一人が悪者であり、自分らは危なくて直接何かをすることができない、と思われている。教卓前に来たエツヤのことは忘れ去られていた。ジュリは虐げられるエツヤの姿が見たかったのであろうが。
私はまたジュリを呼び出した。
「先生はこの件も僕が犯人だって思ってるんですね」
ジュリはそう先手を打ってきた。
「可能性の話だと思ってくれていいわ」
「みんなが言ってるように、イサム君なんじゃないですか」
「それはおかしな言い方ね。貴方は火曜日と金曜日、飼育当番でイサム君と一緒にいるはずじゃないの?おかしなところがあったら貴方なら気が付くんじゃないかしら」
「別に仲がいいわけじゃないし、そこまで見ませんよ」
「じゃあいつも昼休みが始まってすぐに飼育小屋に向かうのはなぜ?それも二人揃って。飼育当番は十二時半から、昼休みの後半から始める決まりでしょう」
ジュリは視線を落とし、こう答えた。
「僕達は、いじめ、いじめられ、の関係にあるんです。最初の三十分はそういう時間」
それは二択だ。どちらがどちらの役なのかぼかしている。
「貴方がいじめられてるの?」
「それを言ったら色々問題が発生するじゃないですか」
「それもそうね。では貴方に有利なように、貴方がいじめられているとしましょう。そうしたら、いつもどういう経緯で当番に当たっているの?」
「それもさっきのことを言うことになります」
「当番に当たるところからで構わないわ。それならただのありふれた質問。私は貴方がどんな風に委員会の活動に専念しているか知りたいの。通知表にも書きたいしね。貴方の行動を、よ」
「ふぅん……。まあ、まず僕が飼育小屋の鍵を開けますよね。それからウサギが元気かどうか確認します。下級生の当番の子達と一緒に餌を切って食べさせている間、それ以外の人は小屋の掃除です。こんな感じでわかって貰えましたか?」
「よくわかったわ。じゃあ最後に、この間の話の続き。エツヤ君は貴方達のあとを追って飼育小屋に行くのよね。どうしてかしら。エツヤ君もいじめ、いじめられの関係にいるの?この前の貴方の口振りからしたらそうとしか取れないのだけれど」
「あれも可能性の話ですよ。ちょっと話を撹乱させたかっただけ。エツヤ君はさっき言った通り僕達のあとを付いて来ています。でも何もせずに、僕らをよそに……ひどいですよね、純粋にウサギを覗いて楽しんでるんです。エツヤ君を去年見ていた先生に聞きませんでした?エツヤ君はよくウサギを観察しに行ってるんです。もしかしたら殺したい、なんて思っていてもおかしくないですよね」
何てことを言える子どもなのだ。末恐ろしいとはこの場面で使う言葉なのだろう。
「事情でぼかしてしまったところもありますが、ほとんど本当のことです。リツコ先生なら、わかってくれますよね」
どうだろうか。私には彼の言葉は全て巧妙に仕組まれた嘘にしか聞こえない。ばれない自信があるのだろう。保険も。
だが、私は彼に鎌を掛けた。今度は、仕留める。
次の日の昼休みに、六年二組に顔を出した。
「あー、リッちゃんだー!」
女子がわらわらと集まって来る。自分の人気は学年全域に渡っているのか。怖いことである。
「あのね、今教室にサラちゃんっていう子はいる?」
そうすると、女子達がサラという女の子を連れて来てくれた。そのまま二人、人通りの少ない廊下で話をした。
「サラちゃん、飼育委員会のことで訊きたいことがあるの」
彼女との話で、私の頭の中は大体まとまった。掛けた鎌を引く時が来た。必ず、殺せる。
私は金曜日の昼休み、飼育委員の活動が集まる時間よりも随分と早く、校内放送で呼び出しをした。ジュリ、イサム、エツヤをである。飼育小屋の鍵を借りてくるようにと付け足した。
イサム辺りがすっぽかすかとも思ったのだが、ジュリの傘下にいる手前逃げられないだろう。ジュリは優等生もどきだ。演じ切る。エツヤもジュリが気になって来るはず。予想通り三人はそれぞれの立場を背負い、私の前に現れた。
「みんな、来てくれてありがとう。小屋の鍵は誰が借りてきたの?」
「……俺だよ」
イサムが怯えた様子で答えた。
「じゃあその鍵をジュリ君に渡して。入り口を開けたら、中のウサギの部屋にかかってある鍵を外して私に見せてちょうだい」
つまり飼育小屋は、二重に鍵を掛けることでウサギの脱走や盗難を防ぐ作りになっていたのだった。以前二番目の鍵を付けていなかった時、ウサギ部屋の戸が閉められておらず、ウサギが部屋から抜け出し、倒れてきた用具で怪我をしたことがあったらしい。それで戸を閉めるのを忘れさせないため二つ目の鍵をつけた。ウサギ部屋の前にあるのは台所や用具置き場に相当する物だという。これはサラから聞いたことだ。
ジュリは渋々入り口の鍵を開けた。全員で台所に入る。そこでジュリの歩みが止まった。
「どうしたのジュリ君。二番目の鍵を開けてちょうだい」
ジュリの額から脂汗がにじみ出てくる。暑さのせい、だけではないだろう。
「六桁の番号を合わせて開ける鍵でしょう。そのくらいの番号を、前にクラス全員の家電、携帯番号を覚えていた貴方が、忘れるはずないわよね?変ね、貴方はこの間、自分で鍵を開けているって言ったのに。本当は一度もウサギの世話をしたことがないんじゃない?そこは嘘をついたわね。貴方はここにイサム君と来られる理由を作った。そのために飼育委員になった。それだけ。イサム君さえいればウサギの世話なんて必要ないものね。鍵のことなんて知らないか」
実際には、ジュリがこの鍵のことを知っている可能性の方が高かったかもしれない。だが、私はジュリの、イサムへの執着に賭けた。負ければ他の手段を考えるつもりだったがその必要はなかったようだ。
あのジュリが返せないでいる。エツヤが心配そうな面持ちでジュリを見つめている。
「飼育委員長のサラちゃんに尋ねたの。この鍵のことも、ジュリ君、貴方が今年度の委員会が発足した時から一度も金曜日の会議に出席していないことも。代わりにイサム君が欠かさず出席していることも。去年問題を起こした彼が、よ?これは、この一連の事実から推察すると、ジュリ君、貴方が自分の下にイサム君を置いていると考えるのが普通だわ。そして当然彼をいじめた首謀者は貴方」
ジュリは、口角を上げた。
「あははは!先生、すごい執念ですね。でも、僕はこの手で何もしていませんよ」
「お得意のぼかしのつもりで言ったんでしょうけれど、逆効果だったわねジュリ君。貴方は手を下していなくとも、自分の手駒がそれをやったのだと言っているのでしょう」
「流石にばれたか。そうですよ、イサムを叩いたのも、ウサギを殺したのも、ぜーんぶエツヤ」
それが、彼の『保険』。いざという時に、自分のことをエツヤに転嫁させる。自分もエツヤに脅されていると言えばいい。そしてそれだけのことをエツヤにさせることのできる何かを?
読了していただぎ誠にありがとうございました。全ての人にこの一夏の様々な想いが伝わりますように。