95 あるがままに
「カナン、ちょっと来てくれ」
いつものように不意に[ホーム]を訪ねてきたアウレリウスは、デッキテラス側のガラス戸を開けてそうカナンを呼んだが、何故か中へ入ってこようとはしなかった。
「アウルさん……?」
何だろうと訝しみながらも素直にカナンが近寄っていくと、そのまま数歩ほど後退し、目顔で彼女自身も外へ出るよう促してきた。
「?」
益々不可解に思いながらもアウレリウス相手に抱く危機感もない、とカナンは男の開けた戸の間から躊躇なくテラスへ出た。以前、似たような状況で深刻な話をされたことがあるが、今日のアウレリウスからは緩んだ気配しか窺えず、その用件が何であっても緊張や覚悟を要するものにも思えない。
カナンの家は基本、土足なので履き替えずにそのまま足を踏み出す(土足といっても室内へ入る時は魔法で靴を含めた衣服を浄化している。和室もあるが、流石にそちらでは靴を脱ぐ)。
一瞬だけ足下へ落とした視線を上げてみると、手ぶらだと思っていたアウレリウスは右手に何やらパイナップルに似た果実を持っていた。
聞けば深思の山に生育するそれは、蔓植物――例えば瓢箪のような見た目で、しかし蔓部分はなく、大樹の枝から垂れ下がった長い果柄の先に実るものらしい。
口頭による解説の後、男が傍らの空間に展開した〔光幕〕越しに見る結実の様子は確かにその通りだった。
冠芽と呼ばれる部分を下に、果柄はパイナップルの太い果梗とは違い、瓢箪のそれに似たひょろりと細長いもので滑らかな表面をしている。
外側の鱗か亀の甲羅を思わせる形のものはパイナップルのように一つ一つが実なのではなく、表皮が菱形に割れ、その端がささくれ立っているだけらしい。
樹そのものはガフレスクンウベイスと似ていなくもない。ガフレスクのような横広がりではなく縦に長く、蔓に相当する部位は半分ほどの長さで果柄となっているが。
胸元に引き寄せる形で持っていたそれをアウレリウスはカナンに向けて差し出し、まだ渡す気はないのか、ただ観てみろ、とだけ指示した。
言われるままに簡易解析してみると、それには何やら遮断系の結界が張られており、首を傾げて男を見上げれば、にやりと口角を吊り上げて術を解いた。
その途端。
「!!?」
咄嗟に両手で鼻を覆ったカナンは飛び退いてリビングへ待避し、即行ガラス戸を閉めた。しかし術なし、素の家屋の構造だけでは完全に臭いをシャットアウトすることなど出来る筈もなく、室内にまでその悪臭が瞬く間に立ち込めてきた。
「アウルさん!?」
男の名を責める語調で叫びつつ、消臭と防御結界を自宅に施したカナンは、直ちに戸を開ける無意味はせず、〔転移〕でもう一度テラスへ出た。そして即座に男の右手に向けて魔力を飛ばす。その間、男は何もせず、ただ愉快そうに慌てるカナンの様子を眺めていた。質が悪い。
悪臭でぱっと思い出す食物はドリアンにくさや、シュールストレミング、ショクダイオオコンニャク(味はともかく食用コンニャクを作れるらしい)、食物以外ならラフレシア、スカンク、カメムシ辺りだが、どれもこれもカナンは嗅いだ経験がなく、この果実の悪臭を形容する例えとしては残念ながら使えなかった。
ただ、くさや・シュールストレミングと同系統で、もっと端的に表せるものを知っている。
(アンデッド臭……!!)
要は腐敗臭だ(くさやもシュールストレミングも腐っていない? 腐敗と発酵の別は、微生物作用の先にあるものが人間にとって有害か有用かの違いでしかない。それは<あちら>も同じで、純粋な禁域サイドの言語には双方一纏めの言葉しか初期には存在しなかったという。後年の相当語は辜負族の言語を理解する上で便宜的に作ったらしい)。それも人体の腐った臭い。正直、これを具体的な言葉で言い表すことは出来ない。少なくともカナンには的確な語彙も表現力もない。曰く言い難い、単純に "肉の腐る臭い" とだけでは足りない何かがあるように思えるのだ(勿論カナンの主観でしかないが)。
とにかくアンデッド臭!としか言いようがない。現実に嗅いだことのある人だけ鼻腔でプレイバックでもしてもらいたい。
「なんなんですか、これっ」
やや背伸びぎみに男の顔を見上げて詰問するカナンに、ぽいっと果実を投げて寄越したアウレリウスは、
「それで酒を作ってみてくれないか?」
と、実に意外性のない依頼をしてきた。
アウレリウスに酒。寧ろ他に選択肢がない気さえする。果実を持ち込んで菓子を作ってくれ、は有り得ないと断言出来るが、料理してくれ、でも酒の前には違和感を覚えそうだ。
「……お酒、ですか」
自分に対する悪戯を何もしなかったかのようにスルーされ、不満が燻らないでもなかったが、悪臭一つでいつまでも根に持つのも大人げなく思え、カナンは気を落ち着けて吐息一つで男に迫らせていた上体を引き戻した。臭いが方々に染み着くようならもう少し粘っただろう。しかし大方、カナンが消臭可能なことを前提条件に男は仕掛けている。
「そう。向こうではどうやっても発酵が出来ないようでな。そいつの本体に訊けば、環境が変われば可能かも知れないと言う」
一瞬、カナン越しに、ガラス戸の向こうから恨めしげで微妙に涙の滲む眼差しを向けてくるサリュフェスへちらりと視線を流し、悪びれない笑みでいなした男は、素知らぬ顔でその主へ意識を戻して事情説明をした。
「妖精郷では?」
背後でシマスカンク(例によって尻尾増量で艶なしローズゴールドとピュアホワイトの毛並み)なヴルガレスのロコメネフ・ダウィレイを腹の下に抱えてジト目をカナンにも突き刺してくるサリュフェスに、酷いとばっちりだ、と内心溜息をつきつつ、男へは既に試しているだろうと思いながらも一応確認してみる。
ロコメネフは自身の周囲の悪臭(当人の認識が悪臭であるもの。他者にとっての香気も対象になる)を自身が心地良いと感じる芳香に変化させることの出来る快適空間を常時発動させており、その恩恵はロコメネフを中心とした一定範囲内にいる者も任意で受けられる。
現状のサリュフェスは正にその恩恵に浴している状態だ。ただ、彼女の力任せの拘束は悪臭による恐慌を引き摺っているようで、よほど息苦しいのか、ロコメネフの顔は実に迷惑そうである。背中に目があるわけもなく、〔千里眼〕を発動させてもいないカナンにはそこまで知り得ようもないが。
「理屈はよく分からんが酢にはなる」
カナンの確認を聞くまでもないことだと突っ撥ねるような短絡はせず、男も律儀に答えてきた。しかし、その言葉にカナンは首を傾げた。
「酢が出来るのならお酒にもなりそうなものですけど。というか、酢の前段階じゃありませんか?」
しかも時間が経てば酢になるものではなく、ただ劣化しただけの酢に似た何かでしかないらしい、という情報を故郷のネット上で見た覚えがあった。昔は酒が自然に酢になるのをひたすら待っていたという記述もカナンは同時に見掛けた記憶があるが、酢酸菌が自然に作用するのであれ故意に加えて作用させるのであれ、まずアルコールありきではないのだろうか。酢酸菌が混ざらないようにすれば酒が出来そうに思える。
その辺りを訊いてみれば、
「そこは禁域の不条理だ」
あっさり否定された。
アルコール発酵と酢酸発酵が同時進行で起こるのか? 理屈は分からない、と先に宣言されてしまっているので突っ込みようがない。
「便利ですよねそれ……」
禁域(産)だから、は全くもって万能ワードだ。
ここで有り得ないと目くじらを立てるのは愚行だろう。地球の常識を持ち込んでも、この世界ではそちらこそが幻だ。
「まあな。何事もあるがままに、だ。そいつも俺達の認識や価値観に合わせ、満足させる為に生まれてきたわけじゃない」
アウレリウスの視線を追って自身の手元へとカナンも目線を下げる。条件反射で受け取ったそれを、受け取った時のままに胸元で抱えるようにして両手に持っていた。
「耳に痛いですね……。でも、正直、こうした臭いのものを本当にお酒にしたいんですか?」
今は封じられていて全く臭いのしないそれを、捧げるような形で差し出してカナンはしみじみと問う。特に突き返す為の行動ではなく、アウレリウスも受け取る素振りは見せない。
「ああ、それは多分大丈夫だろう。酢になると匂いが甘くなった」
「甘いお酒は好みではないのでは?」
甘いの基準は未だによく分からないが、アウレリウスが甘いと自己申告するものには相変わらず他に飲める酒がなくても手をつけないのを思い出し、それでも試したいのかとカナンは翻意を期待して男の自己再認識を促す。
しかし男の決意は固いようで、
「匂いが甘ければ味が甘いとは限らない」
酢の味でも口腔で再現しているのか、口角をぐっと下げながらも依頼を取り消そうとはしない。
「味は匂いに影響される部分もありますよ?」
「分かっている。だが、酢は甘くなかったぞ」
「まあ、酢ですからねえ」
「比較の問題でしかないが、そいつの臭いよりはましだ」
カナンの手の中にある加工前の果実を顎で示してアウレリウスは苦笑する。甘いままでも腐敗臭よりは許容範囲ということか。
「はあ……。…………分かりました、そこまで言われるのなら一応お預かりして妖精達に聞いてみます」
引く様子のないアウレリウスに根負けし、カナンは吐息と共に了承の意を伝える。但し受注ではなく、現時点では伝言だけだ。
「加工するのは彼らなので私が勝手に依頼を受けることは出来ませんから、彼らが受けると言った場合だけ連絡します。流石にこれ一個だけでは作れないと思いますし」
悪臭の拡散と共に一斉に家の奥へ避難した家妖精達のくしゃくしゃになった顔を思い浮かべ、依頼を受けるにしても臭いをどうしようとカナンは頭が痛くなった。
臭いを消したまま加工というのは塩梅を見る際の妨げにならないのだろうか。どのタイミングで甘くなるかなど最初から知り得ようもなく(酢になってからでは遅い)、果実の悪臭はそのままで発酵部屋自体を封じるべきか。
〔千里眼〕と〔解析〕でカナンが臭気の種類を逐次報告する形でも問題はないか? 妖精達の実感は? カナンの仲介では不十分の場合、部屋への出入りは転移で? 短い距離なら妖精でも転移は出来るのでカナンがつきっきりになることもないだろうが、初期段階は彼らの鼻が曲がらないように何らかの配慮をする必要がある?
今から考えても仕方のないことで頭の中をぐるぐるさせながらも、表面上は平静を装ってカナンは条件を提示した。
「ああ、その時は必要な数を揃えて持ってくる」
カナンの内心を知ってか知らずか、アウレリウスは嬉しそうに請け合う。
「そうして下さい」
そんな顔を見せられては、結局駄目でしたとは言い辛いが、アウレリウスと懇意にしている酒作りの好きな家妖精が断るとも思えず、それも杞憂に終わるだろう。
まだ何も始まっていない内からカナンはやれやれ、と一仕事終えたように脱力した。
今更だが、アンデッド臭のするこの果実、名前をフィヴェイクと言う。
その後、アウレリウスの要望はあっさり通り、発酵部屋の一つを空けて、そこに大量のフィヴェイクを運び込んだ。最初から部屋には悪臭が漏れ出ないよう処理を施し、フィヴェイクも臭いを封じた状態で持ち込んでから一気に解放。その時の阿鼻叫喚は凄まじかった、と思い出しては遠い目をするカナンだった。
もっとも、彼女自身はちゃっかり遮断結界で自己防衛していたので実害は受けていない。本人希望のもと、素の状態で発酵部屋にいた家妖精達だけが悶絶した(一見、最適解のようなロコメネフの快適空間は彼らに拒否された。やはり臭いを抑制するならまだしも、別物に変えてしまうのは駄目らしい)。
妖精ゆえか、体調不良や嘔吐に至らなかったのは幸い……と言って良いのか。まあ、良いのだろう。発酵部屋は清潔に保たれた。
「…………邪魔じゃないですか?」
「構わん。好きにさせておけ」
悪臭の悪戯によってパニックを引き起こされた怨みを晴らす為か、それにしては生温い報復をサリュフェスはアウレリウスに仕掛けていた。
フィヴェイクを納めた後、切り替えの早い家妖精と穏やかに歓談していたアウレリウスの広い肩先へ前後ろ逆向きに乗り上げ、長く豊かな尻尾をしならせて男の頬や首筋へこすり付け、ひたすらに擽るという。
されている当人は欠片も堪えている様子がなく、する甲斐があるようなないような。サリュフェスの気がそれで済むのならと放置するアウレリウスは、それでも謝罪するつもりはないらしい。それは驚かせることが目的の心ではなかったからなのかもしれないが、何も語らない胸の内の真実は知り得ようもない。
* * *
悪臭騒動から[ホーム]の時間で半年。
結果(成果ではない)が出たと精霊経由で連絡を受けてアウレリウスが[ホーム]を訪れてみれば、
「アウルさん、あれは駄目です」
カナンのそんな一言が待ち構えていた。
「酒にならなかったのか?」
リビングに通され、ソファに腰を下ろしたところでカナンがテーブルへ緑茶を満たした湯のみを置くと、それで軽く喉を湿してからアウレリウスは問い掛けた。
「お酒にはなりました。但し、味を複製してしまうんです」
男の問いに、テーブル脇で立ったままカナンは受け答える。
「どういうことだ?」
「発酵が始まると、過去、[ホーム]で作られたお酒の何れかの味になってしまうんだそうです。また、一度決定されるとどれだけ熟成させても基本的な味は変わらないらしいです」
「……そうきたか」
困ったように眉尻を下げて説明するカナンに、さほど意表でもなかったのかアウレリウスはただ苦笑をしてみせた。
「お酒としては飲めますけど、アウルさんの期待には応えられなかったようです」
男の反応をどう解釈すればいいものやら、一見失望は見受けられないが、念の為、カナンは遺憾を示しておく。家妖精達の落胆もあり、彼らが直接アウレリウスに接触する前の緩和になれば、と思ってのことだが、男が理不尽を押し通すとも考えていないのでただの自己満足だ。
「それは構わんさ。あれの性質がそうだったというだけでお前の家人の能力の問題じゃない」
案の定、そう言うアウレリウスの言葉に嘘は窺えず、さっぱりした表情で気にするなと笑う。禁域の不条理に慣れ切っているからこそというのもあるのだろう。いや、不条理という表現自体、カナンに合わせたのかもしれない。妖精郷で育ち、禁域を庭同然に闊歩してきたアウレリウスにとって、カナンの不条理は "当たり前" のことだ。
「ブラウニー達にもそう伝えておきます。…………それで、独創性はないですけど、出来上がったものを飲まれます?」
ほっと小さく息をついた後、カナンは少し躊躇ってから男の意向を確かめた。味はオリジナルではないが、酒は酒であり、アウレリウスの好むものもある。
「何になったものがあるんだ?」
「アウルさんがここで飲んだものはほぼ全て。日本酒もあります」
「あれを "作られた" と言うのか?」
男は湖で酔っ払って気持ち良さげに揺蕩う礼龍でも思い出しているのか、可笑しそうに言う。
「そこは私も疑問でしたけど。実際に出来ているので対象なんでしょう」
「結果が全てか」
「何事もあるがままに、ですよ」
「……確かに」
以前自分が口にした言葉を澄まし顔でそっくりなぞられ、アウレリウスは愉快げに笑った。
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