9 王にあらず
「これはまた、豪快だな。界ごと落ちて来た奴は初めてだ」
余りにも際立った気配――魔力、だろうか。
だが、恐らくこれはわざとだ。カナンは直感的にそう思った。
逆を言えばこれほどの力があって隠し切れない、或は抑え切れないという方が違和感がある。常時これでは何処へもいけない。
[ホーム]が無傷でいられるのは存在そのものが相容れない、干渉し合えない独立した位置付けだからか。それとも存在力が拮抗し、軋みさえ生じないほどの均衡を形成したか。
昼下がり、デッキテラスの長椅子に座り、ヴァゴス・アニマリスを膝に上げてその毛並みを堪能しつつブラッシングに勤しんでいたカナンは、庭先の空間から突然滲み出るように現れたその剣呑極まりない男を、緊張感の欠片もない、ぼんやりした表情で見つめた。
仕方がない、膝上の羊の存在が余りにも緊張感を削ぐのだ。男の兇悪な魔力を感じていないわけでもないだろうに、相も変わらずぽやん、とした様子で弛緩した身体を無防備にカナンに預けている。
この状況でシリアスぶってもそちらの方が痛い。
いやカナンもそこまで咄嗟に判断してリアクションしたのではないだろう、ただ意表を突かれ過ぎて相応しい(?)反応が出来なかっただけかもしれない。
「ええぇ……と、どちらさまで?」
<あちら>側であればハリケーンどころではない魔力の暴乱で大陸一つ沈むのではないかという空恐ろしいほどの威を向けられながら、カナンは何処までもマイペースだった。
男は酷薄な笑みを収め、暫時怪訝そうに見遣るが、カナンが応えのない男に段々困ったように眉尻を下げていくと、不意にくっと軽い声を漏らした。
瞬間。
一気に男から発せられていた圧倒的な魔力が霧散する。
何も変わっていない筈なのに、カナンは何故か辺り一帯が光輝を取り戻したかのような錯覚をした。
そして、緊張など全くしていないと思っていた身体の力がどっと抜ける。
精神的な余裕は手の中の愛し子のおかげで何とか保っていられたようだが、肉体は自覚する間もなく重い枷を掛けられていたらしい。
ふわああああぁぁぁぁ。
椅子の背にややへたり込んだ主の大事も知らぬげに、ヴァゴス・アニマリスが盛大な欠伸をする。呑気なものである。だが、今はそれに救われる。男の剣呑さもすっかり鳴りを潜めていた。
いつまでも座ったままでは礼に反する、と遅ればせながら我に返ったカナンは、膝上のヴァゴス・アニマリスを椅子へ降ろして立ち上がった。そこでまた寝に入る眷属に、この男に対し、どういう認識を持っているのかじっくり聞いてみたい気もしたが、当面は我慢する。
カナンの挙動をじっと見詰める男に近寄って来る気配はなく、諦めてテラスの階段を下り、一定の距離を空けて足を止めた。
間近で改めて見る男は随分と長身だった。二百センチ近くあるだろう。膝を覆う黒い外套を羽織っているが、開かれた前から見える濃紺か濃紫か曖昧な、艶なしで暗い色彩のシャツとズボンに覆われた肉体は贅肉などまるで窺えないほど引き締まっている。
彫りの深い顔は精悍で、壮年前期(四十歳前後)辺りだろうか。瞳は黒く、豊かな髪はアッシュグレイで硬質に見え、短髪だが刈り上げてはいない。肌は白というにはやや深みのある色合いだ。
髪の間から覗く耳先は丸く、頭部に角もなければ口端から牙も見えていない。角や牙は隠せる種もあるが、つまり、一見して人族としか思えない外見をしている。だが。
(そんな筈ない……)
根拠といえば、これほどの魔力の持ち主が人族にいると精霊から聞いていないことくらいだが、それよりも男の瞳の底知れなさ、幾百年、幾千年もの時を経た者だけが宿す哀しいまでの空虚を垣間見た気がして、それが人間の短い一生で辿り着くものとも思えなかった。
「俺は魔族だ、一応な」
カナンの内心を読んだのか、男は今は翳の見えない漆黒をやや眇め、口角を吊り上げた。剣呑ではないが、何処か凄みのある笑みだ。
しかし、
「それは魔族ではないと言っているようなものでは……」
すっかり緊張の抜けたカナンは困り顔を呆れのそれへ変える。男はただ、何が面白いのか、彼女のその反応に毒のない陽性の眼差しを向けてくるだけだ。
「そうでもない。正真正銘、魔族の親から生まれてきたからな」
それでも尚「但し」、と続きそうな余韻のある言い方だったが、カナンはもう追求をしなかった。初対面で訊くようなことでも聞いていいことでもない。
男はアウレリウスと名乗った。随分と前に精霊から聞かされていた、もう一人の "隣人" だった。
* * *
デッキテラスの長椅子に座り、ヴァゴス・アニマリスから得た羊毛もどきでブランケットを編んでいたカナンは、ふと思い出して顔を上げた。
(ヴァゴス・アニマリスは霊獣の例に漏れず半霊体で、その体毛も触れることは出来ても抜け落ちることはなく、意図的に切り落とした場合、切られた毛は体から離れた時点で魔力の粒子となり、本体へ戻っていく。
これが通常の羊で言う毛刈りの時期に正しい方法で入手すると、毛は身体から離れた瞬間に実体を持つ。
ヴァゴス・アニマリスは羊に似てはいても羊ではない。体毛も羊毛と外観は酷似していても違う性質も持っている。
最も顕著な違いは肌触り。毛糸特有のちくちくとした感触はなく滑らかで毛羽立つこともなく、シルクとはまた違った気持ち良さがある)
斜め格子のフェンスに寄り掛かり、肩に乗ったヴルガレスの霊獣サリュフェス(どう見てもシェーデッドシルバーのチンチラ。但し極太でふさふさの尾は長さ二倍、太さ三倍増し)を構いつつ、カナンの様子を眺めていたアウレリウスを見る。
「そういえばアウルさん、何十年も経ってから[ホーム]に来ましたけど、私が落ちて来たことをいつ精霊から聞いたんですか?」
初対面時と似た状況ではあるが、あの時のアウレリウスはカナンの顔を見て満足したのか、名乗るだけ名乗って去っていった。現れた時とは異なり、瞬きを一つする間に唐突に消え失せた男に、自分のことを棚に上げて吃驚したのをカナンは覚えている。精霊や妖精は好きに消えたり現れたりを繰り返すが、"人" が転移する様を見るのは初めてだった。<あちら>に〔転移〕が可能な "人" がいないことは既に聞き知っており、そういえば辜負族じゃないんだっけ、と遅れた思考で呑気に納得していた。
当時、アウレリウスの名を受けてカナンも儀礼的に一応名乗り返していたが、その際に見せた男の笑みは既に知っていると言っているようだった。精霊からでも聞いていたのかもしれない。
それ自体は特に口止めもしておらず、特段構うことではなかった。ただ男が去った直後に、何しに来たんだろう……とうっかり呟いた言葉まで伝わっていそうで、当人に確認したのでもないのに、そのことに気付いた時は何となくばつが悪かった。
今は取り繕っても仕方がない、と開き直って自分の何が精霊経由でアウレリウスに筒抜けになっていてもあまり気にしていない。
「それはお前が落ちて来た直後だ。まさか異界付きとまでは聞かなかったが。なんだ、いいほど経ってから会いに来たのが不満なのか?」
揶揄いや嫌味ではなく、宥めるような、あやすような、穏やかな口調でアウレリウスが言う。
細められた目元が内心を見透かしているようで少々居心地が悪い。表に出した言動を知られるのに抵抗がなくとも、あからさまにしたくない部分はやはりある。
「違います」
引き籠っている自覚のあるカナンは、自分も会いに行こうとはしなかった後ろめたさと、ほんの少し脳裏を掠めた、もやもやとした不可解な感情を否定するようにきっぱりと返したが、男の口角が上がったのを見て、ばれてるよなあ、と眉尻を下げた。