85 裸の王様
カナンは軽く目を見開いた後、徐に上体を屈めて体長二十センチ弱の茶褐色の毛玉の脇へ両手を差し込み、胸の高さまで持ち上げた。
丸い耳に小さな目、後ろ足には水掻きがあり、太い尾には毛が生えていない。前足には油腺を持ち、毛繕いをすると体毛をコーティングして自家防水する。
フォルムだけならビーバーに似た小動物だ(サイズはまるで違うが)。
昼日中と言えど鬱蒼と生い茂る木々に閉ざされ、翳りの濃い思惟の森にあっても、上空へ張り出した緑の天蓋の手加減具合から仄暗い、の域で抑えられている、幅広な川の畔にカナンは来ていた。
エスノイリという名のこの生き物、性悪上等であけすけに言うなら、実に愉快なことにこの世界では現在 "いない" ことになっている。少なくとも辜負族の間ではそれが常識だ。
何故か? 単純明快、辜負族が乱獲によって絶滅させたからである。
肉と毛皮が目当ての乱獲だが、このサイズでまともに素材として毛皮を利用しようと言うのだ、それは大量に狩りもするだろう。
野生であれ家畜であれ他に獣皮の入手手段がないわけではなく、植物繊維もある。毛皮の特質や肌触りが図抜けているのは確かだが、結局、エスノイリ素材は金のある人間の嗜好を満足させる為の超高級品である。
金に糸目をつけない者が現れれば、身銭を求めて金のある者もない者も殺到する。エスノイリ狩りのリスクの低さも増長した。数の限界を察しても、誰も彼もに "自分ぐらいはいいだろう" 論理が働いて、あっという間に絶滅だ。
数が激減した段階で精霊が彼らを隠すと共に、一時保護を加えて数の調整を図り、代わりに辜負族の知覚にのみ作用する同数の実体のある幻影を彼らの生息域へ置いていたのだが、その幻を当時の辜負族は狩り尽くして、身勝手に惜しみながらも意気揚々としていた。
万が一、外界のエスノイリが絶滅してしまっても、同一種族が禁域内に棲息しており、完全にこの世界からいなくなることはない(もっとも辜負族はその事実を知らず、円環列島には辜負族が絶滅させたと認識する種は棲息していないので、その可能性に思い至ることもない)。
しかし外界の生態系のバランスが崩れるのは必定で、実際には少数でも残存している内はエスノイリのみの幻影化で済んでいた処置も、幻影が完全に絶滅させられた後は、その生息域でエスノイリに多少なりと関わりのある種の全てが幻影に掏り替えられた。エスノイリを捕食していた種は勿論、エスノイリが餌にしていた植物、エスノイリの消失で起こる動物達の食性の変化による新たな捕食対象の動植物、その他様々に発生するエスノイリの絶滅の影響を受ける者達全て。
そこまでするのは一種族が滅ぼされたことで起きる、あらゆる変化を現実のものとして辜負族に負わせる為である。
エスノイリを餌にしていた動物の中には、辜負族が狩猟対象とする別の動物を食い荒らす種が現れるかもしれない。菜食に目覚め、辜負族が常日頃採取している植物を食い尽くすかもしれない。自身もまた辜負族の狩猟対象であるその動物自体が餌不足で数を減らすかもしれない。エスノイリが餌にしていた植物は天敵がいなくなり、異常繁殖するかもしれない。そうした大なり小なりの変化を、絶滅に伴うデメリットを、やらかした辜負族に負わせるのだ。
幻影はオリジナルと同様の営みをする。だが、エスノイリだけを幻影に掏り替えたのでは、現実には絶滅していないのだから、幻影のエスノイリがいなくなった後でも生態系に目立った変化は起こらず、研究者が首を傾げるぐらいで辜負族は何の負債も抱えない。それは許容出来ない、というわけだ。
現状では辜負族が直接滅ぼした種の数は数えるほどしかないが(一件でもある時点で問題だ)、魔力バランスの崩壊を筆頭とした様々な自然環境の過剰破壊により、いずれ何処も彼処も幻だらけになるのではないかという気がして、もういっそ、今から人里とその周囲の田園以外の自然は全て幻影にしてしまった方が面倒がなくて良いのではないかとさえカナンには思えて仕方がない。
ただ、そうなると森林・山河での狩猟・採取だけで腹を満たしている者達は軒並み栄養失調で死に絶えそうではある。そして、そうした者達は比較的バランス保持に腐心していることが多く、元凶である乱す者ほど大して影響を受けずでは、流石に種族的連帯責任の加重比率が悪すぎる。
(それに、積み重ねの先にデッドラインがあるっぽいし……)
辜負族の傍若無人が大陸を荒らす度、ひっそりと零される本気かどうかも分からない禁域の独り言を思い出して、カナンはショートカットはないのだろうな、と先の短絡思考を翻した。
精霊達の仕掛ける実体のある幻影は、実体があるといっても所詮は幻である。上記で言う "栄養失調" は幻ゆえに精霊が術を解けば跡形もなく消え、食したところで栄養にはならないからである(鉱物加工廃水で壊滅した西海のような場合は少々変則になる。視覚触覚には海は悍ましい濁水のままで、そこに身を浸せば人魚族同様に(辜負族だけ)死に至る。しかし、毒水は海から汲み上げてしまうと無害な幻でしかなく、研究材料としても殺傷道具としても何の役にも立たない。カナンが浄化する前の毒素水を使い果たし、追加サンプルとして採取した獣人達は、さぞ首を傾げたことだろう。無害化の研究を続けるなら、改めて件の鉱物を加工して有毒廃水を生成するか、無害化を断念するしかない。後者を選ぶなら西海は永遠に死の海のままで、前者を選ぶならば皮肉な話だ。生成された毒廃水は無害化研究においてだけ消費されるのか? 殺傷に流用し、道連れの自然破壊を繰り返すなら、西海を取り戻すよりも先に関与する国や種族が滅ぼされそうである。―――ただ、そうなる前に、またしてもカナンやアウレリウスが駆り出される可能性があり、実にメンドクサイ。事が事だけに突っ撥ねるのも憚られるから更に始末が悪い)。
また、仕掛けている精霊は、自身の視界を実体オンリーにスイッチさせれば、幻影なしの情景を目に映せる。例えば、エスノイリの毛皮で作った衣服を身に着けている辜負族は着ていない状態で見えることになる。
そうそうあることではないが(全くないと言えないところが辜負族の業の深さだ)、エスノイリに限らず、全身を幻影素材で固めてしまっていた場合、裸の王様状態という滑稽な絵面が展開される。そこまではいかなくとも下着状態は場所によってはさほど珍しくない。過去に大規模な戦を起こし、大地を盛大に破壊した国の生産物が使用されていれば、結構な確率で有り得たりする。己の生活圏以外の復興に怠惰な国では特に。絶滅させた(ことになっている)種関係でも幻素材は存外辜負族の流通に残っている。
羞恥を超越した精霊や禁域には何ということもないストリップ観覧状態なのだろうが、カナンは断固拒否である。そう、カナンも見ようと思えば見えてしまう。その為、辜負族に対峙する時は "視る" 前に幻影の有無を調べることが習慣化している。もはや条件反射レベルだ。
アウレリウスの魔眼は真実を映す方がデフォルトのようだが、その辺りをどうしているのかをカナンは聞いたことがない。
(若い頃は辜負族の領域を彷徨いてたって言ってたし、いくら妖精に育てられたのでも着衣に関わる羞恥心はあると思うんだけどな……)
何を思ったのか、川縁に立った自身の脚によじ登ってきたエスノイリを抱き上げ、じたばたと藻掻く身から出た錆な様子をぼんやりと暫く見詰めていたカナンは、更に下げた視線の先に家族らしき数匹の毛玉の群れを認めて、はいはい、とそのそばへ下ろした。
すると、解放されたエスノイリは水草の陰にいる番らしき相手に、口から出した小さなその手ほどの大きさの何かを渡している。よく見れば、半透明で中心に銀色の丸い核があるそれは、思惟の森でも稀少なパリストリルデという名の植物の実だった。味は食べる者の嗜好に合わせて変化し、比較的多いのは清涼感のある仄甘さか炒り豆のような香ばしさのヴァリエーションだ。木の実を好む種にはご馳走である。
どうやら何処かで引っかけて脚に付着していたそれがエスノイリの目当てだったようだ。ボトムの膝を払うと残っていた果柄がぽろりと地面に落ちた。
ビーバーは草や木の葉、根、皮などを好み、資料によっては木の実も食べるとあるが、エスノイリは似て非なる存在。木の実や種、果実が常食で、時に塊根を食べることがあっても他はほぼ食べない。
またビーバーは人間同様、"環境を自身の都合に合わせさせる" 種らしいが、エスノイリはダムを作らず、水際に草や枝を集めるか、水中で穴を掘り、自ら分泌する時限水溶性の凝固液でこまめに固めるか(豊かな毛皮を持っていても両生である。その辺りの不条理はもはや地球ではないからとしか言いようがない)、巣作りはそのいずれかだ。
番の周囲には半分ほどの体長の子供のエスノイリが三匹おり、母親の持つ実に興味深そうな素振りを見せ、手や鼻先を突き出してちょっかいをかけている。しかし譲るつもりはないらしく、ぱくりと口へ入れるとそのまま雄と連れだって水中へ身を沈めた。子供達も直ぐさま親の後を追って潜水し、その姿を消してしまう。
残されたカナンは重なり合う波紋が跡形もなく散るまで、ぼんやり眺めてから踵を返した。
* * *
「あー……フラグかー……フラグなのかぁ……」
カナンの目の前には本物(?)の裸の王様がいた。
なるほど、絶滅種素材で全身を固めているのがステータスなのか。
某国王城の中庭では、騎士達による祝宴の余興の非公式な御前試合が行われており(地球の騎士物語でお馴染みの馬上試合ではない。会場を他所に設置せず城で出来る例もあったらしいが、この城では無理)、上階のバルコニーから観戦しているこの国の王は、その無防備にふんぞり返った体に何一つ衣服を身に着けていなかった。身に着けていないようにカナンには見えた。
不可抗力だ。幻影の感知には引っ掛からず、念を入れて視界も看破系統の術はオフにしているにもかかわらず、問答無用で見させられたのだ。
「なんでシャットアウト出来ないんでしょうねぇ……」
目を閉じるか、逸らすかしかないのはどうなんだ。全裸には自動モザイクが掛かる魔法でも構築すべきなのか。
既に見てしまった後ではそれも遅い。
「ん?」
諸悪の根源が意味が分からんと言いたげな顔で見下ろしてくるのを、カナンは恨みがましげに睨み返してやる。
脂ぎったぶよぶよの樽でなく、引き締まった筋肉の壁であろうと、最も直視したくない、女騎士の負傷に興奮しているらしき局所に大差はない(女騎士に露出はないので嗜虐趣味?)。アダムの葉の発想はやはりないのか、と男を睨む目に力も入ろうというもの。
カナンが何を言いたいのかは分かっているのだろう、男はにやにやと笑いながら、
「いや、何、羞恥心を疑われたらしいからな」
と、悪びれもせず、あっさり視覚による魔力認知の切り替え妨害と、質の悪い意趣返しを暗に肯定した。
「え!?」
しかしカナンは肯定されたことより、動機の方に衝撃を受けたようで、あの場にいたんですか、頭の中覗きました? などぐるぐると恐慌ぎみに思考を巡らせた。
「自覚してなかったのか? 声に出ていたぞ」
今は声に出ていない内心を素で読み取っていながら、先の件では読んでいないと追い打ちを掛けてくる男に、ああああ、とカナンは羞恥で頭を抱えた。
「す……すみません……」
素朴な疑問だったんです、と続く言葉は流石に言い訳がましくて飲み込んだ。
「だろうな」
その程度のことは男も承知の上での悪戯だ。ほら、とあっさり妨害の解除を顎で示され、カナンが恐々と裸の王様に目を向けてみれば、いつも通り幻影を視認出来るようになっていた。
二人は中庭上空、バルコニーの真正面の空間にアウレリウスが生み出した異界門――その向こう側の簡易異界の中にいた。
来て早々に精神ダメージで疲労困憊したカナンは、王から練兵場へ首を動かさず視線だけを下ろした後、深々と吐息して男へ体ごと向き直った。
「それで、何を求められているのか、禁域の意図は把握しているんですか?」
いつものように自力で探るのは、開き直って端から放棄である。気力が湧かない。それにあまり宜しくない予感があった。
「ああ、恐らくだが、夕飯時に食中たりで騒動になる」
「……………………それが?」
なんてことはないように男は言うが、それが何だというのだろうか。まさかその中毒を未然に防ぐ、ないし中毒者を治癒するなどということはあるまい。
胡乱げに見上げてくるカナンに、男はくつり、と笑い零す。
「それだけだ」
「…………………………………………えぇ?」
双眸を見開いて呆れを隠しもしないカナンの様子に更に愉悦を深め、アウレリウスは解説を続ける。
「エスノイリの干し肉が何処ぞの高級食材を専門に扱う商家の倉庫で見つかったとかで、今朝方城に納品されている。幻影ではなく生身の方だ。それが王の晩餐に出されるらしい。後は」
言葉を区切った男はカナンの視線を誘導するようにゆっくりと足許を見下ろした。
「あの試合の勝者への褒賞になる。肉そのものではなく晩餐への招待が褒美だ」
「…………一体何ヶ月ものの肉なんです?」
聞きたくない気もするが、もはや面白がる男へのつき合いで、カナンは厭そうに眉を顰めつつ確認する。
「さあ……一年は経過してないんじゃないか?」
「…………大丈夫なんですか、それ」
そう言ってしまってから愚問だ、とカナンは後悔した。
干し肉は状態次第で(味はともかく)長期保存も可能らしいが、先程この男は何と言ったか。
案の定、アウレリウスはそれを聞くかと言いたげに目を眇めた。
「勿論、大丈夫ではないからこそ全員仲良く食中たりだ」
馬鹿馬鹿しく、且つ愉快で堪らない、と男は不謹慎な心情を平然とその表情に曝け出す。
その癖、その案件に対し、どう行動するつもりなのか、禁域が何をさせたがっているのかには全く触れない。
唖然としたカナンは、いよいよ嫌な予感が確定しそうで、しかし確認しないでもいられず、恐る恐る尋ねた。
「それって……、私が来る必要、ありました?」
「ないな」
言うまでもない、と男は無情に即答する。
「…………ひょっとして、今回のこれは森が転送したのではなくて、アウルさんが私を喚んだんですか?」
疑問の形をとってはいるが確信ありげなカナンの言葉に、男は無言のままイイ顔で笑った。
思わずがっくりと頽れそうになったカナンを容易く男は抱き留めた。その際、近付いた男の口元から吐き出された忍び笑いを伴う息がカナンの耳朶を擽り、咄嗟に耳を押さえて体勢を立て直す。男の手はあっさり離れ、カナンは一歩後退ってもう一度男を睨み上げた。
男は威力のないカナンの視線を、不思議と穏やかな笑みで受け止めた。そこについ先程までの悪辣はもうない。
詰まるところ、アウレリウス自身も、禁域の事故で転送されただけだったのだ。
徒労を承知で周辺を調べてみれば愉快な事実に行き当たり、カナンへの悪戯を思いついたのが真相だ。
「…………エスノイリが関わっていたのも関係あります?」
「……さて、な」
羞恥心云々を呟いた時にそばにいたのなら、カナンがエスノイリと戯れていたのも見ている筈。
大して溜飲は下がらなくても、多少なりとは胸がすくかもしれないと気遣われたか。
謂わば他人の不運を歓迎するようで質は良くないが、飢餓ではない奢侈ゆえの自業自得に寄せる同情はない。
実際には絶滅していない、は絶滅させた側が同情を得る為に利用してよい言い訳ではない。
――辜負族への無情に対する広大無辺な慈悲者の侮蔑に、揺さぶられる繊細は疾うにない。
アウレリウスの予測(期待?)通り、晩餐でエスノイリの肉を食べた国王を始めとする王族、御前試合優勝者とその家族、厨房で盗み食いをした使用人達は目出度く食中毒で倒れた(筋肉は鍛えられても内臓まで鍛えられなかったのは致し方あるまい。地球では内臓は鍛えられると主張する向きもあるが、それがこの世界でも適用されるかは誰も調べていないので分けるわけもない。その思考自体存在するのか?)。
症状の程度は不明。
後日、王冠の台座がすげ替えられたらしいが、王の生存確認をカナンもアウレリウスも一々しなかった。
代わりがいるのであれば、何を気に掛ける必要がある。
いや、代わりがいなくとも、所詮は人族、拡大しても辜負族の問題、彼らが関知することではない。
覚書
裸の王様 ヌアゼアイ・チャレッスート
関連
33 後始末
39 過不足なく、が大事
65 一人のものは全員のもの
78 プラシーボ
81 身の程




