79 グラッセ
カナンにとって人参のグラッセは苦手というレベルではなかった。
口に含み、一度でも噛み締めてしまえば即、嘔吐。
何の防御策もとらず、平素の通りに食べようとすると肉体が生理的に完全拒否するのだ。
但し原因は分かっている。匂いを受けつけないのである。それ故、やむを得ず食さなければならない状況下では、小さめに分けたものを息を止めて口に入れ、その状態を保持したまま、喉に詰まらせないよう素早く数噛みして水で流し込む。マナーを気に掛ける必要がなければ鼻を摘んで飲み込む。
全世界の人参農家さんに喧嘩売ってんのかと言われそうだが、受けつけないものは受けつけないのだ。
しかし、人参が全く食べられないのかと言うとそうでもなく、千切り、みじん切り、銀杏切りに短冊切りなど、薄く切った人参ならば苦もなく、どころか生でも煮ても焼いても漬けてもおいしく頂ける。例えば極薄千切りならグラッセ一個分を一度に口へ入れ、存分に噛み締めても全く問題ない。
繰り返すが匂いが駄目なのだ。グラッセは拍子切りの人参をくたくたに煮ることでその匂いが破壊的に強化され、更には甘ったるい味付けのコラボが吐き気を増長する。甘さの種類と人参の味ないし匂いがプラス方向に調和していないのだ、カナンにとっては。
そのようなわけでカナンが自炊で人参のグラッセを作ることは全くなく、外食でも人参のグラッセがつけ合わせとして添えられている料理に自腹を切ることは一切なかった。
現実世界においては。
「で、その食えない料理をわざわざ作っているのはあれか、眷属用か」
キッチンに立つカナンの傍らで彼女の構う鍋の奥を覗き込んだアウレリウスは、ヴルガレスから仕入れていた他愛ない情報の真偽を、本人に確認ついでにそう現状解釈した。
「あー……いえ、これは妖精用なんです」
「妖精? 奴らは加工したものは食わんだろう」
「生まれながらの妖精はそうなんですけど」
出来上がったグラッセを笊にあけて水を切り、大皿へ移して保温の魔法を掛けると、また新たに鍋の中へ人参、水、バター、砂糖、ローリエを投入し火にかける。
「[ホーム]の妖精は<あちら>とは違って精霊が実体を持ったのではなく独立した存在なのですが、誕生までの過程は一様ではないんです。
最初から妖精として生まれる以外にも、通常の動植物が変異する場合もあれば、無機物に自我が生じて転じる場合もあり、性質によって妖怪や付喪神などと呼ばれる存在にも分岐します。ただ、変異存在の中で妖精に至る数は少なく、妖精全体での割合も余り多くはないですが」
……というゲーム設定だった。
「そうした例外は手を加えられていても食うのか」
「一部は」
「更に限定的なのか? となると、そのグラッセを与える相手は結構な稀少存在になるな」
稀少の重ね掛けでは残る個体の数も高が知れる、一体二体しかいないと言われても納得出来そうである。
「稀少……なんでしょうねぇ。まあ、故郷にいた時とは若干、仕様……性質が変わってしまいましたから、今はヴルガレスか家畜の魔獣に近くなってますけど」
言葉の端に不服を滲ませてカナンは眉尻を下げる。それを微かに瞳孔を広げてアウレリウスは意外そうに見下ろした。
「相手をするのが嫌なのか?」
「いえ、それはないです。元々私から望んで来てもらってましたから。ただ、以前は会いたい時だけグラッセを用意すればよくて、常に[ホーム]にいる存在ではなかったんです」
「ああ……喚ぶ喚ばないの次元ではなく、定期的な食事として与える必要が出来たということか。ヴルガレスや魔獣に近くなったというのは」
「……ええ」
「それで、供すること自体に不満はないが、一々人参のグラッセを大量に調理するのには不満があると」
「不満……というほどではないです」
言わずとも察せられてしまった内心の暴露にカナンはささやかながら反論する。
「なら匂いか?」
遮断しているだろう、と鍋の周囲を取り巻く魔力に目を向け、アウレリウスは愉快げに指摘する。
「そこまで念を入れんでも大して匂わんと思うがな」
「分かってます。ただ、うっかり油断すると、こう……」
沸騰する湯の中で奔放に転がる人参を菜箸で突きつつ、焜炉へ供給する魔力を絞って弱火にしながらカナンは眉を顰めた。鍋だけでなく自分自身の体にも匂いを遮断する結界を張っているが、同じ作業を何度も繰り返していると慣れや気の緩みで魔法の隙を作ってしまうことがあるのだ。そして、そういうタイミングに限って息を吸い込んでしまったりする。饗応の相手が調理によって強化された人参の甘ったるい匂いを殊更に好んでいるのもあり、グラッセに直接抑制系の加工をするわけにもいかず、カナンにとってはある程度気を張り続けなければならない骨の折れる作業だった。
「お前が食事を用意し忘れたらどうなる……と訊いても分からんか。こちらに落ちて来てから変質したのだったな。忘れた経験はないんだろう?」
妖精との契約は存外厳しい。人同士の約束事のように一回や二回の不履行は仕方がない、となあなあで許されるということはない。
<あちら>の妖精が契約を許す対象は辜負族ではないが、他のどんな存在が相手であれ、契約の厳格さは[ホーム]の妖精と変わらない。そのことを踏まえた上で、カナンに過去の失態はないものとしてアウレリウスは確信的に訊いた。一度でもしくじっていれば、今、グラッセで喚べる妖精との繋がりを保持出来てはいないだろう、と。
「運が良かったんです。この世界に転移した直後に思うところがあって彼らを喚んでいたので、その時に自己申告してもらいました」
地球で縁のあった者達がどうなっているかを確認する意味もあったが、真っ先に彼らを喚んだのはカナンの精神的ストレスに起因していた。
人参のグラッセで招来する妖精は何らかの事物事象を司っているのではなく、敢えて言うなら「癒しの妖精」。特殊能力は何も持たず、プレイヤーを視覚的精神的に癒す為だけに設定された小動物タイプのゲームキャラクターだった。
小動物の対人間特化な自衛的愛らしさに、あざとい・うざい・むかつく・いらつくなどの印象を抱く、嗜好の合わない者達の都合は考慮されていない。
『先人が汎用性の高い素晴らしい名言を残しているではないか。「嫌なら見るな」』――――A氏は小動物で癒される側の人間だった。
意識的に条件を満たさなければ現れない存在なのだ、視界に入れたくないのであれば喚ばなければいいだけの話である。
存在すること自体が許せないという主張は流石に我が儘が過ぎるだろうに、叶えられて当然のものとして排除要求をする行為が正当な権利だと勘違いしているクレーマーは何処にでもいる。
A氏の苦慮はそれなりの頻度でSNSにぶちまけられていた。
小動物の姿を持つ者は他にも魔物、魔獣、霊獣、通常の動物と様々におり、見たくなくとも問答無用で視界に入ってくることは当たり前にあった。しかし、彼らは物理であれ魔法であれ攻撃可能、つまりは鬱憤晴らしの虐殺が出来た為、クレーマーにとって排除要求対象ではなかったようだった(カナンだとて食用目的であったり、致命傷になり得る回避不能の敵対行動を取られた場合は、見てくれがどれだけ愛らしかろうと容赦なく狩っていたが。そこは弱肉強食である)。
フィールド上の妖精も攻撃は可能だったが、[ホーム]内ではダメージを与えられなかった。そして癒しの妖精は[ホーム]内でしか喚べない。わざわざ手間暇かけて喚び出してまで虐殺をしたかったクレーマーにはそれが許せなかったらしい。
そうした仕様が現在も有効かは検証していない。
この妖精を喚ぶ為の好物は、実は人参のグラッセの固定ではなかった。カナンの場合は彼女の苦手な食べ物がグラッセだったからだ。アカウントを取得する際の任意のアンケートに馬鹿正直に答えた者だけがしんどい思いをしていたのである。A氏が独りプレイをしていた頃からの自虐仕様だったのかは誰も知らない。
「まだ故郷にいた頃、何の意図があったのかは知りませんが、彼らを喚ぶだけ喚んで供物を取り上げた者がいたんです。妖精の不興を買ったその者は二度と彼らを喚べなくなっただけでなく、一部のヴルガレスを失いました。妖精が何かしたのではなく、彼らと相性が良く、且つ契約者との契約期間がまだ短かったヴルガレスが自主的に離反したようです。
もし私が規則正しい食事の用意を忘れたなら、或いは同じような代償を負うのかもしれません」
火を止めて鍋の中身を笊で湯切りし皿へ移動。保温魔法も掛けて再度先と同じ食材を鍋へ投入し火にかける。
「喚べなくなるのはともかく、お前と眷属のつき合いはそう短いものではないだろう」
キッチンカウンターに未だ残る刻まれた食材へちらりと一瞬視線を投げ、一体どれだけ作るつもりだ、とアウレリウスは呆れ混じりの目を傍らのカナンへ向けた。
「離反した霊獣が契約者のヴルガレスでいた期間の数十倍は共に過ごしていますけど、状況が違いますし、何より世界転移でその辺りの事情も変わっている可能性がありますから、あくまで "かもしれない" です。楽観視はしてませんから、これからも忘れないよう気をつけていくつもりです。定期的といっても年に四回のことですし」
カナンの[ホーム]に一年を通した四季はないが、時期的には日本の季節ごとの始まりに一回である。
季節感なく年中収穫している人参は、その殆どが彼らの為のものだ(一度だけ畑の人参がごっそりなくなる不測の事態はあったが)。
「まあ、それが無難ではあるがな」
何やら引っ掛かりのありそうな応えをする男をカナンは首を巡らせて見上げる。
彼女の疑問符を浮かべた眼差しを受け、アウレリウスは苦笑いを返した。
「大したことじゃない。ただ、実直だと感心しただけだ。お前にとっては妖精だのヴルガレスだのの境はないのだろうな」
「そうですね。皆、大切な家族です」
その括りだけで充分。
* * *
デッキテラスへ出たカナンは長椅子を隅へ片して空けた場所に、金糸で魔法陣の描かれた紫紺のラグをストレイジバッグから取り出して敷き、その上に正味人参百二十五本、約二十五キロ分のグラッセを載せた皿を全て置いた。そして体を起こして一歩下がり、カナンの頭越しに見下ろすアウレリウスを背にラグへ魔力を注ぎ込む。
途端、幾何学紋様を成す金糸が一斉に淡い白光を放ち、次第に光量を増して輪郭をぼやけさせ、グラッセを白く塗り潰していく。それを見守るカナン達の目には不思議と眩むほどの刺激はなく、じっと見開いたまま直視し続けていると、やがて光はラグへ染み込むように消えていった。
後には一心にグラッセを貪り食う毛玉が五匹、出現していた。
「この形態か」
ヴルガレスや魔獣に近くなったとカナンが言ったのは生態の話であって外見を指していたわけではなく、具体的な言及もしなかったのだが、予感めいたものはあったのだろう、アウレリウスは初見の妖精の印象として、既知の情報の再確認をした、程度の熱のない言葉を零しただけだった。
小動物の姿を持つ妖精は<あちら>でも珍しくなく、そのこと自体でアウレリウスが驚くとはカナンも思っていなかった。
大きな尻尾をぱたりぱたりと揺らしながら脇目も振らず食事をする妖精のサイズやフォルムは、獣タイプのヴルガレスのようなデフォルメのない、まんま成獣のレッサーパンダそのものだ。ただ、体毛は生まれたばかりの幼体に似た、黒白茶のパーツに分かれていない全身薄いブラウングレーをしていた。
暫く彼らの食事風景をぼんやり眺めていたカナンは、徐に一匹の真後ろへしゃがみ込んで揺れる尻尾の下へ右掌を差し出した。
弾力があって柔らかく良質な肌触りの刺激がぽふん、ぱほん、と不規則に与えられるのを気の抜けた顔で堪能する。
その様子を背後から眺め下ろしていたアウレリウスは、顔は見えずともカナンの醸し出す弛緩した気配に、これを必要としたわけか、と妙に納得して目尻を下げた。
大量のグラッセは二人の緩く温い眼差しの前で、瞬く間に妖精の胃袋へと綺麗さっぱり収められていった。
レッサーパンダは一日五キロ以上の餌を食べるとはいえ、一度にその量を摂るのではなく起きている時間の大半をその為に費やしているのだ、この妖精の一回の食事量をそちらに合わせることもなかっただろうに、妙なところでリアリティに拘ったのか、寧ろリアリティを無視したのか。
けふっと可愛らしくげっぷ未満の息をそれぞれ吐き出した妖精は一斉にカナンの方へ向き直り、後ろだけで二足立ちをした。前足は万歳の形に上げて一鳴きする。と、次の瞬間、ぽふっ、ぱふっ、と一匹ずつ小さな効果音を立てて消えていった。
完食、即退場とは、実につれない。
創造者や招来者の思惑を思えばビジネスライクと言えるのかもしれないが。
(…………毎回思うけど、それって威嚇のポーズだよね?)
いやいやいや、似ているだけで本物のレッサーパンダではないのだから別の意味がある筈。きっと。たぶん――――これまた恒例となった空しい慰めをカナンは自身へ贈る。
「威嚇半分、親愛半分、か」
「……?」
「ん?」
不意に後頭部へ落とされた慈愛の滲む言葉に、カナンはしゃがんだまま上体だけを斜に振り返らせて、遙か高みにあるアウレリウスの双眸を見上げた。
じっと見下ろす瞳は笑いを含みながらも男の温容を損なっていない。しかし、
「威嚇は俺に対してだろう。中々に気骨がある」
そう続けた時にはいつもの愉快がる、質の悪い表情に一変していた。
カナンは慣れですっかり鈍感になってしまっているが、目の前のアウレリウスは絶対的な上位者の気配をいつの間にやら露わにしていた。中てられた者には絶望を越えた虚ろしか残らない、理不尽を感じる余地すらない、差。
もっとも、カナンに限らず[ホーム]の住人は結構平然としている者も多い。ヒエラルキーに関係なく。初見からというのは数が少なく珍しいといえば珍しいが。
初対面時に平静だった者で、先程の妖精以外にぱっと思い浮かぶのはヴァゴス・アニマリスか。しかし、あれは気骨ではなく鈍感だろう。
「アウルさん…………」
「いや、出現直後に睨みつけてきた奴がいたからつい、な」
大人げない、とカナンが苦言すればアウレリウスは快活に笑う。他愛ない悪戯のつもりか、相手にしてみれば肝が冷えたろうに、カナンはますます呆れた。
「単に人見知りをしただけでは」
「そうか?」
「…………恐らく」
確認したこともしようと思ったこともないカナンは追求されて尻窄みになった。
もしかして、動物だった頃の縄張り意識が残っているとか……?
ないとも言えず、さりとて一々確かめる必要性があるとも思えず、カナンは棚上げした。
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