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隣人  作者: 鈴木
本編
78/262

78 プラシーボ

 具体的な効果のある魅了魔法の存在する<あちら>の世界では、生理的現象を引き起こさせる興奮剤の類いではない、感情に影響を与える惚れ薬という意味での媚薬も、プラシーボにとどまらず実用性のある物が存在する。

 但し、後者は種族・国を問わず禁制品である。

 薬草や鉱物などの素材だけで作られる物とは違い、魔法を付与して作られるそうした魔法薬は、魔道具同様、庶民には手の届かない高価な代物だが、それでも購入出来る層にほいほい買われたのでは混乱も必定。痴情の縺れなど素で日常茶飯事なのだ、惚れ薬の介在は丸く収めるより泥沼化させる方が目に見える。

 例外として、人族の "いと高き方々" が『トリスタンとイゾルデ』宜しく国同士の結びつきをリスクなく円滑に推し進める為に、祝いの杯の体裁で合法的に(・・・・)利用することは、常態と言えずとも稀とするにはやや無理のある、それなりの頻度で行われている。しかし、薬を買える層にも買えない層にもその真偽を知る術はなく、当事者外で精霊との雑談からその事実を知っているカナンやアウレリウスが喧伝する筈もなく、世間一般の認識はあくまで禁制品である。




 魅了魔法にしても媚薬にしても永続的に効果を発揮し続けられる物は存在せず、効果時間の差はあれど、必ず醒める時がくる。そうした実状において、醒めた後も恋情が持続することは果たして可能なのだろうか。


 外的要因で強制的に抱かせられた恋情が継続している間に、自発的な恋情が湧き起こることはあり得るのだろうか。


 自身の意思を無視して薬や魔法で偽りの恋情を植えつけられていたのだと知ってしまえば、大概の者は嫌悪感を抱くのでは、と考えるのは狭窄的だろうか。



 夢が醒めるのを恐れるなら死ぬまで魔法や薬を相手に与え続けるという手もあるが、流石に虚しく且つ悍ましい話で、当人が良くとも周囲が中々に放置しておかない為、そうした事例は存外稀だった。

 そう、庶民間での違法行為においては。


 王侯貴族との認識の差異は如何ともし難い。





 * * *





 アウレリウスや今のカナンであれば、一生涯解けないレベルの媚薬を作ることも容易い。しかし、いつぞやの応報の意図で返した魅了魔法のように、相手から仕掛けてきたものに手を加えることはあっても、好意・善意的に、いや如何な理由であろうと、自ら率先して作り出すことはこの先どちらも無い、と断言出来る。プラシーボでない本物の媚薬に、対人の魅了魔法同様の忌避感を持つ者なら当たり前の心情だろう。



「コーヒーにハチミツを混ぜると媚薬になる、なんて話が故郷にはあったんですよ」


 キッチンテーブルの上でコーヒーにハチミツをとろり、とひと混ぜして、ご機嫌にいつも通り、コーヒー豆な頭をカップへ突っ込んで飲んでいるウッカフェウプを微笑ましく見守っていたカナンは、その様子から思い出したネット拾いの話を、酒杯を傾けながら同じように苦笑混じりで眺めている、ヴルガレスを挟んで正面に座るアウレリウスへ何とはなしに振ってみた。


 コーヒーとハチミツの組み合わせは他にもダイエットにいいだの予病にいいだのと色々言われてはいたが、どれをとってもカナンはあまり信用していなかった。

 ウッカフェウプがハチミツを混ぜたのはそのような効果を期待してではなく、大して深い意味はない。単純にコーヒーに混ぜ物は邪道だと断じる価値観を持たず、美味しいと思えば何でも加えて飲むという嗜好ゆえだ。大好物はブラックコーヒーでも、それだけに拘泥しているわけではないらしい。


「その口振りだと実際には効果がないのか?」

「実体験ではなかったですね。まだそのことを知らなかった時期に、砂糖の代わりに入れられた物を提供されて飲んだ結果ですけど」


 当時は深く考えずに流していたが、蜂蜜コーヒーの媚薬効果を暴露した人間はカナンに件の物を飲ませた張本人だった。

 悪戯好きというあまり褒められたものではない思考の持ち主だったことを思うと、あれは無邪気な悪意だったのだろうか? ――激しく今更な疑問ではある。


「人によって効果の現れ方が違うと言われてしまえばそれまでですけど、媚薬作用を謳われた物は総じて惚れ薬としての効果は信じられていなかったと思います。動悸・息切れ・体温上昇なんていう病気なんだか発情なんだか判断のつかない症状を引き起こす物はあったみたいですけど」


 通常の体調改善の為の薬でも副作用で同じような症状が出ることはあるのだ、そちらは眉唾ではなく実際に存在していたのだろう。ただ、媚薬というより精力剤や麻薬など、付随する他の症状によって名称が変わってくる気がしないでもないが。



 一旦言葉を切ったカナンは、三者三様、点てた抹茶を一口含んでから話の先を続けた。


「吊り橋効果宜しく、その動悸(ドキドキ)を恋と勘違いしてまとまったという話は……虚構(フィクション)でしか聞いたことはなかったです。まあ、経験者全員に訊いて回ったわけではないので、ただの私の主観です」

「"吊り橋効果"?」


 聞き慣れない言葉にアウレリウスが片眉を上げる。


「危機的状況下での恐怖や不安による身体的不調を性的興奮と錯覚して、近くにいる異性(や同性?)に恋情を抱いているのだと思い込むことを私の故郷ではそんな風に言ったんですよ。この説を唱えた学者は自ら行った実験で実証されたとしていたようですけど、本当のところは知りません」

「そんな勘違いをするものか?」


 カナンの疑念に引きずられてではないだろうが、アウレリウスも懐疑的な呆れ顔を見せる。


「さあ。恐怖や不安や病気とは無縁で、日頃運動もせず、恋情がどういうものかの偏った知識だけはある人なら錯覚することもあるのでは」


 もっともらしく言っているようでも実際は適当発言である。自分には縁のないことなので現実に効果があろうとなかろうとどちらでもいい、がカナンの本音だ。

 性的な生理現象以外は経験があり、逆の意味で勘違いをすることはあるかもしれないが、その時はその時だ。


「そういえば、アルコールにも媚薬効果があるって言いますね」


 アウレリウスの手元へ視線を移したカナンは今思い出したというようにつけ加えた。


「適度に酔える奴には有効かもな」


 酔わない者には効果なし。すなわちアウレリウスには意味なし。

 過ぎると逆効果、とも言われるが。


 酔っ払いの不条理・理不尽・傍若無人にはアウレリウスも思うところがあるのか、嘘か本当かの疑念は提示せず、あっさりカナンの言に同意した。

 限定的なのはどちらに対する皮肉なのか(酔わない自身に屈託や鬱屈を感じているようにも見えず、順当なら酔っ払いに対する皮肉だろう)。





「…………」


 不意にカナンは茶碗をテーブルへ戻して立ち上がった。


「……どうした」

「誓って、わざとではないんですけど」


 そう言いつつ、カナンは視線をテーブル上へ落とした。

 そこにはアウレリウスの為に用意したつまみが数品。

 牡蠣とアボカドのファルシ(詰め物料理。カナンが作ったのは、中をくり抜いたアボカドに果肉ともども加熱した牡蠣や野菜を詰めている)にアボカドのサルササラダ、ファルシの材料の残りのローストした松の実。


「これらを下げて別のものを作り直してもいいですか?」


 何処かばつの悪い顔で伺いを立ててくるカナンに、何を言い出すのかと一瞬アウレリウスは眉根を寄せるが、


「なんだ、ここにあるつまみに媚薬効果でもあるのか?」


 もう察しているだろうに、口元に意地の悪い笑みを薄く刷いてわざわざ訊いてくる。

 それをこの時ばかりは観念したように神妙に受けたカナンは、軽く頷いて肯定した。


「ほぼ全部、そう言われていました」


 松の実は元より、ファルシとサルサの材料の塩・トマトを除く全て、アボカド、タマネギ、牡蠣、ニンニク、ハチミツ、トウガラシ、チーズ、胡椒、オリーブオイルには媚薬効果があると言われている(真偽がどうであれ)。


 信じてもいない媚薬効果など一々気に掛けて料理はしないのだが、一端その話題に触れてしまうと、自分で食べるならともかく客へ供するものでは何となく気に掛かってしまう。


「律儀だな。たとえ本物だったとしても俺には効かないぞ」

「分かってますけど、今の話の流れで知っているのに言わないでいるのもなんだかなあと思いまして……」


 心情を吐露しながら、カナンはアウレリウスの言う "効かない" が種族特性や絶対的な魔力の差による無効、だけではない含みを感じ取り、それを追求してよいものか迷って眉尻を下げた。しかし、好きに訊けとばかりに目を細める男の稚気に後押しされて疑問を口にする。


「ひょっとして媚薬を使われたことがあるんですか?」

「ある。ガキの頃は無防備に辜負(こふ)族の領域を彷徨くことがそれなりにあったからな。結構な頻度でハニートラップを仕掛けられた」

「…………誰ですか、そんな言葉を教えたのは」


 ――それを言いたいから促したのか。


 遠慮がちだったカナンの表情は一変して呆れのそれになる。


「誰でもいいだろう。中々に言い得ている。実際は言葉の響きほど可愛らしいものではなく、醜悪なだけだったがな」


 醜いのは諜報目的の性行為そのものか、それとも、ハニートラップを思いつく人間の性根か。


 面白がって笑う男の瞳に一瞬、残忍な(くら)い翳が()ぎるがカナンは気付かなかった振りをした。


「……もしかして、この前の魅了の呪詛を返した時、何処か苛立っていたのはその為ですか?」


 代わりに思い出した違和感をぶつけてみる。


「それもある」


 思わせぶりな答えを返す男の苦笑は、しかし、今度はそれ以上踏み込むことを拒絶していた。


 ならば疑問を差し挟む余地もない、明かしたくない部分を完全に隠した返答をすればよかっただろうに、答えたくはないが気に掛けさせたい、という思考を窺わせる気配は何を意図しているのか。


 目の端でいそいそとコーヒーカップを片付けるウッカフェウプの姿がちらつくシリアスみのない状況で、なんとも緩い沈黙が二人を押し包む。






 先に動いたのはアウレリウスだった。


 右手の酒杯をテーブルへ置き、代わりに箸を取って半割りのアボカドの皮に詰められた、ジェノベーゼソースのファルシを一口分つまみ上げ、躊躇なく口へ運んだ(器用なこの男は、カナンの見よう見まねであっさり理想的な箸遣いをマスターしていた)。


 咀嚼して飲み込み、カナンを見て口角を上げる。


「美味い」

「…………はぁ」


 気の抜けた声を漏らすカナンへ「座れ」と続ける。


「つまみはこれで充分だ。無用な手間はかけなくていい」

「……アウルさんがそう言うのなら」


 カナンの気持ちの問題で、食べる側のアウレリウスに不快や差し障りがないのなら、これ以上の拘泥は気遣いではなくただの押しつけにしかならないか、と素直に受け入れてもう一度着席する。


「大体、今更だろう」

「ですよねぇ」


 つまみに使用した食材は、どれも過去に別の料理(かたち)でアウレリウスに供している。その時は媚薬効果のことなど欠片も思い出しはしなかった。迂闊なのか、当然なのか?


「お前に限ったことではないだろうがな。真偽も定かではない媚薬効果(うたい文句)を知る者で、日常的な料理の際に一々気に掛けていた者がいたか?」

「……局所的な例外を除くなら、確かに見掛けませんでしたね」


 先程のカナンの心情をそっくり準えるように思い出してみろと促され、大して遡らずとも容易に引き出せる記憶の中の大衆は確かにそんなものだった、と苦笑う(思い込みの激しい層は例外扱いでいいだろう)。

 勿論、カナンもその "大衆" だ。






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