7 気まぐれの代償
「飲みますか?」
カナンが水を満たしたコップを差し出した途端、男はあからさまに顔を顰めた。
理由は明白。激しく不味い水を提供されたと判断したらしい。
「背に腹は代えられんってか?」
そう言いつつも受け取ろうとはしない。水魔法製造の水を飲んだ経験があるのだろう。
喉の渇きは限界とまではいかなくともかなりキているだろうに、あれはそこまで不味いのか。
飲んだ経験のないカナンはそう呑気に考えながら無造作に手の中のコップを呷った。
「っおい!」
特にカナンを気遣ったというより反射的に声を上げた男に、
「美味しいですよ」
しれっと、カナンは言ってのけた。
一瞬男はあっけに取られるが、すぐにこれでもかというほど懐疑的な表情で顔を歪めた。
取り繕う気が全くない辺り、よほど不味いらしい。
「勘違いさせてしまったようですが、これは水魔法で作り出した水ではありませんよ」
「……は? いや、ついさっき魔法を使っただろうが」
「いえ、あれは水魔法ではなく〔転送〕です」
「〔転送〕?」
「馴染みがないかもしれませんが物を空間移動させる魔法だと思って下さい。さっきのは私の家から飲料水をコップへ転送させただけなんです」
そこまで話してから、今更ながら習慣化していたとはいえ少々軽率だったかと、カナンは微かな焦燥感を抱いた。
精霊から聞いた限りではこの世界の空間に関わる魔法はかなり限られている。
また使い手が全くいないわけではないが、使える僅かな者達は総じて人族のコミュニティからは距離を置いている。
つまりもの珍しく、かつ利用価値のある手段なのだ。
この男に悪心が芽生えたところで対処出来るが、面倒には違いない。
人助けなどというやり慣れないことはするものじゃないと、カナンはすっかり後悔していた。
* * *
「誰かに仕えているのか?」
その言葉が男の口から発せられた時、カナンには元より予感めいたものがあり、ああ、やっぱり……、とうんざりした。
「いいえ。誰にも仕えていませんし仕えるつもりもありません」
真正直に答えると面倒な事態になるだろう予測はついたが、さりとて一時凌ぎの嘘をついたところで、結局はその嘘をつき通す為に新たな嘘を重ね続ける状況に追い込まれるのは目に見えているのだ。包み隠さず、予防線も兼ねてきっぱり撥ねつけた。
あまりのカナンの語調の強さに一瞬男は怯むが、それで引くつもりはないらしく、すぐに質問を重ねてきた。
「ならクェジトルか?」
「いいえ」
これもまたテンプレート。ついでに男がクェジトルに対して認識が浅いか偏見を持っていることも分かった。
いや、どちらもよくある話だ。声や表情に感情が現れていないのでどちらであるかの判別は難しいが。
クェジトルは馴染みのない者には好悪をつけるほどでもない未知の存在でしかなく、主を戴く立場の者には大概侮蔑の対象である。
依頼に難易度以外の優劣をつけず引き受けるといっても、何でもかんでも無条件に受け付けているわけではない。
中でもお家騒動、内乱、国家間戦争、といった、要は事が起こる前も後も中立を保持出来なくなるような依頼は原則受けない。
陳腐だが世界存亡の危機でもない限り、クェジトルには特定の国の趨勢などどうでもいいのだ。
お得意先は確かに存在するが、何が何でも存続させたいほどの共依存関係にはない。
つまりカナンがクェジトルだったとしても男の望みである、話の流れからして恐らく誰かしらの個人的な手足となれ、といった依頼は間違いなく拒絶される。それを、男は理解していないらしい。
認識が浅いにしても偏見があるにしてもクェジトルを傭兵程度に考えているからこそ「誰かに仕えているのか?」と訊いた後に「クェジトルか?」などという問いが出てくるのだ。
傭兵 "程度" というのは、この世界では傭兵の数はクェジトルより少なく、実力は総じてクェジトルの中の下くらいだからだ。
例外はない。それ以上の力量持ちになると大抵クェジトルになるか国に仕えるか――犯罪者になる(地球の中世期の傭兵というと戦時以外は野盗化していたというが、この世界は必ずしもそうとは限らない。高い力量の持ち主がなる犯罪者は戦時平時に関係なく、稼ぎ時と思われる戦時でも傭兵として加わることはせず関わるなら所謂火事場泥棒としてになる)。
* * *
その後の顛末はと言うと、一体いつ、どうやって連絡を取ったものか、男はカナンを主に売った。
恩を売るつもりで助けたわけではないのだから仇で返されたと腐れる立場にはないのかもしれないが、とカナンは誰ぞやを思い出しつつ、お人好しぎみに凹んで[ホーム]に引き籠った。
空間魔法だけを見て利用しようと目論んだのではないのだろう。カナンが魔獣を魔法の一撃で倒す様を見られている。男が意識を取り戻しているのに気付かず加減なしで使ってしまっていた。
主がどうもお家騒動で劣勢らしく、汚れ仕事を押しつけようと思ったか。
人格的・能力的に男の主と対抗馬とでどちらが国家の長に相応しいのかは知らないが、よしんば暴君が立ったとしてもカナンには関係のない事象だ。使い捨てにせよ先々まで酷使するつもりにせよ御免蒙る案件である。この辺りのメンタルはカナンもクェジトルに近い。
事前に何かしらの誠意を見せられていたとしても二の足を踏む問題だというのに、男はカナンの意思を完全に無視して実力行使に出た、いや出ようとした。
カナンの取りつく島もない様子から、思い通りにならないと判断したが故の選択だったのかもしれないが最悪である。
* * *
カナンと男とは森の奥のやや隆起した、周囲の木々の影が差し込んでも日中であれば陽の光が遮られない程度には開けた場所で休息していたが、その太陽も中天をとうに過ぎ、森特有の薄暗闇が中央にいる二人へと迫り始めていた。
このまま男と共にいると森の外まで送る破目になるかもしれないと危惧したカナンは、男が矜持を捨てる前に消え去ってしまおうと立ち上がりかけた(残念ながら今のカナンの辞書に「乗りかかった船」という諺はない)。
ほんの一瞬の隙――油断だった。
「他に方法がなさそうなんでな」
欠片も悪びれる様子もなく男が言う。
まさか腕輪をつけられるとも思わず、一瞬硬直したカナンを男が不審に思わないどころか納得している気配を感じ、そのままの姿勢で右手首に嵌められた遺物を〔解析〕してみた。
(……う…わぁ…)
そしてあまりにもあまりなその仕組みと来歴に唖然となる。
元々は大型の獣用の首輪として開発された物らしいが、細かいパーツに分けて連結させ、輪の直径を自在に変えられるようにしたことで人間にも適用させたらしい。
腕輪は装着者に隷従を強いる魔道具―――しかも自由な思考さえも封じられ、登録された主の言うがままに振る舞う完全な操り人形にされてしまう凶悪なものだった。
まさか人助けをした代償が命?人生?自我そのもの?になろうとは普通、思いもしないだろう。
(普通……普通? ……じゃないのかな……アウルさんに言ったら危機感がないとか呆れられそう……)
予想外過ぎて思わず呑気な自問自答で現実逃避しかかったカナンは、自分が“思考している”事実に気付き、今度は腕輪の魔力を〔探査〕してみた。
(腕輪の中で渦巻いてるだけ……? いえ、出たくても出られない……?)
まるで外界へ飛び出そうと強固な壁に体当たりを繰り返している生き物のように、腕輪に込められた魔力は内側で忙しなく循環していた。
どうやらカナンの保有する魔力が強大過ぎて、特に何かしら対魔法的なガードをしていなくても魔力そのものが障壁となって腕輪の魔力の侵入を防ぎ、ひいては隷従の魔法の影響をも遮断する結果となっているらしい。
「――――その娘が魔術師か?」
不意に聞こえた若い男の声に、カナンは思わず身じろぎしそうになるが、どうにか堪えて神経を研ぎ澄ませた。
その時、腕輪の魔力が意思を持った――ように感じられた。より示威的にカナンを支配しようと志向した、とでも言おうか。
(この人が腕輪の主かな……)
今、カナンに何かをさせようと意識したのだろう。
だが、動かないカナンを訝しむでもないところを見ると、言葉にして命じなければ効力を発揮しない類のものなのかもしれない。
ザッザッと土を踏みしめる足音が徐々に近付き、俯き加減で膝をついているカナンのやや手前で立ち止まった。
視界の隅に辛うじて靴の先が見える。
初見の魔術師と思わしき人物に対し随分と不用意な距離の気もするが、隷従の腕輪をしていることで軽視したか。
「立て」
命じることに慣れた口調で端的な言葉が放たれる。
カナンは即座に立ち上がるが、体を起こすと同時に後方へ一歩、大きく後ずさった。そして右腕を声の持ち主へ差し出し、魔法を無詠唱で発動する。
相手はカナンが命令以外の行動に出たことに眉を顰めていたが、その表情は直ぐにも凍りついた。
いや、感情が抜け落ち、マネキンか石膏像のように無表情になった。
カナンの右手首にあった隷従の腕輪が、主である筈の若い男の右手首へ瞬時に転送されたのだ。
「なっ……」
カナンに腕輪を嵌めた男が慌てて主へ駆け寄り、若い男の後方にいた護衛らしき騎士達が一斉にカナンを囲い込もうと展開するが、主より前へ出ようとしたところで見えない壁に衝突し、それ以上進めなくなった。
「……」
カナンの側に唯一残された男は愕然と背後を見渡し、そして振り向いた。
カナンを見る目はそれでも矜持があるのか絶望に彩られてはいないが、怯えを完全には隠しきれていなかった。
「腕輪が壊れている……ってわけじゃない、んだな?」
「壊れていたらその人はそうなっていないと思います。誤解のないように言っておきますが、腕輪の主は書き換えていないのでその人のままですよ」
「それは……っ」
男は絶句する。
主として登録されている人間がその腕輪を身に付けたらどうなるか?
隷従の適用範囲にもよるが、男の主が付けた腕輪は自由意志さえ奪うものである。
すなわち、主の命令なしには身体を動かすことは元より思考すらも出来ないのだから、自分自身へ命じることも出来ない。
能動より受動が優先される仕組みなのだ。
事故を防ぐには能動が優先されるよう設定すべきであるが、腕輪に付与された魔法の性質上困難らしく未だ改良ならず、ある意味欠陥品と言えなくもない。
その為、緩い隷従設定で腕輪を嵌めさせた後に設定変更するのが基本。
しかし男がカナンに使う分にはそのような気遣いは必要なかった。それが仇となったのである。
(おまけに一度つけてしまうと外すのも厄介なんだよね……)
男の動揺を呆れたように見ながらカナンは内心で長嘆した。
腕輪は一度装着されると主にしか外すことは出来ない。
腕を切り落とそうとすると腕輪の魔力が瞬時に装着者の脳を破壊する。
主以外が安全に外すには、既に装着者の全身を巡っている腕輪の魔力が脳を破壊する前に一刀で腕を切り落とすか、上回る魔力の持ち主が発動する間も与えず一瞬で腕輪を破壊するか、カナンのように腕輪の魔力を微動だにさせず腕輪だけを〔転送〕するしかない。
前者二つはほんの僅かの遅れも許されない為、よほど卓越した技量の持ち主でもなければ危ういことこの上ない。もはや賭けである。
(アウルさんなら斬れるかな……?)
身の丈を越える巨剣を片腕で易々と操る男の、鷹揚でありながら何処か皮肉げな、質の悪い笑みを思い出す。
あの男も高い魔力を有しているが、腕を残しつつ腕輪だけを破壊するなどという繊細な作業は如何にも苦手そうで、迷わず豪快に腕を両断するだろう(というのはこの時点でのカナンの思い込みで、実際は緻密な作業もアウレリウスは苦もなく行う)。
カナンは改めて男の主を視界に入れた。
人族の中の、ある国の支配層特有の豪奢な金髪に翡翠の瞳。
カナンにはそれだけで充分だった。
「あなた方王侯貴族――為政者は、二言目には国の為、民の為といい、まるでそれが万能の免罪符であるかの如く振り翳し、その為の非道も理不尽も認めない方が物事を大局で見られない、浅薄な理想主義者だと蔑む。
それを否定はしませんが、所詮その思考、価値観が通用するのはあなた方の影響する範囲内、支配の及ぶ自国、広く見積もっても辜負族の範疇に限ったことです。
私はあなたの国の民でもなければ辜負族でもない。自己犠牲を厭わないほどの情をあなたの国の民に対し抱いてもいない。
当然の成り行き・権利の如く振り翳される理不尽に従う義務も、許容する義理も、諦念する絶望もない。
故にあなた方に助力するつもりは欠片もありません。
力ずくで支配下に置こうとするのであればこちらもそれ相応の対処をするだけ。
手に入らないのなら殺してしまえ、というのであれば同じ末路を返しましょう。
ただ、私に冤罪をかけて不特定多数を煽る行為は阻止させてもらいます」
身分も地位も所詮は人の社会でしか意味のないものだ。
植物や動物、山野に河川に海洋、自然界の人以外の存在に「我は高貴なる身ぞ、伏して敬え!」などと尊大にしてみせたところで可哀想な人認定されるだけだろう。
今のカナンはこの世界の人という種族、その社会に全く依存していない。
カナンが世話になっているのも必要としているのも自然界。人以外の様々な存在だ。
そのようなカナンにとって、彼らが何者であるかなど全くもってどうでもいいことでしかない。
もし敬意を表するのなら、身分や地位に因らず、その人となりで判断する――――と言えればいいのだが、生憎カナンは己の人を見る目がまるで当てにならないことを自覚しており、大概基準にし易い地位や身分・年齢などから、礼を取り敬意を払う "振り" をするべき相手を選り分けている。
そのカナンが面倒を避ける為の取り繕いさえせず素で嫌悪を表わしているのは、それだけ彼らが分かりやすい属性の人間だったからに他ならない。
――もはや思考すら出来ない男に何を言っても無駄だろうが、せめてその護衛達には言わずにいられなかった。
(〔制限:虚偽〕〔曖昧指定〕〔推測回避〕〔適応:無限〕)
カナンは喋りながらも思考の裏側で数種の複合魔法を辜負族全体に向けて発動させていた。
人族にどう思われようと構わないが、犯してもいない罪を擦りつけられるのは業腹でならない。
冤罪を防ぐ為にカナンは自分に関し、辜負族が一切嘘をつけないようにすることにした。
嘘はつかなくとも、故意に開示する情報を制限することで聞き手読み手に誤解を誘導する行為もである。
永続的な自白剤効果のようなものだが、声や文字にするのに強制力はなく任意だ。
但し押し黙ることは出来ても虚偽捏造を発言・記述することは不可能で、推測も脳内では出来ても他者へ伝えることは出来ない。
質問に対し、首を振るなどの身振りで嘘を示そうとしても体が硬直し、嘘をつこうという意図で口を開けても声は出ない。
カナンが発動させた複合魔法(ゲーム由来の変容もあれば、こちらへ落ちて以降のカナン独自のものもある)は積極的に真実を喋らせる方向で作用するのではなく、嘘や推測を抑制する方向で効果を発揮する辺りが自白剤とは違う。
適応範囲が無制限だと日常生活にも難儀しそうだが、カナンは対象を自分に関してのみに限定しており、彼女の存在自体を知らない者なら魔法を掛けられている事実にさえ気付かず一生を終えることもあり得るだろう。
尤も、真実だけを広めたところで、この男達に組する者はただカナンが腕輪を嵌め返したという一点だけをもって憎み、先に仕掛けたのがどちらか、カナンに対し何をしたのかなど気にも留めないだろうが。
今回使用した魔法にはゲームのようなエフェクトはなく、護衛の騎士たちは一瞬身構えたもののすぐに虚仮威しか、と憎々し気な、或は蔑んだ表情でカナンを睨んだ。
そうした反応はカナンには既に馴染みのあるもので、今更怯むほどの威力もない。
ただ主を庇うように集団の最前に立つ、己が助けた男を温度のない目で一瞥した。
カナンの力の一端を見ている男には彼女を侮る色はなく、何処か焦燥を滲ませた顔で口を開けたり閉じたりしていた。
何を言いたいのかは容易く知れる。現状で男が何を求めるかなどたった一つだ。
男の後ろで今や人形と化している主を、どうやって解放すればいいのか――――なんと言ってカナンに解放させればいいのか。その言葉を選びあぐねているのだ。
だが、それが見て取れたからといってカナンに解放してやるつもりはない。
己を奴隷の如く、いや、自由意志さえも奪い、物言わぬ人形の如く扱おうとした相手をどうして許せるというのか。
誰もが動けない緊張を最初に破ったのはやはりカナンだった。
もうこの場にはいたくないとばかりに、視線を逸らすと同時に忽然とその姿を消した。
「……!」
男は待て、とさえ言わせてもらえなかった。それを意識する前、瞬き一つの間にカナンは消え去った。
余談だが、この世界に奴隷はいない。
奴隷に相当する立場の人間はいるが、合法的な場合は全て罪人であり、そもそも「奴隷」という言葉自体存在せず単純に「受刑者」乃至「苦役者」と呼ばれる(カナンは「隷従」「隷従」と嫌悪を込めて連呼しているが、似たような意味でも該当するこの世界の人族の言葉を日本語に当て嵌めるなら「従属」が近い。行為自体は隷従と呼ぶに相応しくとも、両者の行為を明確に区別する言葉が存在しない。隷従行為を強いる者の意識は得てして従属程度の認識しかなく、隷従を忌避する者は該当させる固有の言葉を創造すること自体に嫌悪を抱くらしく、"行き過ぎた" 行為という形で「従属」に内包させている)。
苦役者を装って罪のない人間を奴隷のように扱っている者もいるが、当然その事実が露見すれば処罰され、自身が苦役者となる。
そうした者は偽の苦役者を隠語で「蟻」と呼ぶこともあるが、無関係の者はそれを知っていても、同列扱いを忌避して人前で口にすることはまずない。
では、よくある身売りをした者は何と呼ぶのか? 身売りを禁じている国では同じく罪人となるが、禁じていない国では特に呼び名はなく、敢えていうなら「被雇用者」である。
その場合でも、労働の対価が金銭ではなく衣食住というだけで、人間らしい扱いをされなければ一応国に訴えれば職場環境の改善を望める、ことになっている。
だが、何処にでも官民の癒着はあるもので、形骸化している状況が珍しくない国もある。そうした国では身売り者を公然と「蟻」と呼ぶこともあり、特に禁じられている国の者には侮蔑されがちである。
そしてカナンを隷従させようとした者達は、侮蔑する側の国の者だった。
建て前は所詮建て前、ということか。
男の対抗馬にとっても建て前は建て前に過ぎないのか、などとカナンは一々精霊に訊いたりはしなかった。
* * *
後日。
「迂闊すぎる」
[ホーム]を訪れたアウレリウスが、畑で野菜の世話をしていたカナンに対して放った開口一番である。
「……っ、アウルさん、私まだ何も言ってません」
誰が、何を、が抜けていたが分かってしまう自分が恨めしい―――危うく未熟な実を鋏で落としそうになったカナンは眉尻を下げてアウレリウスを睨んだ。
「精霊に口止めをしなかっただろう。生まれたばかりの連中は口が軽いからな」
徐にカナンへと近付いたアウレリウスは、四十センチ以上の高みから「仕方のない」と言わんばかりの吐息をその仰のいた小さな顔へ落とした。
「人を助けるなとは言わんが、深く関わる気がないのなら、治療をした後は気絶したままでも放っておけ」
「……今度からそうします……」
そこは自分でも後悔していたことなので、カナンは逆らわず素直に肯首した。
「面倒が嫌なら当分帝国には近付かんことだ」
「やっぱりお尋ね者になってます……?」
「いや、捜されてはいるがな、表立ってじゃない」
愉快そうにアウレリウスの口角がやや吊り上がる。
「あー……あの人の現状を公に出来ないから、でしょうか」
「国民に対しては隠されているが相手勢力にはバレているぞ。従属の魔道具を使うのは一応重犯罪扱いだ。それは王族も例外じゃない。そこから色々後ろ暗い情報が芋づる式に見つかり、事前調査もある程度していたんだろうが、旗頭があれだからな、一網打尽だったらしい」
「……ということは、私を捜しているのは……」
鋏の刃の部分に専用のカバーを掛け、エプロンのポケットへ仕舞っていたカナンは心底厭そうな表情で目を尖らせた。その眉間に寄った皺をアウレリウスは宥めるように軽く親指で撫で、すぐに腕を降ろした。驚いて両手の指で眉間に触れるカナンの何処か稚い仕種に男は一瞬慈眼を向けるが、次ぐつもりの言葉にそぐわないと思ったか、直ぐに呆れのそれへ変えた。
「勿論政敵の皇子の陣営だ。捕縛を免れて逃亡している奴もいるが、本音ではお前を捜したくとも今はそれどころではないだろうからな」
「でもそれって、いざ捜されるとなると二重の意味でですよね」
カナンを捜す理由など腕輪を外させる為と報復の為しかない。分かりきっていたことではあるが、改めて突きつけられると溜息しかない。
「腕輪に関してはどちらもだ。呆けさせたままでは尋問も処罰も出来ん。頭がやられて回復不可能なら即行で諦めただろうが、お前の利用価値と合わせて確保に賭けたんだろう。まあ、それでも長引けばいずれ断念する。それまでの間だ、大した時間じゃない」
命の終焉が未だ見えない彼にしてみれば、確かに瞬き一つの時間にもならないかもしれない。
「そうですね……」
我が身の異変に気付いた時は先の見えなさに途方に暮れたカナンも、慣れとは恐ろしいもので、或はこの男に毒されたか、時間の長短に関わる感覚は既に狂っていた。
「暫くは禁域にも行かないようにします。元はと言えば森の悪戯に端を発したことですし」
暫く――暫くとは果たして。関係者全員がこの世を去るまでか。
覚書
助けた男 ギレハルム・ティスキイド
男の主 ルハート・オルナシル・ネーセザック