6 手遅れの見極めは意外と簡単である
くうぅぅん。
カナンの足元に纏わりついて鳴いているのは小さな獣―――見かけだけなら柴犬の、目も体毛も、足や腹の裏まで真っ黒な仔犬だった。
「……」
はあ、と溜息をついてカナンが抱き上げると、仔犬はくうくうと更に甘えた声を出して舌を見せた。
それはつい先ほどまで帝都――人族の国の中でも唯一の帝国ヴェルラトルの首都――の街中で暴れまわっていた魔獣の、本来あるべき姿だった。霊獣が魔術師の呪詛で外見もその性質も作り変えられていたのだ。
元は成獣であったのだろう、呪詛によって大半の魔力を奪われ、解呪した直後ではかつての身体を維持できず縮んでしまったらしい。
だが、成獣であったから縮む程度で済んだのだ。元が幼獣であったなら解呪と同時に消滅していた。魔術師の呪縛から解放したとしても死ぬしかなかっただろうから、後味の悪い思いをせずに済んだのは幸いだった。
「なんだ、晦冥狼だったのか」
不意に音もなく傍らに現れた男がカナンの手元を覗き込みながら言う。
「アウルさん……」
二人は今、帝都上空に浮かんでいた。下で晦冥狼の起こした騒動を収める為に奔走したり逃げ惑ったりしている人々には見えていない。
「見習い騎士には荷が勝ちすぎるので、見世物の闘技会か上位騎士の御前試合で戦わせる為に捕らえられ、狂わされていたのでしょう」
眉尻を下げて推測を口にしている間も、カナンは晦冥狼の頭を優しく撫であやしていた。晦冥狼は気持ちよさそうに目を閉じ、されるがままになっている。
「その割には場違いな場所から飛び出してきたように見えたが?」
「……見ていたんですか」
見物していたのか、と少々恨みがましい視線をカナンは愉快げな様子の男へ向ける。
「狩ってもよかったんだがな。お前の獲物のようだったから遠慮したんだ」
「獲物ではありません」
只の揶揄だと分かってはいるが、それでも人聞きの悪い、と小さく毒づいて、カナンは眼下に見える帝立学園の闘技場をその目に映した。
「騎士見習いの貴族の子弟が自己過信から権力を振り翳し、無理やり学園へ連れて来させたようです。魔獣の管理者も不運なことです。権力に屈してとはいえ、死者を出した以上処罰は免れられないでしょうから」
直接的な死因は晦冥狼ではなく、官憲に属する魔術師の魔法の誤射だが、人族が誰に全面的な責任を負わせようとするかは大して考えるまでもない。
上位貴族の子弟であったのも運が悪い。職務を全うしたとしても理不尽な状況へ追いやられていただろう。
「成程な。そいつと対峙したはいいが尻尾を巻いて逃げた挙句、闘技場の外へ放ったわけか。結界を解除したのか?」
「誘導には長けていたようで、この仔を出した後に再度結界を発動させ、闘技場という安全圏に籠ったみたいです」
「はっ。小利口なこった」
男に言葉ほど侮蔑の色はなく、気に掛ける価値もない相手にただ呆れているという態だった。
「精霊の話ではどうやら初犯ではないらしいです」
カナンがこの場へ来たのは精霊を介して対面した晦冥狼の長から依頼を受けた為だが、その際に今回問題を起こした騎士見習いの前科を立ち会いの精霊が囀っていた。
彼らは以前にも高位魔獣に挑んだはいいが逃げ出し、他者に討伐を肩代わりさせたことがある。
その時は郊外の森で低位魔獣を相手に実戦経験を積むというカリキュラムに沿っての授業中だったが、たまたま高位魔獣を捕らえた一団と遭遇した。
円環列島に拠点を置く統括組織<深淵の門>所属の捜索者の集団で、何かしらの依頼を受けていたわけではなく、旅程の消化中に魔獣の襲撃に遭い、返り討ちにしただけらしかった。
運がいいのか悪いのか、この集団に出くわしたのは引率の教師を巻き、本来禁止されている森の深部へ入り込んでいた件の騎士見習い達だけだった。
彼らは従属魔法の掛けられた遺物の鎖に繋がれ、すっかり大人しくなった魔獣が欲しくなり、身分を振り翳して一方的に無条件で譲るようクェジトル達に要求した。
国籍のないはみ出し者と言えるクェジトルは兎角国に属する者たち――の中でも特に選民意識の強い人族の貴族からは差別され易い。
優れた能力を持つ者が多く、依頼に難易度以外の優劣をつけず引き受け、解決してくれるので庶民層にはそこまで邪険にされていないが、自国民さえ物扱いの人族の貴族にしてみればもはや塵芥の如き取るに足らない、侮蔑対象である。
なまじ戦闘力に於いては騎士達も遠く及ばない、彼らをして化け物と呼び馴らす者もおり、その事実が自尊心の塊である貴族達には許し難いこととして激しい嫉妬を掻き立てられ、一層蔑まずにはいられないのだろう。
そうした背景もあり、上位貴族出の騎士見習い達はクェジトルに対し高圧的な態度を取った。
しかし所詮は世間知らずのボンボンである。日々深淵の魔物を相手に死闘を繰り広げているクェジトルにしてみれば実力を伴わない威勢などそよ風程度の圧力もない。
貴族からの差別にも慣れ切っている上、完全な実力主義社会で生きているので口先だけの相手に何を言われようが痛くも痒くもない。
となれば騎士見習い達の頭の悪い要求に対する応えも決まっている。
完全無視である。
その態度に怒り心頭で実力行使に出てもいいように去なされるだけ。
最終的には負け惜しみを吐き捨て、あろうことか自力で高位魔獣を捕らえてやる、と更に森の奥深くへ分け入ってしまった。
慌てたのはクェジトルの方である。
底抜けのお人好しが混じっていたらしく、放っておけないと騎士見習い達の後を追ったのだが、こういう時ばかり無駄に運が良いのか直ぐには見つけられず、やがてクェジトル達が捜し出すまでもなく、向こうから駆け戻ってきた。―――魔獣を引き連れて。
後で分かったことだが、始めからクェジトルに押し付けるつもりだったのではなく、恐慌状態で何も考えずただ逃げて来ただけだったらしい。
しかし意図がどうであれ、魔獣を他者にけしかける行為は、たとえ貴族であっても重犯罪である。
蔑んでいるとは言っても人族の貴族達には<深淵の門>と真っ向から対立出来るだけの武力がなく、被害者がクェジトルだからと軽微な処罰で済ませて敵認定されても困るのだ。
必然、騎士見習い達には重い処罰が下される筈であったが、そこにお人好しのクェジトルが待ったを掛けた。
彼らはある意味授業の真っ最中で、厳しく監督すべき教師が控えていなけばならない。
若気の至りとも言える彼らの暴挙は予見出来、指導者が見習い程度に巻かれて職務を全う出来なかったこと自体が問題である。
故に彼らに罪を問うべきではない。
――――と、甘やかしにもほどがある "温情" 裁定を求めたのだ。
負傷者が一人も出なかったこともお人好しを増長させたのだろうが、加害者の性質をよく知りもしないでの無責任発言だった。
その浅薄な自己陶酔行為が先々でどのよう惨事を招くことになるかなど、全く考えもしなかったのだろう。
「貴族に関してはありがちな展開だが、そのクェジトルはらしくないな。新人か?」
「え……どうなんでしょう。すみません、そこまで訊いていないです」
精霊の話を聴く限り、件のクェジトル全員が貴族のあしらいに慣れている印象を受けたのでカナンは一緒くたに考えていた。
「そうか。…………お前がそのクェジトルの立場だったらどうする?」
「……何故ですか?」
脈絡のない問いにカナンは眉尻を下げるが、何処か面白がる風な男の表情に聞くまでもなく答えに行き着いた。
「まあ単なる興味だ」
男もカナンが気づいたことを分かっているのだろう。さほど深い意味はないのか、言葉の先を促すでもなくあっさり返しただけだった。
ならば真面目に答える必要もないかとカナンは流しかけるが、手の中の温もりを再認識して思うところが出来、真摯に内心を吐露することにした。
「そうですね……私は聖人君子でも慈悲深い聖女様でもないので殺されかけたならそれ相応の処罰を求めます。
若気の至りで済まされたのではたまりません。
そもそも十五歳はもう物事の善悪の分かる年齢です。彼らのとった行為が重犯罪であることも学校で教えられていたのですから認識していた筈。
その上で自分が生き残るためなら他者を犠牲にしてもかまわないという選択をしたのですから、その結果には負うべき責任があります」
この世界は十六歳で成人と見做される。その必要があるからこその成人年齢である。
単純な成人年齢だけでも二十歳、と四歳も上であるのに加え、実際はその年を越えても子供感覚のいつまでも抜けないカナンの故郷の人間の十六歳と、この世界のまもなく十六歳になろうという十五歳を精神年齢において同列になど扱えない。
この世界の人間も、たとえ貴族と言えど十五歳は "近く成人する者" として相応の扱いをしている筈なのだが、何事にも例外はあるということか。
「それを教師が不在だったのが悪い、で教師に全責任を負わせて済まされたのには呆れました。
子供なのだから、己の力量に合わない経験をしたくなるのは当たり前?
そうやって甘やかして何の罰も与えず放免すれば、味を占めて同じことを繰り返し反省しないのは目に見えています。
学生の内はどんな無茶無謀をしても教師の監督責任にして罰を逃れられると知ってしまったのですから。
そこで自重出来る者なら、そもそも初めから殺人未遂に発展するような軽率な行動は実行する前に思い留まれるでしょう。
ましてや彼らは平民を人と思っていない、物としか考えないタイプの貴族です。
成長過程で故意に思考誘導しなくとも自然と選民意識を持ち易い環境にあるのに、改善の余地がある(かもしれない?)時期にわざわざそれを確約してしまうのですから、自省する筈もありません。
それで迷惑を蒙るのが彼らの周囲の人間だけならどうでもいいですが、実際、二度目の愚行で巻き込まれたのは一度目とは違って物理的な自衛手段も身体的な自衛技能も持たない、彼らとは無関係の一般人で、とうとう死者まで出しました。
そして案の定、彼らは欠片も罪悪感を抱かず、止めなかった教師が悪いと主張し、「貴族である自分達の命の方が遙かに尊い。寧ろ幾らでも替えの利く庶民の分際でその身代わりとなれたのだから名誉に思え」とまで言う始末。
自分は無事だったのだから、相手は子供なのだから、と甘やかした人間の自己満足に、別の人間がその命でもってつき合わされてしまったんです。
起きてもいなかった事象に対する責任などないと、彼らの更生を甘く見た当人は悪びれていないのではなく根本的に悪いと思っていないようですが」
クェジトルの一部はまだ帝都にいたようで、騒動に気付いて宿を飛び出してきた彼らのやり取りを思い出し、カナンは苦くそう締め括った。
「貴族の子供を甘やかした結果に対する責任認識がないのは、甘やかした奴を更に甘やかしている取り巻き達が増長させたのもある。連中も各所への根回しで加担しているからな。
当人には一応後悔はあるようだが、巻き込まれて死んだ人間に対してというより過去の自分に対してらしい。
温情を施してやった貴族の子供が更生するどころか悪化したことで裏切られたと傷つき、死者に対して罪悪感を抱いてしまう自分が可哀想だから温情をかけるのではなかった、という自己憐憫による後悔だ。
勝手に期待したのはそいつで、相手はそれに応えるとも言っていなかったのだがな」
しれっと自分の話に補足をした男をカナンは拗ねた目で見遣った。端から全部知っていたのではないか、と。
そして少し頭が冷え、ばつの悪さで深く俯きたくなる自分を誤魔化すように、少しだけ視線を下げて晦冥狼の仔を見下ろした。
これまでの記憶があるのかないのか、無垢な瞳が一心に見返してくる。
「……本当は、彼らを罰していたとしてもさして状況は変わらなかったのではないか、とも思うんです」
淡々としていながら何処かやるせなさの滲むカナンの言葉に、男は何も言わず、ただ静かな視線を向けた。
「調子に乗って随分と尊大なことを吐き出してしまいましたけど、精霊から伝え聞いたり、先程まで見せられていた彼らの言動を思うと、与えられる刑罰の意味を正しく理解して受け入れたかどうか……」
「―――ああ、あれだ。お前の故郷に丁度いい言葉があっただろう。なんだったか……そう、『三つ子の魂百まで』」
男の軽い口調に茶化されたかと思わず顔を上げるが、声の印象に反して、男は穏やかな、年長者らしい鷹揚な表情でカナンを宥めるように見下ろしていた。
肉体は若いまま時を刻んでいるのかも分からなくなってしまったが、生きた年数だけならば既に老齢に入っているカナンは、しかし千年を越える時を生き抜いてきた男から見れば赤子も同然か、と己の未熟さを恥じればいいのか甘えればいいのか、返す感情に困った。
「……彼らに改善が見込めないとしても、やっぱり処罰はして欲しかったと思います。感情的にもですけど、けじめとしても」
困ったので無難に話の続きを進めることにした。
「それはそうだ」
やはり男の声は軽いが、その笑みは優しい。
だが、眼下へと移された眼差しは諦念を滲ませた。
「多少はましになったかと思っていたんだがな……」
――――それは国か、人か。
けじめで言うなら魔術師に狂わされ自我消失していたとはいえ、人族にとっては所詮獣でしかない晦冥狼は当然処分対象だろうが(この世界も[ホーム]も、多少趣は異なるものの霊獣と称される存在は高度な知能と優れた知性を兼ね備えている。しかし人とは得てして見た目で判断する生き物である。相手の外見が獣の時点で、一見その尊厳を守っているようでも決して人と同列には扱わず、下位の存在として接する。かつてカナンの故郷では九割方見た目で人物評が左右されると言われていたことがあるが、この世界の人もその性質においては差はなく、同族の人に対してでさえそれなのだ、種族が違う、しかも人より劣るという認識がこびりついている動物達と似た姿をしている霊獣を対等に扱う筈もない。言葉による意思疎通が図れないのでは尚更だ。霊獣側に人へ彼らの言葉を教えようという意思がないのも原因の一つと言えなくもないが、それだけの不信感が彼らに植え付けられたのはこの大陸に人が住み着いて以来の、聞く耳を持たないその行いに起因しており、彼らが責められる筋合いではない)、長からの依頼もあり、そもそもカナンにとって人族の為だけの法など知ったことではないので勿論そのままお持ち帰りした。
色々台無しではある。
覚書
貴族の子供 エッテバルズ・ラヤコルユ
お人好しのクェジトル セリュニ
取り巻き1 サージスアド
取り巻き2 ティスエル
取り巻き3 アンワジル
※成人年齢が2022年(令和4年)4月1日から18歳になりますが、この話の主人公の故郷は20歳のまま変わらなかった世界線の地球の未来、ということにしましたので本文中の年齢表記はそのままにしてあります。