56 疲弊
「また何処ぞにでも転送されていたか?」
疲れた表情で帰宅したカナンを庭先で出迎えたのはアウレリウスだった。
「……アウルさん…………」
からかうような言葉選びでも、口調や表情は労りを滲ませているアウレリウスを前に、体はともかく、精神的に疲弊していたカナンは取り繕うことなく安堵の吐息をついた。
手ずからもてなそうとするカナンを制して居間のソファに座らせたアウレリウスは、慣れた様子で家妖精に茶の用意を指示し、自身もテーブルを挟んだ対面のソファに腰を降ろした。
この家の主はカナンだが、単純な力関係からだけでなく、いつの間にやらアウレリウスは客であって客ではない、しかし家族や同居者というにはまだ距離のある曖昧な位置づけのまま、時に彼が家人のように采配を振るのは当たり前のこととして家妖精に受け入れられていた。
その事に気付いた当初は内心での突っ込みが止まなかったカナンも、直ぐにまあいいか、と受け入れ、この時も特に異を唱えずに任せた。
* * *
人族の仕掛けた罠に霊獣の子供がかかったことがあった。
体長は三十センチほどだが、成獣ともなればニメートルにまで成長する、外見だけなら狐に似た霊獣エニウロスムルテ。地球の伝説のように尾の数が格の高低を表すということはなく、体長の数倍はある尾は一本きりである。
罠を仕掛けた人族は自分がやったことを隠してエニウロスムルテを助ける振りをし、そのことで恩を売って自宅に連れ帰った。
その人族は霊獣の言葉を当然解さなかったが、霊獣が人に近い知能・知性を持ち、人の言葉を話さずとも理解は出来ていると知っており、まだ稚く無垢な子供を言葉巧みに騙した。
そうして首に鎖を繋いで愛玩動物として飼い始めた。
流石に鎖に繋がれるということが何を意味しているのかを理解していたエニウロスムルテの子は激しく嫌がったが、まだ未熟な体ゆえに力も弱く種族特有の力も使えず、隷従の強要に抗えないまま、ただ親を思って毎日泣き暮らすしかなかった。
しかしその声さえも、仲間を呼ばれては面倒だと、呪詛を籠めた魔法薬によって喉を潰され出せなくなり、絶望が瞬く間に子供の心を覆い尽くした。
「……で、今回はそいつを助けたわけか」
精神疲労に起因する症状の緩和に効果があるとされるハーブティで一息つかせてから、カナンが自主的に話すのを鷹揚に待ち、漸う聞かされた忌まわしい内容に、アウレリウスは感情を窺わせない声で端的にそう確認の問いを発した。
「いえ…………。完全に洗脳状態で、帰るのを嫌がられてしまったんです。捕らえられてから大して時間は経っていないようなのに、その人族はよほど狡猾……というか、話術に長けていたんでしょうか」
霊獣にストックホルム症候群が当て嵌まるものなのか、用語説明を正確に出来る自信もなく、カナンは無難に言及を避けた。人族辺りなら調教が効いただけだとでも言いそうだが、霊獣相手でその思考はカナンにはない。
「それに無理矢理連れ戻すのは簡単でしたが、ああも思念で罵詈雑言を浴びせ掛けられ続けるのでは流石に萎えます。精霊の話にあった性格から随分とかけ離れているのは、親元では猫を被っていたのか、人族の影響なのか、いずれにしても晦冥狼の時と違い、直接依頼を受けたのではないですから、そのまま放置しました。親は居場所を知っているようですし、辜負族に近寄りたくない気持ちはよく分かりますが、今回は自力でどうにかしてください、ということで。魔道具の鎖の性能は破壊して強度も脆くしておきましたから、逃げる気になればいつでも逃げられます。問題の人族がそのことに気付くまで、ではありますけど」
その手間自体は不本意ではなかったのだが、エニウロスムルテの子の罵詈雑言をうっかり思い出してしまい、カナンは不快げに眉根を寄せた。
「それなら直ぐに親が来るだろう」
「…………気休めではないですよね。何故そう思うんですか?」
一見アウレリウスらしくない楽観発言にカナンは訝しげな視線を投げる。
「拘束・封印・支配系の魔道具は近付けない霊獣がそれなりにいる。魔力が弱く影響を受け易い、生理的嫌悪感が甚だしく体が先に忌避する――理由はまあ様々だが、親が居場所を知りながら何もしないでいるのならその辺りが問題だったのだろう。断言は出来ないがな」
「そういうことですか」
霊獣の我が子に対する愛情は深く、放任はらしくないと腑に落ちなかったカナンも、可能性の一つとはいえ、やむを得ない事情が明らかになり、胸に蟠っていたもやもやの幾ばくかが晴れてほっとした。
「それなら強引に連れてきた方が良かったでしょうか」
返答の分かっている狡い質問だな、と思いつつもまだ疲弊の残るカナンは自制が働かずに甘えた。
平素であればしないだろう寄り掛かる行為に躊躇いがないのは、それだけ精神疲労が過度で、アウレリウス相手に事情を委細漏らさず吐き出したからといって全快するものではなかったからだった。口汚い言葉に傷つくことはなくとも、長時間浴び続ければ流石に疲弊もする。
「そこまでお前が負う必要はない。どうせ禁域は何も言わん。お前がしたいと思った範囲内で構わんさ」
アウレリウスもカナンの思惑を承知の上で楽になる言葉を聞かせてやる。教育者ではないのだ、厳しくする理由も必要性もない。その程度でカナンが何事かを勘違いする人間でないことも男は知っている。するとすれば後悔だろうということも。
「…………」
ふう、と息を吐き出したカナンは、アウレリウスの言に頷いたようにも、ただ溜息をついただけにも見えたが、内実はどちらでもあり、どちらでもなかった。意識的な反応を決めあぐね、流れのままにどちらともとれる曖昧な挙動になってしまっただけだった。
アウレリウスに確約をもらったのだから問題ない、などと彼に責任を押しつけるつもりはカナンには毛頭ない。どう言い繕ったところで選んだのはカナン、取った行動の責任は彼女自身にある。
―――相手が辜負族であれば禁域に倣って投げっぱなしにするところだが。
* * *
「――――――――――――――――!!」
夜の静寂を劈いて一帯に響き渡ったその声は、人の言葉では表現することの出来ない霊獣の絶叫――――慟哭だった。
子供の亡骸を口に銜えた一方を守るように、もう一体のエニウロスムルテは降り注ぐ兵士や魔術師の攻撃を防ぎながら空を駆け、やがて夜闇の中へとその姿を掻き消していった。
エニウロスムルテを捕らえたのはこの地の領主だった。
高価な魔道具を実益のない愛玩動物に使える者が庶民である筈もないが、その領主が不在の折、主の猟犬ならば実利面からまだしも我慢出来ても、それ以外で室内に獣を置くことを良しとしなかった妻がエニウロスムルテの子を窓から庭先へ放り出していた。そして管理を命じられた使用人が家畜用の杭に子の首に括りつけられた鎖を繋いで離れたタイミングで親達が侵入した。
ついぞ聞いたことのない過激な雑言で罵り暴れる我が子にめげもせず、父親が鎖を噛み千切り、母親がその身を銜えようとするが、親達の声や子供が物に当たって立てる音を聞きつけて兵士達が現れ交戦になった。
このエニウロスムルテは飛翔することが出来、種族特有の力で飛び道具や魔法を防ぎながら空へ逃げてしまえば退避は容易い筈だった。しかし如何せん子供が言うことを聞かない。運び易いように気絶させるのもこの乱戦状態では危うく、城主の妻の意を受けているのか、兵士達に子供を生かして留めようという意思が希薄に感じられるのも親達の思い切りを躊躇わせた。
カナンが城の上空へ姿を消して現れたのは、親のエニウロスムルテによって弾かれた、魔力付与された一本の矢が子供の喉を刺し貫こうとする直前だった。
篝火だけでは満足に得られない明瞭な視界を〔暗視〕と〔千里眼〕で確保したカナンの目は、子供が一見母親を庇うように、そのそばで小さな体を跳躍させた瞬間を克明に捕らえていた。
子供の死を目の当たりにしたエニウロスムルテは狂乱状態で発動する業火を城内の各所で同時発生させ、突然の火事にも惑わされず攻撃を続けてくる兵士をいなしながら、より闇を深めた夜空へと妻子と共に駆け去っていった。
実はエニウロスムルテの子供は死んでいない。
矢が刺さる寸前にカナンが〔消除〕で消し去り、同時に実体のある幻影で貫通した矢と血を偽装して子供は仮死状態にしていた。慌てず的確に対応出来たのは、この場に現れる前まで[ホーム]から〔光幕〕越しに〔千里眼〕で状況をある程度見守っていたからだった。精神負荷の増大を承知で思考速度を一時的に上げておいたのも功を奏した(面倒なデメリットもあり、後日、ただでさえ疲弊しているところへ物理的に更に疲弊させてどうする、とアウレリウスに苦い顔をされたが)。
エニウロスムルテよりカナンの方が魔力的に格上なのに加え、彼らが冷静さを欠いていたおかげでうまく騙されてくれたようだが、住み処に戻る頃には子供の仮死も解け、親達も何かしら察するだろう。精霊のフォローもあるかもしれない。
(…………でも、めでたしめでたし、にはきっとならない……)
子供の意識が戻れば親達は知ることになる。子供が庇ったのが母親ではなかったことを。
あの時、母親の後方には、予定より早く帰城した城主が事態を聞きつけ、武装も解かずに駆け込んで来ていた。
子供の介入がなければ矢が母親に当たっていたか、スルーして城主に当たっていたかは微妙なラインで、よしんば城主に向かっていたとしても、戦士としての才があり、防具も装備している彼が負傷したかどうかは甚だ怪しかったが、子供にとっては予測されるべき結果の如何は関係なかった。ただ城主が危ないと思ったから咄嗟に庇った。それだけだった。
だが、親にしてみれば "それだけ" では済ませられないだろう。
子供の心を取り戻せたと思えば、それがぬか喜びでしかなかった現実を突きつけられ、相変わらず聞くに耐えない罵詈雑言を愛しい我が子から浴びせ掛けられ続けることになる。思念として直接脳裏に投げつけてくる為、子供の口を覆っても、自身の耳を塞いでも逃れられない。対峙しなければ聞かずに済むが、それでは子供を癒せない。
(洗脳状態のメンタルケアなんて出来もしないことででしゃばれるわけもなし、両親に頑張ってもらうしかない)
彼らの未来を思い煩うのも不遜だ、とカナンは鬱に入りそうになる思考を切り捨て、足許の騒乱には見向きもせずに[ホーム]へと転移した。彼女が最期まで心を砕くべき存在達のいる場所へ。
霊獣の炎には勿論精霊が宿り、水魔法で消し去ることは出来ないが、バーサーク状態で揮われたものは時に自然水をもってしても消火を困難にする。霊獣が狂乱に陥った状況を精査し、致し方なしと判断すれば、水の精霊が火の精霊を鎮めるのを拒絶するからだ。
今エニウロスムルテの炎は城の全域を包み込み、城外へ逃げ遅れた者を――人と人の手による事物だけを容赦なくその灼熱に飲み込んでいく。
エニウロスムルテの子が生きていることはカナンが魔法を使いながらリアルタイムで精霊に周知させており、その死が拒絶の一因になることはないが、死んでいなかろうと霊獣を虐げていた事実に変わりはない。
しかし、水の精霊の裁定は意味がなかったかもしれない。
あまりにも火の回りが速く、城の者達は逃げることさえままならず消火をするどころではなかった。
そして、阿鼻叫喚の結末は人族以外では精霊だけが見届け――――直ぐに膨大な記憶の中へ埋もれさせていった。
覚書
霊獣を捕らえた領主 ボレーゼード・ムージンメーム
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