23 潜思の海
魔族は種族特性として病気にならず、程度の差こそあれ自然治癒より遙かに優れた自己再生能力を有しており、他種族に比べれば極めて強靭な肉体を持っているが、それでもどうにもならない弱点はある。
空腹である。
魔族だろうと腹は空く。エネルギーの変換効率がよく、必要摂取量が極端に少なく済むのは魔王か、魔王になり得るだけの魔力を持つ者くらいである。
厳密にはエネルギーの変換効率が良い、というより自在に変動させられる為、変換せず昇華・消滅させることで暴飲暴食をしても肥満にならずに済むという世の女性の敵だったりする。
* * *
そこは "凪の海域" とも呼ばれる禁域『潜思の海』。
海面は常に凪いでおり、周囲の海域でどれほどの荒波が立とうと、見えない壁にぶつかるかのように直前で盛大な水飛沫となって砕け散り、全て跳ね返されてその静謐を乱すことはない。
地理的には思惟の森より遙か北、大陸北部を支配する魔族の領域となる北海域の、比較的大陸に近い位置にこの禁域は存在する。
紺碧は何処までも澄み渡り、通常の海であればその内部をクリアに曝け出してくれているだろうに、禁域は確かに透明でありながら、そこには魚の影も岩の容も藻の揺らめきもなく、海中を外部からは全く窺わせてくれない。
その禁域の上空に、一つの人影があった。
人と言っても人族ではない。
側頭部からはジャコブヒツジのような長い角が真っ直ぐに天へ向けて伸び、その根元には半分ほどの角が更に二本、そしてそのワインレッドの外套に覆われた背中からは蝙蝠の飛膜に似た黒い翼が三対六枚、緩やかに羽ばたきながら広がっていた。
魔族である。
何処か悪ガキのような幼さを残す、見た目だけなら二十代前半と思わしきその男は、もう随分と長い間、雲一つない澄み渡った蒼天を背景にその場で停空しながらじっと禁域の海面を見続けていた。
どれほどの時間が更に経過しただろうか。
その時、ありえない現象が起こった。
凪の海である筈の禁域の海面が一瞬、ゆらりと波打った。
それを見逃さなかった男の顔に一気に喜色が浮かぶ。
海面は直ぐに凪を取り戻すが、男は飽きず禁域を見続け、そうする間も時折、ゆらり、と波打っては鎮まる。
やがて揺らぎに奇妙なものが混じり始める。
色だ。
それも万色――と言おうか。虹でもまだ足りない、様々な色の煌めきが一瞬の波間に散り咲くようになった。
それに伴い揺らめきはどんどん大きく間断なく起こるようになり、遂に、
ザアアァァッ!!!
海面が一気に盛り上がり、一匹のメガロドンによく似た、しかし推定されたメガロドンより遙かに巨大な怪魚――潜思の海にのみ生息する魔獣カロルレル・クスカがその万色に煌めく姿を現した。
巨体に見合わぬ跳躍力でぐんぐんと上昇する怪魚を見て、とうとう男が歓喜の雄叫びを上げる。
「よっしゃーーーーーーーーーーーぁぁあああああああああああっ!!!!」
しかし海上高く跳ね上がったカロルレル・クスカは手近にいた、男ではない何者かにそのまま襲い掛かり、紫電一閃、顔の中心から真っ二つに縦割りされ、青い血飛沫を上げながら禁域へと落下していった。
「おおおおおお待てーーーーーーーーっ!!!!」
男は慌てて宙を奔り、魔法で加速までして追い駆けるが、まるで禁域から牽引力でも働いているかのように追いつけず、単純な落下速度だけでない速さでカロルレル・クスカの身体は瞬く間に海中へと吸い込まれていった。
「くっ……そぉ……っ!!!!」
男は未練たらしく禁域の上空をぐるぐると回り続けるが、海面ぎりぎりではなく一定以上の距離からは決して高度を下げようとはしない。
カロルレル・クスカに追いつけなかったのはこの限界線のせいもあった。カロルレル・クスカとの距離を縮めるには限界線までの余裕が少なく、飛翔速度を稼げなかったのだ。
限界線とは潜思の海との境界――禁域に含まれる上空域の際である。
いつまでも慨嘆する男に、中空を徐に近付いてきたのは先程カロルレル・クスカに襲われた――
「さぼってんな、ガキ」
アウレリウスだった。これでもかというほど呆れ切った声でざっくりと胸を抉る。
「うっせえクソジジイ!!」
憤然と振り返った男は、元々目尻の吊り上がりぎみだった凶悪な目を更に吊り上げてアウレリウスを睨むが、彼の斜め後ろに思いがけない存在を認め、一瞬で素の状態に戻った。
「あ……え、その、初めまして?」
そこにいたのはアウレリウスに連れられて潜思の海を初訪問しようとしていたカナンだった。
外見年齢にそぐわず、あまりにも子供じみている男の言動に、どんなリアクションをすればいいのか困り、無難な挨拶で済ませた。
「……へ、は? え? ええ?」
言葉にならない声を漏らした男は次の瞬間、カアアァァと顔だけでなく耳から首筋までを真っ赤に染めた。
「み、見てたのか!!」
「見ていたに決まっている」
己の言動の幼さに自覚があるのか、恥じ入るように後ずさりながら叫ぶ男に何故か応えたのはアウレリウス。その声に不機嫌は窺えず、ジジイ呼ばわりは気にならないのかな、とカナンはどうでもいいことをこっそり考えた。
「てめえ、なんでこんなとこにいやがる!」
「お前に言う義理はないな。大体、俺は禁域の "隣人" だ。お前よりはここにいて不自然ではないと思うが」
「うるせえ! 俺だって大事な用があって来てんだよ!」
「漁が、か?」
「漁?」
男達の掛け合いを傍観者然として眺めていたカナンが、思わずぽろり、と零した言葉に二人揃って振り返る。
「てか、なんだよこの女!」
「お前に紹介してもいいかと当初は考えたんだがな。気が変わった。アホが移りでもしたら困る」
「誰がアホだ!」
「お前以外にいないだろう」
直ぐにまた自分を蚊帳の外に言い合いを始める男達に、先に帰っていいかなーと思い始めたカナンは、ふと前方、アウレリウスにガキと呼ばれた男の後方から凄まじい勢いでこちらへ飛翔してくる人影に気付き、「あ」、と声を上げようした。
が、
ガシイイイィィッ!!
カナンが声を発する前に、男の背後を取ったその人物は容赦なく男の頭を鷲掴んでギリギリと締め上げた。
「ぃでででででででっっ!!! 痛えよっ! や、やめっ!!」
「あなたはまたこんな所で、な・に・を・し・て・い・る・ん・で・す?」
蟀谷に盛大な青筋を立てたその人物――同じく魔族なのだろう、側頭部に大小二本ずつの捩れた角と、背に蝙蝠の飛膜に似た四枚の翼を持ち、見掛けだけなら三十絡みの男は、端から答えを得ずとも分かっているとばかりに制止も聞かず締め続けた。
「いだだだっ! だだだだだだだっっ!!!」
「…………うるさいからそのくらいにしておけ」
先ほどまでの自分を棚に上げ、アウレリウスは切りがない、と男の折檻(?)を止めた。
「お目汚しを。直ぐにも立ち去りますのでご容赦下さい」
男はそう返しながらも締める手を緩めようとはせず、その後中空を引き摺るというのも妙な表現だが、掴んだ頭をそのままに、来た時同様超高速で翔び去っていった。
残された二人の間に何とも締まらない静寂が戻る。
「…………怒涛のような人達でしたね……」
呆れればいいのか感心すればいいのか、彼らの去った方角をぼんやり見遣っていたカナンがぽつりと言う。
「あれが常態だからな。俺はもう慣れた」
「いつもあんな感じなんですか?」
「ああ。因みに若い方の男は宗主――魔王だ」
「――――魔王!?」
魔族の領域には複数の国家が存在するが、それらは全て、魔王が支配する唯一国の従属である――――名目上は。
現在は各国のまとめ役、議長か生徒会長か学級委員長か(認識のグレードダウンは各人による。勿論この世界には生徒会長、学級委員長の名称は存在しないのでそれ相当というだけである)、要は他種族と対立する際の意思統括をするぐらいで自国以外に大した影響力はない。
人族とは違い、魔族は長らく同族同士においては安寧の世が続いている。
それでも魔族最強は魔王である。一応。
「そんな立場の魔人が何故禁域に……?」
その字面だけを見るならかなり不穏な疑問だ。一国の王が禁域に、とは。
「奴は無類の魚好きだ」
しかし大真面目な顔でアウレリウスは脈絡のないことを言う。
「魚ですか?」
「そう。奴は漁に来ていたんだ、馬鹿馬鹿しいことに」
「もしかして…………」
一呼吸の間。
「これだ……」「これですか……」
思わずハモって顔を見合わせ、目の前に〔転送〕し浮かせた物体を見て、更に視線を交わした。
「…………」「…………」
アウレリウスは盛大に溜息をつき、カナンは可笑しそうに笑った。
それは先程アウレリウスが切り捨てたカロルレル・クスカの死体だった。その半分ずつを、双方氷漬けにした状態でそれぞれ禁域から持ち出したのだ。
その意味するところは?
「いい歳した男を甘やかしてどうする……」
カナンの笑みにその勘違いを察し、先を読まれたばつの悪さも相まって、アウレリウスはわざと苦々しく吐き出した。
「アウルさんにとっては誰でも幼い子供になるのではないですか?」
「やめろ。気持ち悪い。……そういうお前はなんなんだ?」
心底嫌そうに顔を歪め、アウレリウスはじろり、とカナンを睨む。
「私は……なんとなく。食材を無駄にしないのは良いことですし。倒したのはアウルさんですから、どうするかはアウルさん次第ですけど」
「ここでお前にやろうと思った……と言っても、信じないんだろうな」
「アウルさんがそう言うなら信じます。疑う理由もありませんし」
「そうなのか?」
アウレリウスの方こそ胡乱げな眼差しをカナンに向ける。
「はい、ありがとうございます。正直この魚がどんな味なのか興味があります。でもこれだけの大きさですから、お裾分けするのを許してもらえれば」
「…………好きにしろ。いや、それは俺がやっておく」
言うが早いか、アウレリウスの〔転送〕させた半身が目の前から消滅した。
「直にはやらん。せいぜい餌にさせるさ」
「側近の人辺りですか?」
「ああ。あいつはそれなりに真面目だからな」
アウレリウスがカロルレル・クスカの身を再度〔転送〕させた場所は、先ほど迎えに来た近侍の屋敷だった。度々執務放棄して抜け出す王を城に缶詰にするには絶好の人参になるだろう。
「それにしても、成人年齢って十六歳でしたよね」
「いや……」
「……………………魔族はもっと遅いんですか?」
「あー……まあ」
何やらアウレリウスの歯切れが悪い。
カナンが目線で疑問を投げかけると、観念したように答えた。
「今年で百五十だったか」
「ひゃくごじゅう!? ……私より年上ですか」
「精神年齢なんざ人による。種族特性や環境の問題もあるしな。魔族は人族より遙かに長命な分、呑気な奴らが多い」
「享楽的だったり嗜虐的だったり、超然とか頽廃とかではなく呑気、ですか」
「そういうやつらもいるが、総じて呑気者ではあるな」
「意外です…………」
失礼と思いつつも言わずにはいられないカナンだった。故郷で刷り込まれた先入観は中々に厄介だ。
それにしても、意識してか無意識か、二人揃ってアウレリウスも魔族であるという事実を綺麗に念頭から外していた。
カナンが人間であっても人族でないように、アウレリウスもこの大陸の魔族とは切り離して考えるのが当たり前になっているからかもしれない。
「魔王様はこの魚を一人で食べるつもりだったんでしょうか」
「奴の場合、栄養にしなけりゃいいだけの話だからな。底なしだ」
「はあ……」
それは(酒に関しては)アウルさんもでは――とは賢明にもカナンは口にしなかった。
* * *
それから暫く後。
円環列島にあるとある町のとある大通り。
一瞬目の前の人物が誰なのかを正しく認識出来なかったカナンは、しかし直ぐに記憶を浚って該当者に辿り着き、定型リアクションな、一方の掌をもう一方の拳で軽くぽんっと打つ所作をした。
「ああ、魔王様ですか」
「てめえ……っ」
瞬時でも認識までに間があったのは魔王的には許容範囲外だったらしい。吊り気味の目尻を更にキリキリと引き上げてカナンを睨んだ。
確かに、角がない程度で軽い認識傷害に陥られては不本意甚だしいかもしれない。
そう、魔王の頭から、あの自己主張激しい極めて特徴的な角が綺麗さっぱりなくなっているのだ。
が、それは別段特異な現象でもない。中位以上の魔族であれば角であれ翼であれ出し入れは自由だ。カナンもその事実は知識として知っており、単純に少しばかり失念していただけだった。
角や翼は魔族のアイデンティティの一つでもあり、平時は就寝時でもない限りわざわざ隠すようなことをしないため珍しいと言えなくもないが、それでも魔王は顔の造作まで物理的にも魔術的にもなんら弄ってはいない素の状態なのだ、渋い顔もしたくなるだろう。
「またお城を抜け出してきたんですか?」
「城をって、なんでてめえがんなこと知って……て、クソジジイか!」
いつぞやと同じような、何処か甘えのある憤怒を見せる魔王に、確かにソースはアウルさんだけど、とカナンは内心呆れた。少し魔族の町で耳を澄ませば方々から聞こえてくる、誰もが憚ることなく大きな声で話の種にする事実だったのだ。まさか知らないとも思えないが、アウレリウスを腐せる機会には他の可能性を丸無視してでも飛び付きたいのだろうか。
「現実を見ろ。俺以外にも喋る口は幾らでもある」
「あ?」
カナンの内心を代弁したのは魔王の背後に立ったアウレリウス。同時にその後ろ首を掴んで軽く絞め上げた。
「……!!」
「とっとと帰れ」
息苦しさと驚愕で一瞬声を失った魔王をアウレリウスは容赦なく転送した。送り先は言わずもがな魔王の城だ。首を絞める直前、認識を阻害する結界を周到に張っていた為(誰であろうと不可能だとカナンは思い込んでいたがアウレリウスには可能らしい)、通りを行き交う者達の誰にも見咎められてはいない。町中での魔法の使用を感知されない為の隠蔽工作も抜かりない。全てがアウレリウスにはほんの些末事。
「アウルさん……」
親切なのか気紛れなのか、強制送還を請け負っているようでもないアウレリウスの唐突な行動にカナンは困惑を見せた。
「大した理由はない。ただ鬱陶しかっただけだ」
確かにその表情に辟易とした観はある。が、何処からしくない印象を拭えなかった。
カナンの物問いたげな視線には薄く笑ってみせただけで、行くぞ、と先を促し、アウレリウスは城門へ向けて歩き出した。
珍しく二人揃って飛ばされた禁域の悪戯の意図には、まだ辿り着けていない。流石に魔王の捕獲に二人も駆り出されたということはないだろう。たぶん。おそらく。
でも、断言も出来ないのがまた…………とカナンはうんざりとした溜息をつきつつアウレリウスの後を追った。
覚書
魔王 ディフティガン・ユリテラロス・ツェフェンダート
側近 ファクローヴァ・カシューエーフェ
関連
晩餐




