グランドピエロ
目が、合った。
がやがやと騒がしく、制服姿の少年少女がせわしなく行き交うなか、彼女はじつに驚いた――そう、それはまるでツチノコかネッシーにでも遭遇した時のような――様子で、ぽかんと口を開け、目をまん丸にして僕を見つめた。
一歩、……二歩、三歩。よたよたと頼りない足取りで、何かに惹きつけられるようにこちらへと歩み寄ってくる。私は見えない引力に引っ張られているんです、これはどうしようもないんですとでも言いたげな様子に見えた。
「……あ、あの」
彼女はどこか必死な表情を浮かべて唇を動かす。僕は、ああ、といつものように答えた。
『どうかしましたか?』
彼女はきょとんとして、僕の顔をじっと見た。僕が今唯一感情を示すことの出来る口元ににっこりとした笑みを浮かべてみせると、彼女はしばらく考え込むような沈黙を紡いだあと、納得したように何度も頷いてふんわりと笑った。
「そうか、あなたはピエロだもんね」
僕はゆっくりと大げさに頷くと、彼女にわざとらしくも深いおじぎをした。彼女の履いている黄色い上履きが視界に映る。ということは、彼女は僕よりひとつ上、つまり二年生ということになるのだろう。
彼女はようやくはじめの緊張が解けたようで、くすりと笑い声を上げた。ちょっと人見知りなたちなのかも知れない。
僕は今、紫と銀の色合いの不思議な洋服を着込み、顔には目元を隠す面をつけている。なにもふざけているわけじゃない。今日はそういう日なのだ。校内にはキュートな着ぐるみや、筋肉系男子の痛ましくも滑稽な女装姿などが制服たちの合間に紛れ込んでいる。
何を隠そう、文化祭である。生徒たちが普段の静寂(というほど静かにしているなんて到底思えないが)をかなぐり捨て、つかのまの喧騒に思う存分身をゆだねる日。とくに高校なんてレベルになるとそれはより顕著になる。コスプレなんてもう珍しくもないノリの一種だ。彼らは人目を引く格好をして、自分たちの出し物の宣伝をしているのである。かく言う僕も、自身が所属する演劇部の劇の宣伝のためにこんなおかしな格好をして、校庭に立っていたりする訳だ。
『どうですか、演劇』
僕はその言葉と共に、手に持った看板を見せた。そこには割にシリアスさ滲むフォントで『グランドピエロ』と書かれている。
先輩たちが幾度に渡る部員同士での死闘の末に書き上げたオリジナルの脚本。渾身の一作。しかし劇には、こんな格好のピエロが乱入してくるシーンなどない。劇との共通点はまさに「ピエロ」だけである。いささか雑な宣伝方法だった。何でも、先輩がどうしてもこの衣装を使いたかったんだそうだ。その先輩の意見では劇にもピエロが登場することが主張されていたが、今回のテーマにそぐわないとかいう他の意見に食いつぶされた。芸術に熱心な人たちの談義は時によく分からない。
「ああ、うん。観に行ってみようかな」
彼女は柔らかく微笑むと、また僕をじっと見つめた。
『ピエロを見るのは初めてですか?』
僕がそう訊くと、彼女はどこか寂しそうな顔つきで首を横に振った。
「見たことは、あるよ。それも、ずっと小さい頃」
なつかしい、とつぶやいて、彼女は僕の着ている道化の服に触れた。
「よく出来てるね。ロフトとかで買ったの?」
『いいえ。先輩の手作りです。すごいですよね』
ふうん、と彼女はまた少し驚いたような顔つきで頷くと、そっと銀の布を撫でた。
その仕草はなんだか悲しげで、消えてしまったものを慈しむみたいな優しさがあった。
「モデルとかは、いるのかな」
僕は首をかしげた。
「その衣装の、元になったもの、みたいな。それね、私が好きな童話に出てくるピエロの服とそっくりなの」
『童話ですか。……すいません、よく分かりません。また先輩に聞いておきます』
そっか、と、彼女は軽い調子で応えた。それきり、目を伏せて黙り込んでしまう。何かを言おうとしているみたいだった。
このまま放っておくのも申し訳ない気がしたので、僕から彼女に話しかけてみることにした。
『童話って、グリム童話みたいなものですか?』
はじめ彼女は僕が話しかけたことに気づかなかったらしく、うつむいていた。僕がとんとんと肩を叩くとはっと顔を上げて、ああ、と言った。
「ううん、違うよ。そんな昔からある、きちんとしたもの……っていうのも変だけど、そういうのじゃないんだ。最近も活動してる、現代の作家が書いたやつ。たぶんまだ売ってると思うけど」
そうですか、と頷いて、今度は『どんな話ですか?』と尋ねる。じつのところ僕は暇を持て余していたので、彼女と話しているほうが何となく気が紛れると思ったのだ。
「夢を持った子供たちがいるの」
彼女はどこか遠い目をして言った。どこか、夢を見るような口調だった。
「でも、彼らは同時に少し悪いところも持っていた。盗みぐせがあったり、他の子をいじめていたり……。そんな彼らの前に、不思議なピエロが現れるの。意地悪な彼は子供たちの『ゆめ』――ああ、将来なりたいものとか、それになりたいと思う気持ちのことね――を、食べてしまう。悲しんだ子供たちは皆、不意に自分のした悪いことに気づく。そうして、偶然にも新たなゆめを見つけていくの。自分が本当に叶えたいと思う、ゆめを」
それから、と彼女は言葉を継ぐ。どうやら、クライマックスというものがあるようだった。
「最後の章で、ピエロは一人の女の子に出会うの。彼女は特に目立つような悪いことはしていなかった。けれどピエロはその子を見るとなぜか心がかきむしられるような思いがして、いらいらした。なんの罪もないその子のゆめを食べてしまいたくなった」
『……どうして?』
「女の子が、昔彼が人間だった頃抱いていたのと同じゆめを持っていたから」
どきん、と、心臓が一際強く脈打ったような気がした。
――それは。
それでは、まるで――。
「ピエロは、昔人間だった。彼は卑怯なことをしてしまったために、人間であることをやめなければならなくなった。そうして、ゆめを諦めざるを得なくなってしまった……。それらは彼にとって、思い返したくもない暗い過去だった」
ずきずきと古傷が痛むのを感じる。それはもう僕の手が届かないくらいに胸の奥深くに潜り込んでしまっていて、僕はそれと向き合うことすらできないでいた。
『その、ピエロは』
僕は彼女が口を閉じるのを待って、こう告げた。
『とても僕に似ています』
彼女は少しはっとしたような表情を浮かべて、僕の顔を見た。
『僕は昔、友達を裏切ったんです。そのせいで彼は傷ついて、僕は大切なものを失った』
僕は一体彼女に何を話そうとしているんだろう、と心の隅っこで思った。こんなよく知りもしないひとつ年上の女の子に。けれど、なぜかそれは僕にとって正解であるような気がしていた。どうしてだかわからないけれど、彼女も僕と同じような傷をもっているのではというよく分からない確信みたいなものがあった。
『中学の時、部活の先輩にいじめられていたんです。彼は僕を守ってくれた。なのに僕は、代わりにいじめられるようになった彼を見捨てた』
彼女は黙っていた。僕の顔をちらちらと見ながら、なぜかすこし心配そうな表情を浮かべ、両手の指を組んでは解きを繰り返していた。
『卒業式の日も、一言も言葉を交わさずに別れました。僕は、卑怯者だ。彼はあんなにも僕のことを大切にしてくれたっていうのに、』
「辛かったね」
彼女が遮るように言った。
「誰かを傷つけることは、とても辛いことだもの」
僕はぎょっとして彼女の方を見た。彼女は肩を震わせて、うつむいていた。泣いてはいないけれど、それはとても悲しそうで、辛そう、だった。
「私も、同じなの。私も人を傷つけたことがあるから、分かるよ」
彼女は僕からは全く表情が見えなってしまうくらいまで顔を下げると、またゆっくりと顔を上げた。
「あのね、私、ピエロさんに言いたいことがあったの。ずっと前から」
それは僕に、というわけではなく、『ピエロに』、ということだろう。何か思い入れのあるものなのかも知れない。僕は先を促すように頷いた。
「私ね、作家になりたい。小さい頃からずっとなりたかったんだ。一度は忘れてしまったこともあったけど、今度は絶対に忘れない。そしてね、……きっと叶えてみせるよ、ピエロさん」
それはまるで、ここにはいない誰かに向けられた言葉のようだった。
「希理」
不意に、後ろから名前を呼ばれた。
「お前、今ちょっとこっち来られる?」
同じ演劇部に所属している、月島だった。彼は僕の隣にいた彼女の姿を見て、「おっ」と、それはもういい獲物を見つけた狐のような表情を浮かべた。これはあとで部員総出でネタにされるな、と僕は小さく舌打ちをする。
『別に大丈夫だけど。――すいません、僕はちょっとあっちに行きますけど、』
「ああ、うん、分かった。ごめん、仕事の邪魔をしちゃったね。客引き頑張って、ピエロさん」
彼女は慌てて頷くと、あ、と何かを思い出したような表情を浮かべて、持っていた下げカバンから二冊の冊子を取り出した。
「私、文芸部なの。我が部は文化祭の為に文芸誌を発行しました。どうか受け取ってください」
殊勝な言葉とは裏腹に、彼女の顔には有無を言わせぬ笑顔が張り付いていた。もはや選択の余地は見受けられないといった様子で、二人揃って文芸誌を受け取る。
「……お互い大変だけど、頑張ろうね。じゃあ、」
あの、と僕は唇を動かしかけて、踵を返した彼女の肩を慌てて叩いた。彼女は振り向いて、僕の言葉を待ってくれた。
『叶えてください、あなたの夢。僕もきっと、いつか、どこかで、追いつきますから』
「なーに言ってたの、さっき」
階段を登りながら、月島が僕に言った。それもにやつきながらだ。
『何だっていいだろ』
「またまたあ」
あっ、と、僕は口を開く。持っていたメモを奪われたのだ。
「『叶えてください、あなたのゆ』……いてっ! ちょ、あーぶないって!」
月島の腕を乱暴に掴んで、メモを取り戻す。僕は素早くメモをたたむと、ポケットに押し込んだ。
「いいじゃん、ちょっとくらい。減るもんじゃあるまいし」
これで僕はしばらく自由に喋れなくなってしまうが、月島なら唇の動きを呼んでくれるから特に問題はない。
全く筆談というのは、言ったことが全て残ってしまうから気が気じゃない。
――そうか、あなたはピエロだもんね。
最後に声を出して話したのは、もう何ヶ月も前のことだ。
ピエロは喋らない、というあるセオリーがある。意外と知られていないことが多いのだが、彼女はどうやら知っていたようで助かった。
実は、彼女にした話には続きがある。
卒業式を終えて自宅に帰ったあと。僕は曲がり角で友達と別れて、名前も知らない在校生にもらった花束を指先で弄びながら歩いていた。そうして、立ち止まる。
家の前に、彼――猫村颯汰が立っていたのだ。
「なあ、キリ」
ある時彼が僕に言った。
「おまえ、将来なりたいもんとかある?」
突然の問いに、僕は戸惑ってしまう。そうして、迷った。なぜなら、僕にはその時既になりたいと強く願うものがあったから。それをこの一番親しいと思える友人に言いたいと思う気持ちもあったし、言わないほうがいいのではという不安もあった。
「聞いても、颯汰絶対に笑わないって誓えるか?」
「おう。任せといて」
僕はしばらく考え込んだ。颯汰はちょっと調子がよくて、ひょうきんで、なかなか噂好きなやつだ。でも気が利いて、約束は絶対に守るし、誠実で素直なところがある。何より僕たちはきっと、親友と言える程度の仲であるはずだった。
「……役者。役者に、僕はなりたい」
思い切って言ってしまうと、随分とそれは軽薄なもののように思えた。途端に恥ずかしくなって、僕はぎゅっと唇を噛んでうつむいた。
「へえ、かっこいいな! すごいじゃん!」
弾けるような彼の声に、僕は顔を上げた。目をきらきらさせた颯汰が、僕の目を覗き込んで興奮気味に言った。
「お前ならなれるよ、役者! むかつくけど見た目いいし、声もいいし……うん、なれる。絶対なれるよ。おれが保証してやる。んでもって、俺がファン一号になるよ」
こっちが恥ずかしくなってしまうほどの勢いで、颯汰はそうまくし立てた。でも僕の心はそれだけでうんと軽くなって、嬉しくなった。
「……ありがと」
「いいなー。そっか、キリにはなりたいもんがあるんだな。おれにはまだ、ないんだ。うらやましい」
「颯汰には、なれるものがたくさんあると思うけど」
「またまたあ。それになれるかどうかじゃなくて、なりたいかどうかが肝心なんだよ」
その、少し後だ。僕が先輩にいじめられるようになったのは。
階段を登りきると、右側に演劇部の部室がある。その隣の教室で、『グランドピエロ』が上演されているはずだ。
『何? なんか用事?』
月島はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべると、僕の背中をばしんと叩いた。
「お前に会いたいって人がいるんだ。何でもさ、『ファン一号』だってよ。お前、何度かセリフのない役で出たことあったもんなぁ。なんだろ、お前、空気とか作るのうまいしな」
月島の言葉は、半分以上耳に入ってこなかった。
『月島、それって、男、女』
「あーっ、きたよ、キリちゃん!」
先輩の声が聞こえた。部室からちょっと顔を覗かせて、中の誰かに声を飛ばしている。
「やだ、似合ってるじゃん! 私のイメージ通りの『ゆめ喰いピエロ』!」
先輩は僕の姿を見て黄色い声を上げた。僕はふと彼女の話を思い出して、先輩に首を傾げてみせる。
「ああ、昔あたしが好きだった小説にね、ゆめ喰いピエロっていうのが出てくるの。それをイメージして、もう徹夜で作ったんだから! ……あ、じゃなくてキリちゃん、ほら、あの子だよ。お面取って」
部室から二人の男子が出てきて、僕はどきりとする。僕たちは違う高校に進学した。彼が少し遠い場所にある高校を選んだのだ。
「――希理、」
颯汰だった。少し色素の薄い髪も、はにかむような笑顔も、少しも変わってはいない。フード付きの黒いパーカーを着ていた。後ろに、少し大人びた男の人の姿もあった。こちらはすこぶる無表情で、僕をじっと見つめている。きっと颯汰の友達だろう。
あの日、卒業式の日の夕暮れ、颯汰に言われた言葉が、未だに耳に残っている。
彼は一言も僕を責めなかった。それどころか、とても優しい笑顔を浮かべて僕に話しかけた。
「おれ、ちょっと遠い高校に行くんだ」
僕は何も言えない。何を言ったらいいのか判らなかった。
「だけどおれ、ずっとお前の味方だからな。ずっと、お前のことを応援してる。おれはお前の親友だから」
親友だから。
目を伏せて言われた言葉に、僕はこれ以上ないくらいに胸が痛んだ。
まだ、そんなことを言ってくれるのか。僕は颯汰に、あんなにもひどい裏切りをしたっていうのに……。
そうして彼は、一生忘れられないような笑みを浮かべ、言ったのだ。
「なあ、叶えろよ、お前のゆめ。俺もいつか、どこかで、追いつくから」
ごめん、といえばよかったのか、ありがとう、と言ったらよかったのか。判らなかった。何も言えなかった。だから、僕に声なんかいらない。そう強く思ってしまった。親友に思ったことも伝えられない僕に、声なんか……。
そうして気づいた時には、僕は本当に声を出せなくなっていた。ストレスによる失声症だと言われた。精神的なものだから、ある日突然また声が戻るでしょうと呑気に告げられたまま、数ヶ月が過ぎている。
今、目の前にまた、颯汰が立っている。
今度こそ僕は彼に告げなければならない。ごめん、も、ありがとう、も。
僕はひとつ息を吸い、吐くと、口を開いた。
これは初出です。年に一度発行する学校公式の文芸誌に載せようとして、自らボツにしたものです。理由は…確かちょっと長すぎたからかな?
大学の文化祭に遊びに行った時に、女の人とピエロの格好をした男の人が筆談している様子を見て「いいな……(危険)」と思って書きました。