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旺伝は苦悩していた。どうすればサーモンの美味しさを他の者に伝えられるのだと。次第にサーモンを頬張っていくうちに涙がこぼれる。それはあまりにも自然に流れたので、旺伝もしばらくは不思議に感じなかったのだが、トリプルディーに注意される事でようやく自分が涙を流している事を理解した。
「玖雅さん。目に涙を浮かべてどうしたのですか?」
トリプルディーはそう言いながら首を傾げていた。
「あれ……なんで俺泣いてるんだろう」
若干涙声になりながら、裾で涙を拭きとる。
「旺伝さん。貴方のサーモン愛が伝わってきました」
「そうか。それならいいんだ」
旺伝は悲しかった。世の中にはサーモンが嫌いな若者もいるという事実がサーモンは誰からも愛される食べ物でなくてはいけないと思っていただけにそれが根本から覆されたのが旺伝の心に雲を作った。
「サーモンの事は忘れて、マグロでも食べましょう」
「駄目だ。俺はこいつの味が忘れられない。一度味わったらサーモン以外の寿司ネタでは我慢できないだろう!」
「だろうと言われましても……」
トリプルディーもサーモン好きだが、旺伝程ではないようだ。
「そうか……どうやらこの熱い気持ちを分かってくれる奴はいなさそうだな」
旺伝は溜め息と共に項垂れた。
「だったらサーモンの有り難さを皆に教えましょうか?」
彼は途方もない事を言っていた。確かにそれが出来れば苦労しないが、そもそもどうやって皆にサーモンの有り難さを知ってもらうのか。旺伝にとってはそこが問題だった。
「ちょい待てよ。どうやってそんな事教えるんだ」
すると、トリプルディーが近寄ってきたと思うと耳元で何か囁き始めた。彼の低くて冷たい声は心まで震えあがりそうだ。
「私達がサーモンを買い占めるのです」
「なんだって! サーモンを買い占める!?」
旺伝は思わず大きな声を出してしまった。すると彼は旺伝の口を塞いだと思うと、右手で人差し指を立てて、こう言っていた。
「ひとまず、ここは寿司を食べる事に集中しましょう。話はその後という事で」
旺伝が勢いよく首を縦に振ると彼はようやく口を自由にさせてくれた。
「はあ……やっと喋れる」
「何がやっとですか。急に大声を出して」
トリプルディーはマグロを食べながらブツブツと文句を言っていた。
「だってお前が突拍子も無い事を言い始めるから」
「それは会社に戻ってから説明致します。この場所ではとても離せないので」
「分かったよ」
そう言いながら、再びサーモンにありつく旺伝だ。
「しかしマグロも美味いですよ。脂が乗っていて」
「美味いだろうな。だが、マグロはサーモンの下位互換だぞ」
旺伝はそうだと言うのだった。マグロとサーモン、どっちを食べるか選べるとしたら間違いなくサーモンを選ぶのだと。旺伝のサーモン愛はその領域にまで達しているのだ。恐るべき、旺伝のサーモン愛。
「同じネタばっかり食べていて良く飽きませんね。もはや尊敬に値しますよ」
眼鏡をクィッとあげる動作はもはやお馴染みだった。
「どういたしまして」
旺伝はモグモグと口を動かしながらそう言うのだった。
「この寿司屋のサーモンを失くさんばかりの勢いじゃないですか」
もはやそこまでだと言うのだ。旺伝の食べるスピードは尋常なく早く、サーモンを1人前を平気でペロリと完食する。完食するまでの時間は5分程度か。それぐらい、旺伝は食べるスピードが速いのだ。やはり人間は好物の食べ物を用意されると歯止めが効かないらしく、今の旺伝はもはやマシーンのように寿司を口の中に入れている。それだけ本能が好きだと感じているのだろう。でなければ、こんな芸当は出来ない。
「それぐらい仕事にも熱心ならば良いのですが」
思わず、トリプルディーは皮肉を言わざる終えなかった。




