071
こうして、ラファエルと何とか連絡を取れそうな二人だったが、それ以外にも当然仕事はたくさんある。旺伝はほとんどトリプルディーの指示に従っているだけで問題無いのだが、正式に新卒で採用された新人社員は泡を吹きそうな勢いで仕事に追われているではないか。それもそのはず。この社員は今日会議に使う資料を制作しているのだから。しかもこの会議には会社の重役が集まる。それは勿論社長であるトリプルディーも例外ではない。
社長が目を通す資料なだけに新人社員にとってミスは許されないという気持ちがあるのだろう。寝不足の黒い眼をゴシゴシと擦って、パソコンと格闘しているのだ。それを見ていると何だか可哀想な気分になった旺伝は、差し入れとばかりに缶ジュースを購入してデスクの上に置いた。
「大変そうだな。新入社員君」
旺伝は彼に労いの言葉をかけた。すると、彼は振り返りざまに「ありがとうございます」と言って缶ジュースを受け取ると、再びパソコンに向かってキーボードを叩いていた。
「そうですね。退勤時間が着々と進んでいますので」
パソコンの時計を見てみると時刻は17時32分だ。
「この部署は18時に退勤するのか?」
「ええ。普段はどこの部署も18時退勤ですよ。今日は会議があるのでそうじゃありませんが」
だからこそ急いでいると言うのだ。
「だが会議は19時に始まる筈だぞ。まだ1時間以上も残っているし、残業すればいいじゃないか」
旺伝はそう尋ねるのだが、新入社員は首を横に振りながらキーボードを叩いた。そして口も開く。
「それが……クライノート社は残業禁止なんですよ」
「残業禁止? 珍しいな」
「ええ。だから18時までに全ての仕事を終わらせないと大変なんですよ」
残業が出来ないという事実で、この男は相当疲労困憊のようだ。
「大変って……どう大変なんだ?」
具体的な事が分からなかったので、旺伝は尋ねた。
「仕事が出来ないという事で、クビが待っています」
「そうなのか。それは確かに大変だな」
同意して、静かに頷く。
「少しぐらいは大目に見てくれますけど、長く続くとクビだそうです。契約書を渡された時に上司から言われました」
「残業が無いのも、それなりにプレッシャーになるんだな」
「本当ですよ。こっちも生活がかかってますからね」
「こういうのもなんだが、やっぱり正社員は縛られているな」
「そうですか?」
だが、この男にはその自覚がないようだ。すでに会社に出勤して仕事をするという生活サイクルが人生に組み込まれているからだろう。ところが旺伝は最近まで高校生だったので働くという行為にすら慣れていない状態である。
「自由を犠牲にして会社のために尽くしているのか」
「いいえ、自由を犠牲にしてお金を稼いでいるだけです」
「だったら他の会社でも良かっただろう。こんな必死に仕事する必要はあるのか?」
「なにしろ、この会社は給料がいいですからね」
そう、この男は自由よりも金欲しさに仕事をしているのだ。金がたくさん手に入るのなら、少々の苦労は水に流そうという気持ちのようである。
「成程、自由よりもお金が優先的なのか」
「僕みたいな働き蟻に余裕な時間はいりませんよ。働いて金を稼ぐ、それだけです」
「そうだな。働くことは大事だ」
その点については旺伝も同意見だ。働くことで人格が形成されて大人に近づくのだから。
「旺伝さんは秘書を続けないのですか?」
「三か月契約だからな。すぐにやめるさ」
それが旺伝が結んだ契約ないようだった。借金を返済すれば、もうこの会社では二度と働くつもりはないという意思表示の現れ。
「もったいない。クライノート社のブランドを捨てるなんて」
やはり考え方は人によって違う。
「他人のブランドにしがみつくより、俺は自分のブランドで闊歩したい」
それが旺伝の考えだったのだ。




