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いつだって本調子を維持するのは難しいとばかりに玖雅旺伝は石段に苦労していた。今回に限っては何のストレスも感じていない。会社員とは名ばかりの奴隷生活を送っていた日々とは比べ物にならない程の痛みだ。この程度の疲労感など唾をつけとけば治ると昔の人みたいに意気込むのは簡単である。ところが人間は一度慢性を覚えてしまうと、いつまでたってもぬるま湯に浸かりたくなる性質を持っている。昨日だってそうだ。昨日はアホみたいに高級料理を堪能したせいで庶民としての感覚に多いな狂いが生じていた。玖雅旺伝は間違いなく貧乏の分類に属している。正社員時代には給料だって発生していないので目標なぞ何も無かった。若者をこき使い、自分だけ楽しようとする老害の元でせっせと働き、働いている者が怒られれ、働かない者が好評化を受ける社会の縮図を嫌という程味わってきた。若者が如何に不遇な存在であるかは経験しているので、この程度の疲労感など本来は平気な筈だ。しかし、長期間に及ぶリフレッシュ休暇を貰ってしまっては天狗になるのは無理も無い。ラストラッシュから頂いた経費を使って「少しぐらいの贅沢なら問題ないか」と軽視してしまったのだ。それぐらい、ラストラッシュから貰った金額は貧乏人が腰を砕けてワナワナと震えだす金額だったのだ。結局、人間は金に魅入られてはお終いだ。旺伝の周りにはローン返済を待ってくださいと電話越しに訴えている新入社員が存在していた。彼等も旺伝と同様の貧乏人には間違いないが、金の無い者が一度でも大金を手にしてしまうと、それだけで葛藤してしまう。例えば株で儲けたり宝くじに当たったり、暇つぶしに書いていた小説がたまたま大手出版社の目に止まって公式的に連載がスタートしてその結果読者の間から好評価を得て「続編を書きましょう、先生」と言われるがままに続編を書くと読者アンケートからも分かるような支持を得てアニメ化を催促され実際にアニメ化するとアニ豚から「続きがきになるブヒー!」と声が聞こえてくるぐらい書籍が売れて大量の金が入ってくるとか、多々あるが人間には大金を掴むチャンスが無数に存在している。どんな貧乏人にもチャンスはあるのだから人生は何が起こるか予想できない。目の前に歩いている不格好の人間が大富豪の可能性だってあるのだから見た目では判断不能である。旺伝もこれまでに何度も大金を手に入れるチャンスはあったが、悉く見限っていた。危ない話しばかりだったからだ。危険な真似をして逮捕された日には人生から転落するに決まっている。なので旺伝は石段から転落しないように手すりに掴まったまま下を見下ろしていた。何段も何段も登ってきたので地上が遥か先に見える。高所恐怖症の旺伝はゾッとした表情を浮かべながらも何とか自我を保とうと深呼吸をするのだった。