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山を登る時には手加減などいらない。旺伝はそう思いながら本気で脚を動かしてはいるのだが、どうにも前に進まない。具体的に言えば進んではいるのだが、さっきから同じ場所をひたすら上がっているような気がして疲労感が蓄積していた。どんなに登っても終わりが見えないのだ。さすがの旺伝も終わりの見えないゴールには愛想が尽きてしまう。休憩所と思しき空間を見つけると、まるでオアシスを見つけたかのように満面の笑みを浮かべながらベンチに座った。当たり前だが人間には休憩が必要なのである。旺伝は水筒の蓋を開けると、喜び勇んでグビグビと喉をかき鳴らして水を飲む。隣に座っているハリティーもほとんど同じモーションで同時に水を飲んでいるではないか。なんだかんだ言ってお互いに共通点はあるのだ。どんな人間にも優しい心は持っている。中には人を見殺しにするような冷血な悪魔もいるが、そんなのはごくまれである。組織の中に一人いるかいないかのレベルである。そういう人間は社会不適合者とみなされるから組織に採用されるなど有り得ない。だが、人を見る目の無い人間が採用者となっている場合は別である。自分の手腕によって適性テストをパスし、入ってくるものを拒まずに採用する人間はいる。そういう組織には決まって死にかけている人間を平気で見殺しにする性格の持ち主がいる。日頃から周りに気を配って気を付けないと、首を落とされなけない。殺人が違法化されているからと言って安心は出来ない。なぜなら殺人事件は毎年頻繁に起こっているからだ。それも日本だけではなく世界中で。その事実を頭に叩き込みながら旺伝とハリティーは水を飲んでいるのであろう。きっとそうである。
「うわあああ。最高だぜ水って奴は。しかもここから見える風景が水の旨味を最大限に生かしている感じがするな」
旺伝はそうだと言うのだ。疲労感が蓄積された中で絶景を見ながら水を飲むのは格別なのだと。確かにその通りである。空腹は最高のスパイスを言われているが、実は疲労感も最高のスパイスに属しているのだ。だから仕事から帰って腹を空かせて御飯を食べるのが美味だと言える。休みの日にダラダラしながらゲームや漫画をして家に引きこもっていると、御飯の味がまるで違う事に気が付く筈だ。規則正しい生活がもたらすメリットを知るためには、敢えて徹夜をして寝不足になって趣味に没頭するのも一種の手である。不規則な生活で趣味に徹底した時と、規則正しい生活で仕事に徹底した時の疲労感の差は歴然なのだから。旺伝も昔は不規則な生活を強いられて寝る時間と起きる時間がバラバラというとんでもない生活習慣を過ごしていた。漫画家や記者などの特殊職業ならまだ理解可能だが、以前の旺伝は自営業だった。言うならば一人親方である。そういう意味ではれっきとした社会人の職に就いて毎日同じ時間に起きれるのは幸福と言っても良いかもしれない。