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ダニーボーイが第二秘書になった事で、旺伝の仕事の負担は減った。だが、それと同時にラストラッシュと触れ合う時間も減っていた。今まで仲良くとまではいかないが、それなりに会話を重ねていた間柄にも関わらず、すっかりダニーボーイに居場所を取られてしまった。なぜならば、旺伝よりもダニーボーイの方が圧倒的に仕事のスピードが速く、仕事を終わらせた後に雑談を交わす余裕があるからだ。一方の旺伝は仕事の効率が極めて悪いので、話している暇など無い。それにより、ラストラッシュと話す機会が徐々に失われていた。さすがに、今まで楽しく話していた相手が他の人に夢中になっていると、いかに旺伝と言えどムッとくる場面もあるのだ。しかも相手は最近仕事を始めたばかりのペーペーだから余計に胸に突き刺さる。
ここまで、人間関係が嫉妬発生装置だとは旺伝も予想にしていなかった。大して思い入れの無いラストラッシュでさえ、奪われると寂しい気持ちが芽生えるのだから。そんな旺伝は気持ちを落ち着かせようと、一旦席に立ち、二人が話し込んでいる近くを素通りして、ポットの場所まで歩いた。お湯を入れて薬を飲もうと思ったのだ。
旺伝が良く飲んでいる薬は普通の精神安定剤じゃない。悪魔の呪いに詳しい専門医に作ってもらった薬だ。その精神安定剤が入っている瓶をポケットの中から取ったのだが、ここで思いもよらない事態が発生する。
「な……無い」
そう、瓶の中には錠剤一つありゃしない。完全に空っぽだったのだ。しばらく空の瓶を呆然と見ていると、それを不思議に思ったのかラストラッシュが話しかけてきた。
「どうかしたのですか?」
と言いながら、ラストラッシュが顔を覗きこんできた。すると隣にはダニーボーイもちゃっかりとついてきていた。こうして男三人が一斉に空の瓶を見ているのは、あまりにも寂しいものである。
「最悪だ……薬が無い」
さすがの旺伝も落ち込んでいた。何故空っぽになるまで気が付かなかったのか自分の愚かさもそうだが、それ以上に薬を買いに行くのが嫌だった。それは金の問題ではなく、薬を提供してくれる医者に問題があった。
「だったら買えばいいじゃないですか。それぐらいのお金なら私が出してあげますよ」
「金の問題じゃねえ。こいつはコミュニケーションの問題だ」
「何を言っているのでしょうか?」
ラストラッシュは理解が追いついていないようで、首を傾げていた。
「この薬を提供してくれる奴は一人しかいねえ。その医者が厄介なんだよ」
「厄介とは……すなわち危険を意味するな」
ここで、ダニーボーイが地の底に沈んでいるかのような低い声を出してきた。相変わらず声だけで展開の流れを変える男である。こんな人間は滅多にいない・
「まあ、確かにそうかもな」
旺伝自身も何かしらの危険を感じているぐらいなのだ。
「君の身体に何かあっては困る。私が護衛しよう」
ネクタイを締め直しながら、彼はそう言っていた。だが、旺伝にとってはこれ以上厄介事が増えて欲しくないという気持ちでいっぱいなので首を扇風機のようにブンブンと横に振りながら必死に否定していた。
「い、いいよ別に。俺は一人で大丈夫だからさ、そこの金髪眼鏡と休憩してていいぞ」
ラストラッシュを横目で見ながら、一人で行きたいという意志を訴えていた。
「君には拒否権は無い。私の意見はすなわちボスの意見と同等なのだから」
お得意の一言が出た。こうなればもう話しは終わりである。
「……分かったよ。勝手にしてくれ」
こう言うしかない。
「ああ。そうさせてもらう」
かくして、旺伝とダニーボーイは担当医が根城を構えている場所に移動した。そこは碩大区でもスラム化一歩寸前と呼ばれている程の犯罪通りであり、厳つい集団がチラホラと見える。こんな場所に病院を立てるのが不思議なぐらいだ。確かに怪我人は頻繁に送られてきそうだが、わざわざこんなフキダメに店を構えるのはよっぽどの変人である。実際、変人だったのだが。
「くそ、俺はこのエリアも嫌いなんだよな」
一言で言うとナンセンスだからだ。
「本当にこの場所に医者は住んでいるのか?」
路地裏も路地裏、野良猫の糞やクモの糸がぶら下がっている汚い場所を、二人は通っていた。周りの家にはスプレーで落書きされた後があり、ガラスも割れている。どう見ても人は住んでいない様子だ。
ところが、そんな周りの中でひときわ大きい建物が二人の前に現れた。だらしなくぶら下がっている看板には徳山病院と書かれているではないか。
「ここだ」
「ここか」
二人は同時に空を見上げながら、病院のくたびれた外観を眼に写したのだった。




