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翌日、旺伝は社長室のデスクでキーボードを叩いていた。何気ない日常が戻ってきたと言えばそれで終わりかもしれないが、あまりにも退屈過ぎるこの日常は旺伝にとっては苦痛と同じだった。外を見るとサラリーマンやギャルなどのありふれた人々が流れるように移動している。皆、目標を持って移動しているのだろうが、そうとは感じられなかった。まるで工場のベルトコンバインのように作業化されているように見えて仕方がない。ただ当たり前の毎日を来る日も来る日も過ごしていく作業。そこには何の価値も見いだせない。少なくとも、旺伝はそう考えていた。
しかし、そんな日常にも少なからず変化は訪れていく。変化は微々たるものだがやがてそれは大きな変化になっていく。そう期待せざる終えなかった。なぜならば希望の無い毎日には未来も無いからだ。人は快楽によって刺激される生き物であり、刺激を求める生物でもある。すこしでも刺激が無いと人間は生きていけない仕組みになっている。やはり、死とは退屈だと思った瞬間に近づいてくるものであると、旺伝は感じている。それでこそ外見に変化は見られないが、心が老いていく気持ちが芽生えていた。それはまさしく退屈だと思った瞬間から感じていた。『この感情を拭去らなければ栄光ある未来など訪れない』。ただでさえ、昨日は白熱と例えられる程の戦闘をこなしたのだ。仕事とのギャップで退屈を感じてしまうのも無理はないだろう。だからこそ、旺伝は次なる刺激を求めて気持ちを膨らませるしかない。
それこそ、次なる悪魔との対決だった。目撃情報こそ少ないが必ず期限以内に悪魔を探し出して今度こそ生きたまま雇い主の元に献上する。それが今の旺伝を支える唯一の希望だった。だが、それもたった一つの出来事で揺れ動いてしまった。人は心の変化を求める生き物だと言ったが、変化は一つだけでいい。もしも二つ三つと増えてしまうと心が不安になってしまうからだ。そういう意味では、心の変化は一種のアルコール衝動と良く似ている。
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旺伝は苦悩していた。それも昨日の出来事だけではなく、今日起こった出来事についてもだ。旺伝が必死にキーボードと睨めっこしていると、横から恐ろしい速さでタイピングしている男が見える。その男は一切手元を見ずに画面だけを見ながらキーボードを打っている。最近パソコンに触れてようやく慣れ始めた旺伝には到底真似できない芸当である。そんな訳で、隣の男とは仕事の効率やスピードも段違いであり、旺伝が企画書の1ページ目を作成した頃には、もう隣の男は辞書程の分厚さを誇る企画書を手にして、社長の元へと歩いていた。
「ラストラッシュ殿。完成した」
まるでマシーンのような冷たい声で、彼は言っていた。そして目の前には社長椅子に座っているラストラッシュが興味津々な顔で企画書を受け取ると、両手を上に挙げて静かに拍手をしていた。
「素晴らしい。スピードも企画内容も完璧ではありませんか」
まさに完璧だと言うのだ。旺伝は一ヶ月近く彼の元で秘書の仕事をしているが、彼の口から完璧という二文字を聞いたのは一度たりともない。それなのに、目の前に立っている黒服の男はラストラッシュの口から「完璧」の言葉を出させた。それも入社一日目のペーペー新人であるにも関わらずだ。
「私は全てにおいて完璧ではないと気が済まない性質でね。そこにいる軟弱者とは訳が違う」
さすがの旺伝も、この言葉には怒りを覚えて席を立つと顔をプルプルと震わせながらこう言った。
「こんにゃろう……ちょっとばかり仕事が出来るからっていい気になりやがって」
「私を侮辱する言葉は、雇い主への不服と同等だぞ」
彼の一言は相変わらず旺伝の心を複雑骨折させる。決して怒鳴り散らして相手を屈服させようという魂胆では無く、相手の弱点を狙ったかのように確実にスナイプしてくる。まさに言霊の狙撃手という二つ名が彼には相応しかった。
「相変わらず口が強いな……ダニーボーイさんよ」
そう、ダニーボーイもラストラッシュの第二の秘書として雇われたのだ。彼は旺伝が悪魔の身柄を確保するまで、自ら命を絶つような真似をしないようにとボスから護衛の命令が下されていた。だから24時間休みなく旺伝は彼に監視されている身である。その間、何もしないのは時間の無駄だと感じたのか、ダニーボーイは自らラストラッシュの秘書になる事を志願して今に至るという訳だ。




