贋作師
土埃や濃い霧で視界さえ濁る町外れ。鉛のように鬱々とした空気が漂い、辺りは浮浪者で溢れている。
喰うか喰われるか、若しくは道端で独り野たれ死ぬか。
そんな情景さえ日常茶飯事なそこは、貴族で賑わう華やかな街と同じ世界にあるということすら信じがたい場所だった。
そんな地獄を模したようなそこに、その絵師はいた。
目を見張るような技術をもつと、ある方面では知る人ぞ知るその絵描き。
しかし、〝ある方面〟でしか名を売れない理由があった。
その絵師とは、贋作描きのみを生業とする、贋作師なのである。
そんな風に密かに名を売る贋作師さえ、そこに住む他の連中と変わり映えはしなかった。
汗と埃にまみれながら、濁った世界の底に、ぐたりと身を沈る以外に術は無い。
その淀んだ世界に、不意に鮮やかに瑞々しい風が吹き込んだ。
トン、トン、と、リズムの良い軽やかな足音が地に木霊する。
こんな活力のある音を、今まで聞いたことがあっただろうか。
贋作師は藍を刷いていたそのカンバスから、珍しくも視線を移した。
その目前で、こんな場所には似合わないような、可愛らしいドレスが優雅にはためく。
こちらを見下ろしているその小振りな人物の背から太陽が差していて、やけに眩しい。
その光を纏うように立つ姿が天使のようだと、思った。
その美しさに頓着せずに吹く砂ぼこりの無粋さに、思わず顔をしかめた。
太陽を見たのなんて、一体何時振りだろう。
今までずっと、ずっと手元か足元をみていたことに気が付いた。
そして天使は口を開く。
「絵を描いてるの?」
ここにいて、返事を要求されるような言葉を掛けられるなど、ほんとうに稀なことである。
喉がぱりぱりに張り付いて、咄嗟に返答ができなかったことに口のきき方を忘れてしまったのかと、ぞっとした。人間とは、あまりにも一人でいすぎると人であることをだんだん止めていってしまうのだろうか。
天使は、返事が無いことを不思議に思ったのか、問うように不思議そうな目を向けてきた。
あ…とやっと掠れた低い声が出る。
申し訳程度に唾をのみ込んだ。
気持ち喉を落ち着かせ、口を薄く開く。
「………ああ」
天使は贋作師の小汚さなど気にした風もなく、その綺麗な装いに包まれた清潔な顔を寄せ、手元を覗き込んできた。
贋作師はその近さに、緊張した手がぴくりと痙攣するのを感じた。
心なし、身を引いて距離を取る。
「これは、海の絵?海、見たことがあるの?」
「…ないよ」
今度は幾分か楽に声が出た。
「じゃあ、なんで絵が描けるの?」
「海を描いた絵を見て描いているからだ」
「絵を?」
また目を丸くして、不思議そうに見上げてくるその表情を見て
贋作師はその顔に仄暗い笑みを湛える。
「贋作師なのだよ、わたしは」
天使はレナと名乗った。
何が面白いのか、レナはそれから度々贋作師のもとを訪れては、日傘を弄びながらじいっと絵筆が滑るのを見つめるようになった。
そして贋作師が筆を置いたり、肩の凝りをほぐすタイミングで他愛もない話を振ってくる。
おかげで、贋作師の舌は自分でも驚く程なめらかな動きができるようになった。
穢れのなさそうな無邪気さを見せながら興味津々に贋作師を見守るレナの後ろで、護衛のような大男が辺りに視線を配っているのが常だったが、その切れそうなほど鋭い眼で睨みを効かせ、黒々と焼けた肌の下に、見るからに硬そうな筋肉を持っている男を、怖い等と思わないほどには、贋作師はこの世界に麻痺していた。
何時もはくるくると目を動かしながら、絵を描く作業を邪魔しないようにしているのに、レナは不意に色付け作業中の贋作師に問いをぶつけた。
「なんでこんなに綺麗なものをつくるのに、偽物しかつくらないの?本物よりも綺麗なものをつくったとしても偽っている以上、偽物は偽物。あなた自身の本物を、どうして作ろうとしないの?」
「お嬢さん、君は本当に純粋だね。目に見えることの通りに何もかもを考える。まるで出来立ての硝子みたいだ。なんにも傷が無くて、その綺麗な目を通して見たら、きっと世界中が歪みなく正しい姿をしているんだろうね。私の見える世界はどうしようもなく歪んでしまっているんだよ」
白い帆布に鈍色をべとりと乗せる。
「きっと芸術家は綺麗な目を持たないとなれないのさ。綺麗な目をもつ絵描きの作品を借りて、私もその世界を覗き見る。それでなにもかもが満足だ」
かたりと、贋作師は絵筆を置いた。
「お嬢さん、もうここに来るのはお止め。ここは君みたいな人間がくるところではないからね」
「どうして?」
「私は贋作師だよ。ろくでもない野郎だ。そんな奴がいる場所なんて、ろくでもない場所に決まっているだろう?それに私はもうここに来れなくなるかもしれないからね」
手で日傘を弄ぶのを止め、レナはじっと贋作師をみつめた。
「どこかへ行くの?」
「行くよ。パトロンが見つかったからね」
「パトロン?」
「そうだよ。私は人間だから生きるために色んなものが必要だ。そのためにはお金がいる。そのひとのために贋作を作ってお金を貰うんだよ。そしたら、しばらく私の身は安全だ」
天使は、ゆっくりと二度、瞬きをした。
「その人はいい人?」
「おやおや、かわいいお嬢さん。さっき私が言ったことを聞いていなかったのかな?ここに巣食う人間のことを教えてあげたはずだがね。もちろん、ろくでもない人間さ」
目をまんまるくした顔を見て、贋作師は笑った。
「ほうら、歪んでいるだろう?」
それからの日々はやっぱり思った通り、ろくでもない日々だった。
一日中質素な部屋に閉じ込められて、幾枚もの偽の絵を描かされる。
でも、絵筆に触れていれば。自分にはきっと一生見ることができない景色を描くことができるなら。
それで良かった。良かったはずなのに。
目の前がぼんやりと霞がかったようにはっきりしない。濃い霧の海を彷徨っているようだ。
止むことの無い鈍い痛みが頭をえぐる。
ここに来て何日が経ったのか数えることなどしていなかったが、そんなことには端から興味は無い。
ただ、真冬だった頃の切るような寒さが和らぐ兆しを見せたことには人知れず安堵した。
そんな暖かな早朝を見せたその日、なぜか何処となく外が賑やかしかった。
働くのを拒否するように動きの鈍い贋作師の頭が異変を察知したのだから、実際はかなりの騒ぎである。
しかし、贋作師はゆるゆると絵を描き進める以外には何も行動しなかった。
不意に、壊れそうなほど酷い音をたてながら勢いよく扉が開いた。
今度は一体どのような絵を描けと言うのか。
しかし、よほど金になりそうな絵らしい。いつにもまして、動きに落ち着きがない。
眉間の当たりにかたまる鈍痛に顔をしかめながら、顔をあげると、そこにあの忌々しいいかにも 銅臭にまみれた顔はなかった。
そこにあるのは、大きなぱちりとした目を持つ、涼やかな顔。
「…みつけた…」
呟くように聞こえた声は幻聴か。
贋作師は、ぼんやりと、前に立つ影を見上げ、無意識に口を開いた。
「ああ、いつかのお嬢さん」
右手に大振りな剣を持ち、だぶだぶとした白いシャツを身に羽織り、いつかとは全く違う擦り切れたぼろを纏うその影は、しかしいつかと同じように目をまん丸にした。
あのときと同じだな。
贋作師は笑おうとしたが、ただ唇の端が引き攣っただけだった。
嗚呼、笑い方を忘れたな。贋作師は何の感慨もなくそう思った。
その顔を見て、久しぶりに会った〝天使〟が痛ましそうに顔を歪めるのを、ぼうっと見守る。
「ごめんね、来るのが遅くなった」
そう搾り出す言葉を聞いても尚も離さなかった筆が手から取り上げられ、勝手に筆入れに仕舞われた。
「行こう。一緒に、大きな世界を観に行こうよ。僕が、見せてあげるから」
「…世界?」
贋作師の世界はあの濁った場所から始まり、そこで終わっている。
どこかに違う景色があるなんて、もう到底信じられなかった。
「でないとあなたはここの歪みには耐えられない」
歪み。
今まで見てきた何よりも、まともな存在に見える相手に向かって唇を少し釣り上げた。
耐えられないなどと、人から言われるまでもなくわかっている。もう既に気狂いかもしれない。
自身でさえ目を塞ぎたくなる、そこを他人に覗き込まれるのはたまらなく惨めだった。
だからそこから相手の目を逸らそうと話を折った。
「似合ってるよ。それが君の歪みがない姿だね」
相手はじれったそうに、早口で言葉を返す。
「分かってたんでしょ?僕が〝お嬢さん〟なんかじゃないってこと。自慢じゃないけど、今まで見破られたことなかったんだけどさ」
最初から、贋作師の目に映る天使は少女を装った少年だった。
性別を偽る姿はいかにも歪形でありながら、自身の瞳は一点の曇りすらない。そのいびつさはひどく新鮮に映った。
それに、あんなところで歪みを論っていたらきりがない。所詮、皆が訳ありだ。
痛い腹は探らない。それが、互いの為だろう。
相手がその姿を偽りたいと思っているのなら、騙されてやるのが一番良い。
「あなたは綺麗な目を持ってるよ。なんで、僕が女の子じゃないとわかったの?なんでそれを知っていながら、お嬢さんと呼んでくれてたの?ドレスを着て、性別を偽っていた僕の正体が僕たちの会話を聞いた誰かに知られてしまわないようにでしょ?きっとあなたは察してくれた。少女に身を偽らなければならない事情が僕にあったことを。」
なんて真っ直ぐなのかと、目を細めた。
今は彼の背に太陽は無いのに、その姿を見上げる贋作師は何故だか眩暈がした。それは光に目が眩むのに似ている。
「あなたは純粋すぎて屹度この世界はあなたには辛い。あなたが歪んでいるんじゃない。世界が歪んでいるんだよ。抜け出そう。あなたの描く絵みたいに綺麗な場所を観に行こう」
霧が、晴れ渡るように引いた気がした。
お前は正常だと。どこも変じゃないと。その言葉が呪文のように体の中を巡っていく。
「レナード!!」と、何処からか野太い叫び声が聞こえた。
「今行く!!」と、剣を振りかざし、だらしなく服を着崩した天使が叫び返す。
「レナ…」
何時だったか教わった名を口にすると、彼はにっこりと笑い返した。
「ねえ、名前を教えて」
彼は汚れた手を自身のズボンで拭い、贋作師に手を差し伸べる。
「あなたの名前を呼ばせてほしい」
恐る恐る、手を出して良いのか胸の辺りで手を迷わせる。
レナードはその手を、ずいと手を伸ばしてがしりと掴み、力強く、引き上げた。
やっとほっとしたため息とともに、声が落ちた。
永い間、忘れていたその言葉。
しかしそれは、まるで呼ばれるのを待っていたかのようにそこに居た。
「ミチカだよ」
それを聞いた彼はドレス姿のときの無邪気ながらも楚々とした笑みとは異なる、白い歯を覗かせた笑顔を見せながら、はっきりとその言葉を繰り返す。
「ミチカ」
ひっそりと、その時一つの名がこの世から消えることになった。
「贋作師」と、もうだれもその人を呼ぶものは無い。
笑い方を忘れたその名が眠る土の上で空を見上げるのはミチカという、一人の女であった。
その後、金の卵もとい、金を産む贋作を描くミチカには屋敷の主から追手がかかった。
がたいの良い男たちに囲まれて、走り続けた彼らが着いたのは潮の匂いがけぶるように風に乗る海。
そこはミチカが頭のなかに描いていたものより何十倍も美しかった。
匂いも、色も、音さえも、何もかもが生きている。
碧い碧い水の上に、瞬いている光はカンバスにはどうやって描いたらいいだろう。
まるで別世界のような情景に目を奪われる彼女を、レナードは海のようにきらきらと晴れやかに笑いながら見つめた。
そして彼は自分の仲間の待つ船へと合図を送る。
髑髏をその帆に掲げるその船は、紛うことなき海賊船だ。
どこかぼうっとしたままのミチカが、レナードに手を引かれ晴れて海賊の仲間入りを果たしたのは、また別のお話。
いつか機会があればこの二人の続きとか、レナちゃんの話とか書いてみたいです^^