Episode 1-8 =漆黒(やみ)=
しばらく何の連絡もなく執筆を中断し、申し訳ありませんでした。また、よろしくお願い致します。
朝。
それは、いついかなる場合においても訪れる。
例え戦争が起ころうと、人間による深刻な環境破壊が起ころうと関係ない。 今を生きる人々は、朝の訪れによって生きている事を実感し、未来を生きる想いを強めているのだ。ましてや今日は、雲ひとつない快晴。「生」を実感するのに、これほど適した空模様はないだろう。
ルイス住民たちは朝の訪れに感謝と喜びを抱き、今日も町は賑わっている。
ただ一つ、喫茶店「Paradox」を除いては。
「なぁお嬢ちゃん……まだ怒ってんのか?」
罰の悪そうな顔でそう言うのは、この喫茶店の居候、曽根崎虚。
彼は今、カウンター席に座り、隣に座っている少女、ルイと話している。
いや、「話している」と言うには語弊があるかもしれない。
何故なら、ルイは彼の言葉に一切答える事なく、体中から「怒りのオーラ」をこれでもかと放っているだけなのだから。
店内にい2、3人の客たちは時折チラチラと二人の方を見つめ、チェシャ猫とマナは顔を見合わせて苦笑している。
事の原因は当然、昨日の出来事だ。
「約束破っちまって悪かったよ。この通りだ。
だから機嫌直してくれよ、な?」
懇願する虚。だがやはり、ルイが返答する気配はない。
若干眉を吊り上げ、そっぽを向くように虚の逆方向をじっと見つめている。
つい数十分前まではチェシャ猫やマナと普通に会話していたルイだったが、虚が起きてくるとあからさまに不機嫌になってしまい、この状態になってしまったのだ。
それから虚による謝罪が30分間ほぼノンストップで行われて来たが、
ルイがここまで怒りを露にするのは、かなり珍しい事だ。
普段機嫌を損ねる事はあっても、2、3言文句を言って終わるパターンが多いが、今回は違う。もうかれこれ30分ほどこのやり取りが続いている。
まわりの者たちも、さすがにもう呆れるしかない。
その時、ルイの溜息を漏らす音が、Paradoxに小さく響く。
ようやく許してくれたのか、と虚が内心安堵していると、
「……チェシャ、私部屋に戻ってるから」
「え? あ、あぁ……」
素っ気なく言い放ち、隣の虚には目もくれないまま、ルイは二階へと上がって行ってしまった。
これはどうやら、本格的に怒り狂っているらしい。
虚が溜息交じりに首を落とすのを、チェシャ猫はグラスの水滴を拭き取りながら、憐みに満ちた瞳で見つめる。
「……どうすんだ虚」
そう問うてくるチェシャ猫に、虚は困り切った表情を、チェシャ猫へと向けた。
今まで碌に人と付き合って来なかった虚にとって、ここまであからさまな嫌われ方をしたのは初めての事だ。
そんな彼に、今の状況をどうにかしろと言われても無理な話である。
「どうすんだって言われてもな……こっちが聞きたいくらいだ」
「何かルイが好きなものでもプレゼントしてみるとか?」
「さすがに物で釣るってのはな……」
人間としてやってはいけない事の様な気がする、と虚は直感的に思う。
だがそうだとすれば、一体何をすればいいのだろうか。
未だかつて、ルイが本気で怒った所を、虚は見たことがない。
いや、虚だけじゃなくチェシャ猫やマナだって、そんな姿を見た事は無いだろう。
ルイとの約束を破った事に関しては、全体的に自分が悪い。弁解の余地もない。それは認める。
だが、それでどうすれば良いのだろうか。
悪い事をした。それで相手が怒っている。だから謝る。だが、謝っても相手は許してくれない。
だったらどうすれば、相手は機嫌を直してくれるのだろうか。
その術を、虚は知らなかったのだ。
「あーくそ! 俺は一体どうすりゃ良いんだよ!」
突然の虚の叫び声に、客たちはビクリと肩を震わせた。
全世界の魔術師たちが、世界にその名を轟かせる「道化師」が一人の少女の機嫌を直そうと試行錯誤する姿を見たら、一体どう思うだろうか。
シャーリーは呆れ、おそらくライトは笑いの大爆発を起こすだろう。
そんな彼を見て、マナはくすくすと笑って見せた。
「何笑ってんだよ。こっちは真剣に悩んでるってのに」
嘲り笑われている様で少しムッとしたのか、虚の口調は心なしか強い。
だが、マナは柔らかな態度を崩さなかった。
「ごめんなさい。でも……お二人は本当に仲が良いんだなぁと思って」
「? そう見えるか?」
思いも寄らない返答に、虚は目を丸くする。
この冷戦状態の何処がそう見えるのだろうか。喧嘩するほど仲がいいとは言っても、これはあまりにも行き過ぎている気がする。
「えぇ、そう見えます。それにルイちゃんは多分、虚さんを嫌いになんてなってませんよ」
そう言うマナの表情、声色は優しく、まるで我が子を諭す母の様だった。
「多分ルイちゃんは、虚さんが約束を破った事はもう怒ってないと思います」
「じゃあ何で……」
「それはきっと、虚さんが自分を置いて一人で危険な事をしてるって思ったからなんじゃないでしょうか」
これには、虚も言葉を詰まらせるしかなかった。
「昨日の昼、統率機構の人が来た時に、ルイちゃん凄く心配そうな顔をしてました。
それからずっと『虚大丈夫かな』『虚大丈夫かな』って、何度も何度も私や店長に問い続けてたんですよ?」
虚は目を見開き、チェシャ猫を見る。
チェシャ猫は黙って、首を上下に軽く動かした。
「その度に『心配ない』って言い聞かせてたんだけどな。
今日の朝に『昨日の夜に帰って来た』って話したら、アイツどうしたと思う?」
虚は黙って首を横に振り、次の言葉を待った。
「満面の笑みで笑うんだよ、ルイの奴。あんな晴れやかな表情したルイは初めて見たぜ」
知らなかった。自分がそんなに心配されていたなんて。
普段顔に出さないのでわからないが、ルイは虚を心の底から信頼し、同時に心配しているのだ。
だからこそ、自分に事件の事を話してくれなかった事が、堪らなかったのだろう。
まるで―――――
「自分が虚さんに信頼されて無いみたいだって、思ったんじゃないかと、私は思います」
虚は思わず、右手で自分の髪をかき回した。
家族だ何だと言っておいて、自分は結局ルイの想いに応えられていなかったのだ。
今ほど、自分の無能を嘆いたことはない。
「虚さんは殺魔師と戦ったり、矢で狙われたりしてるのに、自分は何も出来ない。何一つ虚さんにしてやれない。
そんな劣等感も、あったんだと思います」
マナは怒る様子もなく、あくまでも優しく、虚に言う。
「……つくづくダメな男だな、俺は」
「ハハ、そうだな」
「お前が言うなチェシャ」
悪態を付きながらも、虚はやんわりとほほ笑んだ。
それを見て、マナも一層笑みを深める。
「今のルイちゃんは、虚さんから何を言ってもダメだと思います。素直になれないでしょうから。
だから、虚さんはしばらくルイちゃんから離れていた方が良いですよ」
「じゃあ、そうさせてもらうかな」
ガラッと音を立てて、虚は席を立つ。
「いってらっしゃい」
「気を付けてな。お前を狙う奴が、まだいるかも分からん」
「あぁ、分かってるよ」
ひらひらと二人に手を振り、虚は店を後にした。
チェシャ猫とマナは、しばし虚がいなくなった扉を見つめた後、仕事に戻る。
「店長。私ちょっと、ルイちゃんの所に行ってきてもいいですか?」
「そうだな……今はちょうど店も空いてるし、良いだろう」
快諾してくれたチェシャ猫にマナは「ありがとうございます」と微笑み、トントンと静かに階段を鳴らしていく。
「アイツも世話焼きだな……」
「マスター、コーヒーもう一杯」
「あいよ」
客の声にチェシャは応え、コーヒー豆を手に取った。
■ □ ■ □
一方。ルイはと言うと、自室のベッドの上で、抱き枕を抱えて座っていた。
彼女の脳裏を過るのは、先ほど部屋に戻す前に見た、虚の困り果てた表情だった。
ズキリ、と胸が痛む感覚に襲われながら、ルイは更に強い力で枕を抱きしめ、少し目を伏せる。
「……虚のバカ」
ポツリと呟かれた言葉は、誰にも届く事なく空気の中へと溶けていく。
その時、コンコンとドアをノックする音が響いた。
ルイは反射的に肩を震わせ、扉の方へと振り返る。
「ルイちゃん? 私。入ってもいい」
「あ……うん、どうぞ」
若干声のトーンを落とし、ルイが告げる。
直後、お邪魔します、という声と共に桃髪の少女、マナの姿が目に入った。
マナはルイの姿を確認すると、いつもの柔和な笑みを浮かべる。
「もしかして、虚さんかと思ったの?」
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるマナの問いに、ルイは目を見開く。
「別に……そんな事ない」
しばし戸惑いを見せた後そう言うと、ルイはふいっと視線を外してしまった。
マナはルイの隣に腰掛けると、頑なに目を背ける彼女の顔をのぞく。
「虚さん、散歩いっちゃったよ?」
「っ、そ、そう……別に、虚が何しようと、私には関係ない」
強がってはいるが、ルイの顔が一瞬悲嘆に染まったのを、マナは見逃してはいなかった。
「ルイちゃんも、意地張るの良くないよ?」
「べ、別に意地なんか」
「嘘」
ルイの言葉を、マナは真っ向から否定する。
「顔に書いてあるもの。『本当は虚と仲直りしたい』って」
ルイは、口を真一文字に結んだ。
反論が漏れる事はない。何故なら、ルイ自身が一番よく分かってたのだから。
マナが言った事が、まぎれもない事実である事を。
「虚さんが心配なのは、すっごく分かるよ。私だってそうだもん。
でも虚さんだって、ルイちゃんを信頼してないわけじゃないの。むしろ、ルイちゃんの事を心から心配してるから、黙ってたんじゃないかな」
「それは……分かってる……けど……」
ルイは枕を傍らに置き、スカートの裾をぎゅっと握った。
まだ。素直になりきれない自分がいる。虚に対して頑なに心を閉ざし続ける自分が。
「私、虚に酷い事しちゃったから……もう虚、私の事嫌いになっちゃったかも」
それは今日、初めてルイの口から洩れた「弱音」だった。
本当は虚が無事だった事が何よりも嬉しいのに、それを認めないで冷たい態度をとって、それで虚に嫌われて……。
自業自得な事など、自分が一番よく分かっている。
でも、それでも、ルイは虚に嫌われたくなかった。それは彼女にとって、一番の苦痛なのだから。
そんなルイの様子を見て、マナは顔を彼女から遠ざけ、ふぅ、と息を吐く。
「……じゃあルイちゃんは、このままずっと虚さんと仲直り出来ないままで良いの?」
「っ、そんなの嫌!」
目を見開き、マナを凝視してルイは否定するために叫んだ。
ルイがここまで感情的になるのも珍しい。ルイ自身、今の自分の叫声に内心驚いたほどだ。
「だったら、ちゃんと謝って、虚さんと仲直りしよ?」
「でも……」
「大丈夫」
不安がるルイの手の上に、マナはそっと自分の手を重ねた。
マナから伝わってくる暖かな温もりに、ルイは心地よさを覚えた。
「虚さんだって、ルイちゃんと仲直りしたいって思ってるよ。
今はルイちゃんが怒ってると思って散歩に行っちゃったけど、帰って来たら、ちゃんとルイちゃんと話したいと思ってる。だから、不安に思わないで?」
マナの優しい問いかけに、ルイはコクリ、と一つ頷いた。
「ん、良い子良い子」
太陽の様な笑みを浮かべ、マナはルイの頭をさらさらと撫でる。
ルイはそんな彼女の姿に、ある一つの想像を抱いていた。
もし自分に母親がいたら、マナの様な人だったのだろうか、と。
■ □ ■ □
「あ、ライトさん。お疲れ様です」
一人の青い軍服を着た女性が、廊下をこちら側に歩み寄ってくる男、ライト=レグノックに頭を下げた。
ライトは通り際に微笑み、「おぅ、お疲れさん」と返す。
IMCS取調室。
特戦部隊統率者である彼がこんな所に立ち寄るなど、滅多にない事だった。
だが今日は、ライトは「ある一件の事件」が気になり、ここに立ち寄った。それは、昨晩のシャーリーとの会話に挙がった、「ルナ=ラスノール」の事件だ。
直後、「0701-B」と書かれた看板を目にし、ライトは足を止める。
そしてそのまま、ドアノブ式の扉をがちゃりと無造作に開き、中に入る。
そこは豆電球のみがオレンジ色の光を灯している小部屋で、マジックミラー越しの隣では、今まさにルナ=ラスノールの尋問が行われていた。
「そろそろ白状したらどうだ? お前ももう限界だろう」
男性の諜報部隊隊員の言葉に、ルナは応えるそぶりを見せない。
腕と足を組み、目線を彼から外している。
その時、バン! と音を立てて男性隊員が立ち上がる。
「いい加減にしろ! お前の裏に違法魔術師がいる事は分かってんだよ!」
「おー怖い怖い、どうやら穏やかじゃない現状みたいだねぇ……」
目を丸くしてわざとらしく呟くと、ライトはマジックミラーの前に立って部屋を見つめる女性に声をかけた。
「おぅ、シャーリー。お疲れさん」
ライトに名を呼ばれた女性、シャーリー=ローレライは彼に目を向け、軽く会釈をする。
「お疲れ様です。珍しいですね、アナタがこんな所に来るなんて」
「んー? いや、少しとはいえ、一度関わっちまった事件だからねぇ。
それで現状は……って、聞くまでもないみたいだねぇ」
ミラーの奥を除くライトに続き、シャーリーも視線をそちらへ向ける。
「えぇもう今日だけで2時間近く尋問を行っていますが、未だに応える気配はありません」
「強情な女だねぇ……誰かさんみたいだ」
「……燃やしますよ?」
目を細め、こちらを睨みつけるシャーリーに、ライトは「怖い怖い」と言って笑った。
しばらく彼の笑みを睨んだ後、疲れ切った様に溜息を吐く。
「仕方ありませんね……クロウ」
「――――此処に」
シャーリーの声と共に、天井から声が降ってくる。
天井をしばし見つめると、シャーリーはポツリと、こう告げた。
「……お願いします」
クロウはしばし黙った後、
「――――御意」
と呟き、気配を天井から消した。
かと思えば、今度は取調室の片隅に、彼の姿が現れた。
それを確認した男性隊員は一つ会釈をすると、取調室を後にする。
「へぇ、クロウを使うのかぃ?」
心底驚いた様に、ライトが問う。
シャーリーは首肯し、窓の淵に手をかけ、中を見つめた。
「クロウにも負担が掛かりますから、あまり使いたくは無かったのですが……致し方ありません」
淡々とした口調だったが、その中にはクロウへの謝罪の色がみえていたように、ライトは感じた。
「……今度は貴様か」
クロウの姿を睨みつけながら、ルナは呟く様に吐き捨てる。
それに答える気もなく、クロウはルナの傍らまで歩み寄っていく。
「誰であろうと同じだ。私は何も知ら―――――っ!?」
ルナの言葉は、そこで遮られた。
クロウが突然右手でルナの顎を掴み、強引に自分と目を合わせさせたのだ。
「な、何を……」
そう問いかけて、ルナは言葉を呑んだ。
宙を舞う漆黒の羽衣が、クロウの体を纏っていたからだ。
これが、シャーリーの奥の手。
この世界でクロウのみが持っている、勝率100%を誇る尋問術。
「――――答えろ。貴様の裏で糸を引いている者は誰だ」
クロウの低く、闇から直接こちらに問う様な声が、ルナの鼓膜を震わせた。
「だ、だから私は何も――――」
「――――答えろ」
震えるルナの声を意にも介さず、クロウは問う。
ルナの体からは汗が流れ落ち、彼女の全身を濡らしていく。
彼女の瞳に映るのは恐怖と、そしてクロウの全てを闇で覆い尽くしてしまう様な漆黒の双球と、彼を包む羽衣だけだった。
徐々に、ルナは崩落していく。
無意識にクロウの腕を掴んでいた自身の手は滑り落ち、だらんと地面に垂れてしまう。
全身の力が、彼女から抜けていく。
彼女の中に残っているのは、「彼の問いに答えなければならない」という義務にも似た感情だけだった。
そんなルナに、クロウは追い打ちをかける様に言う。
「――――答えろ」
刹那、ルナの震える唇がかすかに動き、そして――――
「……分か、り……まし、た……」
ルナは、堕ちた。
彼女の意地も、力も、プライドも――――全てを無と帰す闇の前に。