Episode 1-4 =魔を喰らう十字架=
「支配者様、ローレライです」
シャーリーの淡々とした声が響き渡る。
その右手には、先ほどの携帯電話が握られていた。
通話の相手は、今彼女が口にした通り。
彼女の上司であり、世界のトップに君臨する少女「支配者」である。
「あら、シャーリーから私に連絡して来るとは珍しいですね。という事は……」
少女の声は、どこか嬉々とした雰囲気をまとっていた。
シャーリーはそんな彼女の態度に若干の不快感を覚えつつも、現在の状況を述べる。
「現在、道化師と殺魔師が接触しました。おそらくは戦闘に入るのではないかと」
当然、と言えば当然の事だ。
道化師と他の魔術師、それも違法魔術師が出会ったとなれば、戦闘に発展しないわけがない。
おそらくシャーリーから連絡が入ったという時点で、支配者もそれに気付いていたのだろう。
相づちを打つことも無く、ただ黙ってそれを聞いていた支配者だったが、やがて
「……そうですか」
そっけなく、そう告げた。
だが、シャーリーには感じ取る事が出来た。
この少女は、喜んでいる。
本来違法魔術師を取り締まる事を使命とする統率機構の総帥が、戦いが起こった事に喜んでいる。
そんな事は許される事ではない。否、許されてはいけない。
だが、彼女が支配者となって3年間で、どん底まで堕ちていた世界の治安状況が少しずつ、けれど確実に良くなっているのも確かだ。
つくづく、わけの分からない人だとシャーリーは思う。
一体彼女が何を考えているのか、知りたくないわけではない。
だが、今は優先すべき事がある。
「どうします? 介入しますか?」
「……いいえ」
間髪入れずに支配者は答え、シャーリーは少し訝しがる。
「そのまま監視を続けてください。くれぐれも、手を出さない様に……いいですね?」
有無を言わせぬ、支配者の口調。
シャーリーはしばし沈黙し、やがて目を伏せ、答えた。
「分かりました、監視を続けます。では、また」
「ええ、お願いしますね」
支配者の答えを最後まで聞く事なく、シャーリーは乱暴な動作で携帯を切った。
そして再び、彼女の蒼く澄んだ瞳の先でいがみ合う道化師と殺魔師を見つめた。
■ □ ■ □
張り詰めた空気、という日本独特の表現がある。
今、道化師と殺魔師の間を流れる空気を表すのに、これほど適した言葉は無いだろう。
いや、もはや張り詰めると言うより、空間ごと引きちぎれてしまいそうだった。
隙を見せずに、殺気をぶつけ合う二人。
先に動いたのは――――
「行くぞ、道化師」
殺魔師だった。
殺気を放つ身体から、また別の力があふれ出すのを、虚は感じた。
直後、殺魔師は虚に突きつけた右手を握り締める。
そしてそのまま、その拳で地を殴りつけた。
虚は一瞬目を見開き、思い切り地を蹴った。
殺魔師に向かった、のでは無い。
今しがた立っていた場所から、バックステップで飛び退いたのだ。
刹那――――虚の視界を、地より現れし「何か」が阻んだ。
地に脚を付け、虚は視界を塞いだものを見据えた。
それは、岩で出来た巨大な柱だった。
虚の痩躯より遥かに太く大きく、先端は五本に枝分かれしている。
虚は感づく。それは、柱ではない。
巨大な岩の……「拳」だった。
「……召還魔術か?」
刹那―――
「はぁっ!」
虚の声を掻き消す様な声が、室内に響き渡った。
殺魔師が岩陰から飛び出し、虚へとその拳を向けたのだ。
虚は目を細め、両手でその拳を受け止める。
ガゴン! という普通ではありえない音が響き、余波が空気を揺らした。
(っ、何て重さだよ)
およそ目の前の少女から飛び出したものとは思えない一撃だった。
殺魔師は殺気を抑える事なく、至近距離から虚を見つめる。
常人ならば、それだけで卒倒してしまいそうな、そんな雰囲気を纏っていた。
(魔術だけじゃなく、体術まで習得してるってか)
まだ一撃しか見ていないが、それだけで虚には彼女の強さが見て取れた。
魔術が主体となった今、体術を習得する者がそういないのが現状だ。
しかし彼女の場合、数十年前の体術全盛の時代でも十分通用するようなそれを誇っている。
おそらく統率機構のブラック・リストの中でもS級の違法魔術師だろう。
だが虚は、そんな彼女を前にして笑みを浮かべていた。
寝癖の目立つ茶髪と満月色の瞳を見据え、告げる。
「近くで見ると、意外と可愛らしい顔してるじゃねぇか」
軽口に、殺魔師は目を細めた。
心なしか、殺気がさらに激しく暴れだした気がする。
だが、虚はなお余裕だ。
「是非、名前を聞きたいね」
「これから死に行く者に名乗る名など……無い」
殺魔師は空いている左手をわずかに動かす。
虚は、それを見逃さない。
再び地より現る岩の手に押しつぶされる直前、虚はそれを交わした。
だが、殺魔師は手を緩めない。
滑らかな調子で、彼女は腕を振った。
すると、室内のいたる所より無数の腕が現れ、虚へと襲い掛かる。通常、召還魔術は「魔法陣」と呼ばれる魔術特有の陣を描く事で発動する。つまり、この部屋全体に殺魔師によって魔法陣が描かれているという事になる。
「……っ」
虚は小さく舌打ちをして、軽やかな足取りでそれをかわしていく。
一撃で人間を押しつぶしてしまいそうな巨大な腕の大群。
だが、どれ一つとして虚を捕らえる事は無い。
流れる様な身体裁きで、虚はすべてのそれをかわしている。
そんな彼に、再び殺魔師が脚を振るって来る。
目を細めて虚はそれをかわし、距離を取る様に後ろにはねた。
殺魔師はある程度の距離が取られると足を止め、右手を振るい、腕を召還する。
だがやはり、虚を捕らえる事は出来なかった。
一定の距離を取り、再びにらみ合う二人。
(明らかに短期戦で済ませようとしてるな。このまま避け続けるのも有りだが……)
フ、と虚は笑って見せた。
思い出されるのは、先ほどルイと結んだ「約束」。
『すぐ帰るから』
自身の言った言葉が、頭の中で反芻する。
「……何を笑っている」
小さくも鋭い殺魔師の声が、虚を突き刺さんと彼女の口から飛び出す。
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。何か急に笑いが込み上げて来てさ」
虚は軽い調子で、その刃を受け流した。
しばしクスクスと笑うと、紅の瞳を殺魔師へ向けた。
「アンタ、随分強ぇな……誰に体術なんて教わったんだ?」
「貴様には関係ない」
あからさまに不機嫌な様子で、殺魔師は言う。
「じゃあ、ひとつ聞かせてくんねぇか。アンタ……何のために戦ってんだ?」
虚の問いに、殺魔師はわずかにその表情を歪めた。
「……理由など、無い。私は……主の命に従う。ただ、それだけだ」
主。
それが誰なのかは、虚にわかる筈もない。
だが、彼女にとってはそれが絶対であり、彼女の存在意義でもあったのだ。
虚は殺魔師をしばし見つめ、
「――――つまらねぇ女だな、お前」
さらりと、こうはき捨てる。
そして、ちょうど右手の甲を殺魔師に向ける様に開いた。
するとその掌に、蒼く輝く紋章の様なものが浮かび上がる。
少し驚いた様に目を見開く殺魔師を、虚は先ほどとは比べ物にならない殺気を込めた瞳で見つめた。
「興醒めだ……悪いが、この辺で終わらせてもらうぞ」
地を行くような低い声。明らかな敵意。そして静かな「怒り」。
(何だ? さっきまでと雰囲気が――――)
内心に浮かんだ殺魔師の疑問を無視するように、虚はその右手を壁に叩きつけた。
掌の紋章が壁に転移した様に、壁に巨大な魔法陣が描き出される。
虚はそれを一瞬見つめると、その魔法陣に右腕を突っ込んだ。
そしてそのまま、刀を鞘から抜くように、右腕を引っ張り出す。
手に握られているのは、漆黒に塗られた、十字架を象った剣だった。
殺魔師は、直感でその十字架の危険を察知した。
右手をを振るい、無数の腕で殺魔師を押しつぶさんとする。
壁、地、天井、すべてより飛び出す無数の腕が、虚の体を囲んでいく。
普通ならば、もう圧力によりぺちゃんこになっているだろう。
だが、ここに誤算がひとつあった。
「曽根崎虚」は――――普通ではなかったのだ。
直後、岩の腕による壁は、木っ端微塵に砕かれた。
原因は、一つしかない。
虚が内側から砕いたのだ。
そしてそのまま、虚は十字架を手に殺魔師に向かっていく。
殺魔師は向かえうつため、身構えた。虚の動きは素早いものだったが、付いていけない速さではない。冷静に対処すれば、一撃食らわせられる。
だが――――虚の行動は、彼女の予想の斜め上を行くものだった。
身構える殺魔師を無視する様に、虚は彼女を通り過ぎたのだ。
一瞬の呆然。
しかしすぐ、殺魔師は虚の考えを理解する事になる。
だが、もう遅い。
既に虚は十字架を振りかぶり、それを地面へ深々と突き刺していた。
それが何を意味するのか、殺魔師には痛いほどわかっていた。
彼女の心を表す様に、岩の腕が音を立てて崩れ落ちていく。
虚はゆっくりと上唇を吊り上げ、十字架を地より抜き出す。
「やっぱ……ここが元か」
召還魔術は魔法陣を描く事で発動する。
だが、当然その魔法陣の発動するにも、力が必要る。
それは大方の場合は、術者の魔力だ。
だが、それでは術者が魔法陣への魔力供給に力を使ってしまい、自分は隙だらけとなってしまう。
殺魔師が体術を繰り出してきた時点で、虚はその可能性を排除していた。
となれば、残る手は一つ。
全ての魔法陣へ魔力を供給する元を、この部屋のどこかに埋め込むのだ。
自分の魔力をその元を仲介として魔法陣へ送る事になり、そしてそれは無意識の内に行われる。
彼女が魔術でなく体術を主体としたのは、魔術を主体としては、魔力が徐々に消費していくこの方法では分が悪かったからだ。
そして、もう一つ。
「アンタ、この辺りから動こうとしなかったろ? それはおそらく、無意識に元から一定の距離をとらない様にしてたんじゃないのか?」
つまり、「缶けりの鬼」と同様の心理だ。
缶けりの鬼は隠れている者を探す時、缶からあまり一定内の距離しか取ろうとしない。
「缶を守ろう」という本能が無意識に働くからだ。
しかも彼女は、人が立ち入らない廃ビルからルイを狙い、迷彩魔術まで発動し、万が一の場合を想定して、部屋中に魔法陣を敷くような用心深い人間だ。
「だが今回は……その本能が仇になったな」
「っ!」
殺魔師は拳を構えて振り返る。まだ魔法陣が破られただけだ。負けた訳ではない。
体術ならば誰にも遅れを取らない自信もあるし、ある程度の魔法攻撃にも対応出来る。
まだ、道化師と戦う術は残されている。
だが――――
「遅ぇなぁ……」
虚の声が、彼女の鼓膜を揺らす。
だが、目の前に彼の姿はない。
虚の姿があったのは―――――懐だった。
「……チェックメイトだ、殺魔師」
驚くほど澄んだ道化師の声と、自分の体が裂かれる感覚が、殺魔師を襲った。
「かはっ――――!」
小さく吐血し、殺魔師の体はゆっくりと地に吸い寄せられていく。
鈍い衝撃とひんやりとした地の感覚が、ゆっくりと殺魔師の感覚を侵食していく。
だがそれ以上に、今しがた道化師によって裂かれた傷が、激痛となって彼女を蝕んだ。
「ぐっ……」
必死に起きようとするが、力が入らない。
「無駄だぜ、殺魔師。しばらくは動けねぇよ」
虚の声を、辛うじて殺魔師の耳が拾う。
虚は、数メートル先で倒れている殺魔師に、やんわりと微笑んでみせた。
「お前みてぇな自分の戦う理由も見つけられねぇ奴は、俺には勝てねぇよ。
俺に勝ちたきゃ、ちゃんと自分で自分の戦う意義を見つけ出す事だな」
そこまで言うと、虚は十字架を右肩に担ぐ。
「さて、じゃあ洗いざらい話してもらうぜ、殺魔師。
アンタ……確かにさっき『主の命』だとか言ってたよな?」
殺魔師は答えない。
「誰なんだ? その主ってのは……」
追い討ちをかける様に問う虚だ。
だがやはり、殺魔師は答えない。
困った、という様に頭をかきながら、虚はため息を吐く。
その時だった。
「っ! うぐっ……」
うめき声と共に、殺魔師の瞳がこれ以上ない程に見開かれた。
直後、体が痙攣し、両手を首元へと運ぶ。
「がっ……あっ……」
搾り出すようなかすれた声が、殺魔師から漏れる。
同時に、一筋の唾液が彼女の口から一筋流れた。
顔は徐々に紅潮していき、目は瞳孔が開いていく。
「? どうし――――」
虚は思わず顔をしかめたが、やがて目を見開いた。
(まさか!?)
ある仮説が、虚の脳裏をよぎる。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
殺魔師の声より激しく、大きく、苦しげになっていく。
間違いない。
彼女は今、呼吸すら間々ならない状態にあるのだ。
ちょうど、首を閉められているのと同じ感覚。
呼吸が出来なくなった以上、この先にまっているのは、たった一つ。
「死」
その言葉が、恐怖となって殺魔師を襲う。
(わた……し……死ぬ……の……か……?)
殺魔師となった時、覚悟していた事だった。
だが直面した時のそれが、これほどまでに恐怖的なものだったのか。
殺魔師の瞳から、一筋の線路が敷かれた。
徐々に薄れていく意識。
(死に……たく……な……い……)
それは、今までに感じた事のない感覚だった。
だがそんな感情もむなしく、黒が意識を支配していく。
直後、バリン! というガラスが割れる様な音が響いた気がした。
そして音がした後、彼女の喉は再び空気を受け入れる。
「げほっ! げほっ!」
咳き込んだ後、殺魔師はゆっくりと息をしていく。
その後、薄れゆく彼女の視界が捕らえたのは、十字架剣の柄尻で自身の腹を抑えていた道化師だった。
「……何とか、間に合ったか」
意識を失った殺魔師の傍らに立った虚の声が、室内に小さく響く。
これでもう、命の危険は去っただろう。
あのままでは間違いなく、殺魔師は呼吸が止まったまま、絶望と恐怖に苛まれながら命を失っていただろう。
殺魔師に掛けられていたであろう魔術の力を、虚の十字架が喰らわなければ。
それが、答えだった。
至極簡単な答えだ。
それが、虚の持つ十字架の〝力〟なのだから。
『破壊の十字架』
魔術を喰らう、悪魔殺しの剣。
虚が破壊の十字架の切先を地に付けると、魔法陣が再び姿を現す。
破壊の十字架を押さえつける、唯一無二の鞘だ。
虚がその中に十字架を放り込むと、魔法陣はその姿をくらました。
倒れた殺魔師を見つめ、虚は目を細める。
(今の魔術は……だとしたら、かなり厄介だな)
思わず苦い顔をする虚。
気になる事は山ほどある。彼女の言う「主」とは誰なのか。
なぜ彼女をけしかけたのか。
そして、なぜルイを狙ったのか。
だが、いくら考えても、答えが出てくる事はない。
(情報が少なすぎるな)
イライラした様に、虚は髪を乱暴にかき回す。
しばらくそうした後手を下げ、ひとつため息を吐き、
「……で? お前はいつまでそこで見てるつもりだ?」
ぶっきらぼうにそう言った。
すると直後、部屋の入り口から、一人の女性が姿を現した。
青を基調としたミニスカート状の統率機構の軍服と黒い二ーソックスを身に纏い、瞳は少々切れ目で澄み渡った蒼色が特徴的だ。
胸元まで伸びた金髪は、所々内側にカールしている。
西洋系美人にも関わらず、どこか日本の大和撫子然としている。
「気付いていたのですか」
さらりと金髪を流しながら、女性は言う。
「ずっと付けてただろ? バレバレだっての」
「「付けていた」、という表現は的確ではありません。「監視していた」が適当です」
「どっちも同じだろ」
苦笑を浮かべる虚。
だがすぐにそれは、優しい笑みに変わった。
「久しぶりだな……姫さん」
「……その呼び方はやめて欲しいと言った筈です……私には『シャーリー=ローレライ』という名前があるので」
親しげな虚に対し、シャーリーは素っ気無く答えた。