Episode 2-6 =生命の魔法陣=
虚が資料館に向かって、じき2時間が経とうとしているParadoxでは、店内で一人、チェシャ猫がグラスを磨いていた。
だが、不意にその手を止め、ルイスから南の方角。ちょうど虚が向かった先へと視線を向ける。
「何だ? 何か今、俺にとって良くない事を企まれた気が……」
一人呟くチェシャ猫の声に答える者は、誰一人としていない。
気のせいか、と思いつつ、再びグラスを磨き始めた時。
「……まだ、起きてたの?」
高く、しかし抑揚の全くない少女の声が、チェシャ猫の耳に届いた。
ふとそちらを見れば、階段の中腹部からこちらを見下ろす少女、ルイと目が合う。
「お前こそ寝ないで良いのか? もう夜も遅い。子供は寝る時間だ」
「子供扱いしないで」
少しむくれた様子で言うと、階段を全て降り切ったルイは、チェシャ猫の前の椅子へ腰かける。
口ではそう言っていても、上瞼が少したれ気味なのを見ると、やはり眠い様だ。
「本当は寝てたんだけど、起きちゃった」
「何かあったのか?」
「ううん。ただ、ちょっと悪寒がして」
「…………お前もか」
これはいよいよ、虚が出所で間違いない様だ。と、チェシャ猫は一人思う。
「まぁ、起きてすぐ寝るのもあれだろう。何か飲むか?」
「じゃあ、ジュース」
「あいよ」
微笑み、チェシャ猫は今しがた吹き終えたグラスを置き、クーラーボックスからジュースを取り出す。
冷蔵庫が無くなった今、飲み物の保存方法はこれしかないのだ。戦好きにとっては知らないが、自分たち商人にとっては、つくづく優しくない時代に成ったものだ。
そんな思いに耽りつつ、チェシャ猫はグラス八分目までジュースを注いでいく。
「ほら、どうぞ」
「ありがと」
ぼそりと呟き、ルイはグラスを両手に持ち、少しずつ口内へと流し込んでいく。
チェシャ猫は、しばしその様子をぼーっと眺めていた。
グラスの半分ほどを飲み干した後、ルイは店内をきょろきょろと見回す。
「…………虚、まだ帰ってないの?」
「あぁ、そうだ。さっき統率機構の隊員が来てな。
『申し訳ありませんが、曽根崎様にはもうしばらく、こちらの任務にお手伝い頂きます』だそうだ」
それを聞いたルイの目は、もはや呆れを表していた。
「……また、面倒事に巻き込まれたの?」
「そうらしいな」
間髪入れずに返されたチェシャ猫の言葉に、ルイはしばし考え込む様に俯くと、やがて顔を上げた。
「……それって、一種の才能だと思うんだけど」
いつも通りの、か細く抑揚のない声で、ルイは淡々と言ってのける。
その返答に、一瞬面食らったチェシャ猫だったが、やがて微笑んだ。
「そうだな。最も、羨ましくも無ければ、アイツ自身も『そんな才能いらない』って言いそうだけど」
と言うより、チェシャ猫が虚にそんな事を言えば、間違いなく虚はチェシャ猫に一発お見舞いするだろう。『うるさい。大きなお世話だ』とでも付け加えて。
容易にその姿を想像できた二人は、顔を見合わせ、笑った。
本当に、ルイは良く笑うようになったと、その笑顔を見たチェシャ猫は思う。
3年前と比べれば、の話だが。
笑い止んだチェシャ猫は、再びジュースを体内に流し始めたルイを見つめた。
「……心配じゃないのか? 虚の事」
グラスを傾けていたルイの手が、止まる。
そして、ゆっくりと視線をチェシャ猫の優しい瞳へと上げた。
「どうして、そう思うの?」
「いや、お前が虚を誰より心配してるのは知ってる。だが、前のお前なら、『虚に会いに行く』とか駄々こねそうだしな。気に病んだなら謝るが」
「ううん、良いの。ちょっと意外な質問だっただけ」
「意外なのは、どっちかって言うと俺の方なんだけどな」
今の質問でもわかったと思うが、と付け加えると、チェシャ猫は閉口し、ルイの返答を待った。
「……虚の事は、心配。でも、大丈夫。虚は言ったもの。『私を置いて死んだりしない』って。
それだけで、私には十分だから」
無表情で言ってのけたルイだったが、その言葉の節々から、虚に対する信頼が、チェシャ猫にはひしひしと伝わっていた。
チェシャ猫はふわりと笑い、そうか、とだけ答える。
いつの間にか、ルイも随分と強くなったものだ。
「それに……」
グラスに残されたジュースの水面を見つめ、ルイは返答の続きを紡ぐ。
「虚を殺せる様な魔術師、心当たりないし」
「…………確かに」
その言葉に、チェシャ猫は無意識に答えていた。
あの曽根崎虚を殺せる魔術師がいるなら、一度拝んでみたいものだと。
■ □ ■ □
「っ、くしゅん!!」
「なんや道化師はん、風邪か?」
「かもな……何故か今日は、よくクシャミが出る日だ」
資料館の入口付近にある事務室で、虚は言う。
彼の対面のソファには、オズとシャーリーが座っていた。
先刻まで、この資料館のオーナーとその奥方、エリナがいたが、虚とオズ、シャーリーに対して死ぬほど礼を言った後、今は退出して、自室に戻っている。
その直前、虚はエリナに自分を魔法陣の守護に指名したのかを聞いたのだが、結局「何となく、アナタになら任せられる気がしただけですよ」とはぐらかされてしまった。
由愛の変装魔術の完成度を、虚は再確認した。なるほど、性格も完璧に模倣出来ていた様だ、と。
そして今は、オズとシャーリー、として彼らに呼び止められた虚のみが、資料館に残っている。
「それで? この事件の詳細ってのは、一体何だ?」
気を取り直した様に、虚が問う。
その問いに、オズは笑って答えた。
「道化師はんやったら薄々気付いてるちゃうかと思うけど、今回の事件の中心にあるあの魔法陣、ただの魔法陣ちゃうんや」
「天下の大魔術師、ルイス=ミクレールの自作魔法陣だったか?」
虚の返答に、オズは意外そうな表情を見せる。
「何や、もうそこまで知ってんのかいな」
「あぁ、由愛が言ってたからな」
由愛。
その単語を聞いたオズは、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「今日会っていきなり名前呼びなんて、あの子と随分仲良うなったみたいやな」
その言葉に、シャーリーが反応を示した。
まるで敵を見る様な目で、睨み付けている―――――――虚を。
「別にそんなんじゃねぇよ。ただ、桜井って呼ぶよりそっちの方が言いやすいだけ……って、なんで姫さんは怒ってんだ」
「怒ってなどいません!」
急に怒鳴られ、虚は訳が分からない、と言った風に目を丸くした。
それを傍から見ているオズは、おかしそうにクスクスと笑っている。
「道化師はんも、まだまだ『乙女心』が分かってないみたいやなぁ」
「はぁ?」
「シャドウエッジさん! そんな話をするために、彼を呼び止めたのでは無いでしょう!」
眉を吊り上げるシャーリーに、オズはケラケラと笑って見せた。
「おーこわ。お姫様に首掻っ切られんうちに、続き話そか。
道化師はんが言った通り、あれはルイス=ミクレールが自作した魔法陣。強大な魔力を秘めとんのは一目瞭然やけど、使用方法も用途も一切不明。
アレを統率機構で預からんと、一資料館に飾ってあるんも、それが原因の一つや」
「なるほどね」
適当に相槌を打つと、虚は続きを促す。
「せやけどアレを狙うゆう事は、由愛かもしくは、裏で糸を弾いとる人間が、その使用方法、もしくは用途を『何らかの方法』で知った可能性がある。
ここまでは、虚はんも推測出来とる所やと思うけど」
「あぁ、大体はな」
その返答に、オズは満足そうにうなずくと、シャーリーの方を見やる。
すると今度はシャーリーが、オズの話を続けた。
「その魔法陣なのですが……クロウに調査して頂いた結果、用途は不明ですが、使用方法に関しては、一つ判明した事があります」
虚は思わず、前かがみになる。
口では面倒くさいと言っていても、一度関わってしまった事には、最後まで全力になるのが虚の性質だ。
それを確認し、オズは満足そうに笑い、シャーリーは一泊おいて続ける。
「どうやらあの魔法陣は、『対象物』を用いる事で効力を発揮する類の魔法陣の様です」
「……召喚魔術では無いんだな?」
「えぇ、その可能性も考慮し、試験もしてみましたが、結局作動はしませんでした。
そこで、道化師。アナタに聞きたい事があります」
虚は怪訝そうに眉をひそめ、シャーリーを見つめる。
「今回、最もあの魔法陣の近くにいたのは、アナタですよね?
何か感じた事はありませんでしたか?」
「感じた事……ねぇ」
考え込む虚を、シャーリーとオズは黙視する。
魔術に関しての虚の勘の鋭さは、他の魔術師と一線を画すものがある。普通の魔術師では気付かない様な事でも、彼は気付いてしまう。
その点を見込んでの質問だった。
「………強いて言うなら」
伏せていた顔を上げ、虚は二人を一瞥し、答える。
「あの魔法陣からは、強い『生命の力』を感じだ」
「生命の力……?」
オズが、首をひねる。
魔法陣は、術者の力を陣という形で、媒体に、今回の場合は掛け軸に埋め込んだものだ。
その作者、つまりはルイス=ミクレールの生命の力を感じた、という事だろうか。
その点を突いてみたが、虚は首を横に振る。
「確かにそれも感じだ。だが、ルイス=ミクレールの力とはまた別の、何か『強大な生命力』を、あの魔法陣は持っていた様に思う。つまり、これは俺の推測だが……」
一泊間を置くと、虚は自身が推測する、あの魔法陣の『使い道』を二人に示す。
「姫さんの話と合わせると、あの魔法陣は、『対象物に生命エネルギーを宿す力』を秘めている可能性がある。それも召喚魔術で生み出す様なものとは違い、もっと強大な、いうなれば人間すら凌駕してしまうほどの、強い生命エネルギーを」
召喚魔術は、魔法陣を使って対象物に自身の魔力を送り込み、稼働させるものだ。
先の事件で、ルナ=ラスノールが使っていたものが、それに当たる。
だが虚が言うには、あの魔法陣を使って対象物に送り込むのは『魔力』では無く、術者の『生命エネルギー』だと言う。
それはつまり、極めれば『人間の生成』すら可能にしてしまう、という事だ。
「どっちにしろ、厄介極まりない代物の事は確かやなぁ」
「で、どうすんだ?」
虚の問いに、決まっています。とシャーリーが間髪入れずに答える。
「あの魔法陣は、即刻統率機構で引き取るべきです。
そんな危険なものを、資料館に預けておくわけにはいきません」
「まぁ、そうだろうな」
シャーリーの意見に、虚も同意する。
――――――だが、オズは違った。
「いや、事件の早期解決を目的とするんやったら、ここに置いとくべきや」
シャーリーは、思わずオズを見る。信じられない、と言った様子で。
虚は、不敵に笑うオズの表情を凝視し、その真意を見つけた。
「今回の二度目の失敗は、向こうさんにとって焦燥を煽る原因になる。
統率機構は、また魔法陣を狙われたもんやから、警備をより一層強くすると、そう思うやろ?」
「そうなりゃ、その前に、すぐにでも魔法陣を手に入れようとする……そこを叩くわけか」
そこでようやく、シャーリーもオズの真意を理解した。
「明日、また向こうさんは動くやろ。そこを一気に叩いて、片を付けるつもりや」
「それだったら、俺にも妙案がある」
突如、虚がオズの提案に口をはさむ。
そして次に、虚はオズとシャーリーにとっては驚愕に足る事実を告げた。
淡々と、面倒くさそうに。
「ある人物の動向を、チェックしておけばいい。
おそらく……そいつが今回の事件の黒幕だ」
あまりに唐突に告げられた重大事項に、オズとシャーリーは一泊遅れて目を丸くした。
「アナタ……今回の事件の黒幕が分かったのですか?」
「あぁ。と言っても、まだ推測の域だけどな」
「で、その黒幕さんってのは誰なんや?」
オズに急かされ、虚は今回の黒幕の正体を告げた。
やはり、面倒くさそうに―――――。
■ □ ■ □
ところ変わり、アジア地区にある都市「ウォング」では今、一つの抗争が収束していた。
この地域を二分していた巨大違法魔術師集団である二つの組織が、ウォングの派遣を巡って争っていたのだ。
統率機構本部から遠い事もあって、この地区は治安があまり良い方ではなく、違法魔術師の力も強大なものだった。
だが、その二つの勢力の激突は、思わぬ形で幕を閉じた。
「隊長、本部から連絡です」
一人の、黒の統率機構の隊服に身を包んだ男性が、有明の月を眺める青年に声をかけた。
「んー? 何て?」
「件の、隊長が赴く予定だった事件ですが……一人の『凄腕の魔術師』の協力もあり、明日には解決に向かいそうだと」
その報告を聞き、青年は思わず、唇を吊り上げた。
凄腕の魔術師。
驚くほど抽象的な表現だったが、青年には、それが一体誰なのかという答えが、はっきりとわかっていた。
「そっか……やっぱり、『アイツ』は動いたみたいだねぇ」
間延びした口調で言い、青年は男性の方へと反転した。
男性は思わず、その表情をみて、背筋を凍らせる。
青年は、わらっていた。それはそれは、楽しそうに。
「報告ご苦労さん。疲れたんじゃないかぃ? 休んでて良いよ」
「ご、ご心配には及びません。なんせ此度の任務も、殆ど隊長のみで片づけてしまわれましたから」
「そうだったかぃ? 意外だねぇ……あまりに手ごたえが無いから、自覚が無いよ」
へらへらと愉快に笑う青年だったが、男性の体を迸る凍気は、いまだ失せない。
いや、この青年といる限り、失せる事は無いだろう。
「そうかぃそうかぃ……『虚』は動いたのかぃ」
再び、青年は笑った。
子供の様な、無邪気な笑顔で。
「楽しみだ……それと同時に、残念だねぇ。アイツがいるなら、『こんな所』よりアッチの方が、よっぽど楽しかっただろうに」
二つの影が立つ荒野に横たわる、無数の肉塊。
そして、目の前で笑う青年を交互に見て、統率機構の特別戦闘部隊の隊員である男性は、一人思う。
道化師・曽根崎虚と、この青年、特別戦闘部隊統率者・ライト=レグノックに『戦争』をさせてはいけない。
もしそうなれば、この世界は、再び混沌へと染まり、第三次世界大戦の悲劇を、再び繰り返す事になるだろう、と―――――――。