Episode 2-3 =道化師の受難=
その頃、統率機構から少し離れた場所にある喫茶店「Paradox」も、彼らと同様に朝を迎えていた。
カーテンの隙間から差し込まれる朝日が、二階のとある一室を照らしている。
その部屋の現在の主である「彼」は、瞳を突き刺すその光に顔をしかめ、寝返りを打つ。
黒に染められた髪と紅色に光る瞳を持つ彼の名は、曽根崎虚。
全世界の魔術師から、「道化師」と呼ばれ畏怖されている青年である。
何度も言うが、彼は朝が非常に弱い。
普通ならこのまま、あと数時間はベッドに体を預けているところだ。
しかし、今日はそうもいかなかった。
ベッドの中に、感じ慣れない温もりがある。
それは布団のそれより柔らかく、妙に冷たい。そして何より、「ん……」と唸り声をあげている。
虚は嫌な予感に眉をひそめつつ、上半身をゆっくりと上げ、そのまま布団を勢いよくはぎ取った。
そして、その中に隠れていたそれを見て、肩を落とす。
そこにいたのは、銀色の髪と無感情な灰色の瞳を持つ小柄な少女だった。
当然、虚はその少女に見覚えがある。現在、彼と共に「Paradox」に居候している少女、ルイである。
彼女が虚の布団にもぐりこんでいる事自体は、よくある事だ。これは別に問題ではない。最初の頃は注意していたのだが、数日後にはまたルイが布団にもぐりこんでくるため、虚もあきらめてしまった。
だが、今日はいつものそれとはわけが違う。
それは、ルイの服装にあった。
虚は右手で困った様に頭を掻きながら、呆れ果てた表情で彼女を見下ろす。
ルイは布団をはぎ取られたことで目が覚め、眠い目を擦りながら、上目使いで虚を見つめた。
「虚……おはよう」
「おはよう、じゃねぇよ」
溜息交じりに答え、虚はルイを少し睨むように見つめる。
「何でまた俺の布団に潜り込んでんだ―――――しかも裸で」
そう、今日の彼女は、全身の透き通る様な白い肌を惜しげもなくさらけ出した状態。詰まる所、「全裸」なのである。
ルイは虚の問いに、不思議そうに首を傾げた。
「……暑かったから?」
「そういう問題じゃねぇ。つうか何で疑問形なんだ」
ルイの解答に虚が満足するわけもなく、とりあえずシーツでルイの身体をくるんだ。
「とにかく、恋人でもねぇ男の前で裸になんてなるな。しかもそのまま布団に潜り込むなんてもっての外だ」
虚が言うと、ルイは無表情のままじっと彼を見つめ……
「…………興奮した?」
「よし、もう喋るな」
多量の呆れと少量の怒気を含んだ虚の言葉が、室内に空しく響いた。
この少女は一体何を考えているのだろうか。虚の反応を見て楽しんでいる、と言うのが大半の理由だろう、と虚は一人思う。
「とりあえず部屋に戻って服を着て来い。俺は先に下に行く」
「? 珍しい……虚がこんなに早く起きるなんて」
顔こそ無表情のままだが、ルイの瞳はほんの少し驚嘆の色を帯びていた。
「お前のせいで、こっからまた布団入る気が失せたんだよ」
「……そ」
素っ気なく答えると、ルイはシーツに体をくるんだまま虚の部屋を後にした。
「毎度毎度……何なんだアイツは」
困ったものだ、と頭を掻きながら、虚はゆっくりと体をベッドから起こした。
かくして今日も、彼にとっては気怠い朝から、いつも通りの一日が始まる。
■ □ ■ □
いつもの様に黒いコートを纏って自室を出た虚は、そのまま一階へと続く階段をゆっくりと降りていく。
時刻は現在、朝の8時を過ぎたばかり。
これからどう時間を潰そうか、と思考を巡らせていると
「っ、くしゅん!」
突然、虚の口からくしゃみが飛び出した。
「うー……風邪でも引いたか?」
それとも、誰かが自分の噂話でもしているのだろうか。
どうせ自分の噂など、碌なものではないだろう、などと考えていた時。
今度は、何とも言えない冷気が、虚の背筋を撫でていく。
いや、冷気と呼ぶのは語弊がある。「悪寒」と言った方が、よりこの感覚には的確だろう。
(な、何だこれ? 魔術か?)
当然そんなわけは無いのだが、となると一体これは何なのだろう。
しかもこの悪寒の中には、何というか殺気や怒気も含まれている感じが心なしかある。
虚にこんな印象を与えている人物と言えば――――
(……姫さん、か?)
そんな思考が一瞬脳裏を過ったが、虚はすぐにそれを打ちけす。
「姫さんが俺の話なんて、好き好んでするわけないか」
何せ自分は、彼女に嫌われているのだから。
そんな事を思いながら、虚は再び階段を降り始める。
最後の5、6段手前まで来ると、カウンター席に立つロック調の服と猫耳が特徴の店主、チェシャ猫の姿が見て取れた。
直後、虚は怪訝そうに眼を細める。
彼の前に、二人の人間が立っていたのだ。
一人は30手前か少し過ぎたくらいの恰幅の良い男性。
もう一人は黄土色の髪を短く結び、薄い赤色の瞳を優しく曲げた女性。
その雰囲気からして、おそらくは夫婦だろう。今はどうやら、チェシャ猫と何やら話をしている様だ。
「よぅ、チェシャ。お客さんかい?」
声を掛けない方が良かったか、と一瞬戸惑いつつも、結局チェシャ猫に声をかける。
するとチェシャ猫も虚に視線を向け、それとほぼ同時に二人の夫婦も彼を見た。
「あぁ、お早う。うつ―――――」
言いかけ、チェシャ猫は言葉を区切る。
そしてそのまま、虚の顔を10秒ほど食い入る様に見つめた。
「な、何だ?」
少し体をそらし、顔を引きつらせながら虚は問う。
だがチェシャ猫は答える事はせず、そのまままたしばらく虚を見つめた。
かと思うと、今度はすぐさま視線を目の前の夫婦へと向け
「いましたよ、一人。アイツなら適任でしょう」
「おぉ! 本当ですか!」
再び話を始めたチェシャ猫と男性の声に、虚は頭に?マークを浮かべた。
話が全く読めない。アイツとは恐らく、今しがた彼らに注目されていた自分の事だろうという事は推測出来るのだが……。
男性は軽い混乱状態に陥りながらも階段を下り終えた虚の前に歩み寄り、いきなり彼の手を取った。
おそらく喫煙者なのだろう。彼の服には、高級なタバコの匂いが染み付いていて、それが虚の鼻腔をくすぐった。
「うぇっ!? あ、あの……」
困った様に男性を見る虚をしり目に、男性はその手を堅く握った。正直、少し痛い。
「いやぁ良かった! たまたま立ち寄ったこの店で、私は本当に運がいい! よろしく頼みます!」
「……はい?」
更に深まる謎に困り果てた虚は、チラリとチェシャ猫の方を見る。
だが、チェシャ猫はただただ笑っているだけだった――――いい笑顔で。
「安心して下さい御主人。そいつは曽根崎虚って言って、多少癖のある奴ですが、腕は保証します」
「えぇ、ありがとうございます御店主! それでは、私はこれで。エリナ、帰るぞ」
男性の声に、エリナと呼ばれた女性軽く首を縦に振る。
「それでは虚殿! よろしく頼みます」
「は、はぁ……」
曖昧な返事を返す虚に、エリナは軽く会釈をし、夫の後に続いて店を出て行った。
カランカラン、と言う鈴の音だけが店内に響く。
しばらく呆然としている虚だったが、やがてゆっくりとチェシャ猫を見つめ――――いや、睨みつけた。
「おいチェシャ……あの人は?」
「こっから南に行った所にある資料館の経営者だ」
資料館? と首を傾げた虚だったが、すぐにその建物に思い当たる。
さすがの虚も、世界有数の宝物庫とも言うべき資料館の事は知っていない訳がない。
「そのオーナーさんが、ここに何の用だったんだ?」
虚の問いに、チェシャ猫はニヤリ、と意地汚く笑って見せた。それこそ童話『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫のそれの様に。
悪い予感が虚の全身を駆け巡る。
そしてチェシャ猫の答えは、その悪い予感に相応しいものだった。
「先日、資料館にコソ泥がもぐり込んだらしくてな。警備員が全員やられたらしい」
「まぁ、所詮寄せ集めの警備じゃそうなるだろうな」
「その時は居合わせた統率機構隊員のおかげで盗まれる事は無かったそうだが、用心のために警備を増やしたいそうだ。そこで、この辺りで腕の立つ魔術師を探しているらしい」
そこまで聞いて、虚はチェシャ猫の魂胆を理解した。
だが、時すでに遅し。チェシャ猫は勝ち誇った顔で、虚に告げた。
「生憎、全世界有数の魔術師である道化師以上の適任者を俺は知らなくてな。
と言うわけで今晩の警備、お前行ってくれないか?」
「それはつまり『行け』って事だろうが!」
虚の叫びは、何処か怒気を含んでいる様に見受けられた。
「冗談じゃねぇよ! 資料館って言ったらこっから30分ほどかかる所じゃねぇか!
科学の時代の『くるま』とやらがあればともかく、歩いてそんなに距離がある所まで行かせる気か!」
「あの人達も、歩いてわざわざこんな所まで来たわけだろう?
それにお前の足なら、せいぜい10分ほどで着くはずだ」
そんなペースで行ったら警備の前にバテるわ! と怒鳴る虚だったが、チェシャ猫は涼しい顔を変えない。
その時、
「……良いんじゃないの?」
二人の間に割って入る様に、か細い声が響いた。
「よぅ、お早う。ルイ」
チェシャ猫は虚から視線を外し、白のワンピースを着たルイに言う。
「うん……おはよう、チェシャ」
ゆっくりと階段を降りたルイは、虚の前で立ち止まった。
「虚……仕事もしないで居候しようなんて、甘すぎ」
「お嬢ちゃん、お前もか」
哀しみに満ちた虚の瞳が、ルイの姿を捉える。
だがルイは、相変わらず無表情を変える事は無い。
「たまに店の手伝いだってやってるじゃねぇか。
それに、お嬢ちゃんだって仕事してないだろ?」
「私……まだ子供だから」
「ルイの言う通りだぞ、虚」
ルイの言葉に、チェシャ猫も首を振って同意する。
「お前は、まだ12歳のか弱い少女に『働け』って言うのか? まるで鬼だな」
「悪魔……変態……」
「百歩譲って悪魔は良しとしよう……変態って何だ変態って」
「……ロリコン」
「もっと性質悪いわ!」
「ニート」
「……泣いてもいいか?」
疲れた、とでも言う様に、虚は溜息を吐いた。
「つうかお前ら……俺を働かせてからかいたいだけだろ?」
「何言ってんだ虚。旧友のお前をからかいたくないなんて、これっぽっちも思っちゃいねぇよ」
「つまりからかいたいんだろうが!」
うまく言ったつもりなのか、チェシャ猫はさらっとした表情で腕を組む。
「と言うか……からかうって言うより、ただ虚を困らせたいだけ」
「お嬢ちゃん、何気にもっとひどい事言ってるって」
虚の指摘に、先ほどまでの威勢は無い。疲れ果ててしまった様な、か細い声だ。
「まぁ、今さら『やっぱ出来ません』なんて言えないしな……仕方ねぇ。
行きゃあいいんだろ、行きゃあ」
「最初からそう言えば、無駄に疲れなくて済んだのにな」
「バカ……」
「……お前らマジでいい加減にしろよ?」
静かな怒りを燃やす虚にも、二人の表情はやはり涼しげなものだった。
とにもかくにも、今日もParadoxは平和である――――。
■ □ ■ □
ParadoxやIMCSから遠く離れた、とある場所。
部屋の至る所には、様々な絵画が置かれている。既に完成されたものもあれば、まだ未完成のものもあり、その大きさもまちまちだ。
四方黒で囲まれたその部屋に、『それ』はいた。
小さなランプによって辛うじて光が注がれている部屋の中心、そこにあるソファに座っている『それ』は、退屈そうに虚空を睨んでいた。
「――――由愛」
「はっ」
『それ』の声と同時に、彼の前に一人の少女が現れた。
先日、資料館にてクロウと一戦をお越した、あの『影』の少女である。
「今夜……また資料館に潜り、あの魔法陣を奪って来い」
「畏まりました」
膝を付き、頭を下げる少女『由愛』を、『それ』は鋭い瞳で睨みつける。
「……今度はしくじるなよ」
一瞬、由愛の身体が震えた。
蘇るのは、先日のクロウとの戦いの記憶。
それと同時に、由愛は一人、『それ』にもバレない様に唇をかんだ。
悔しさから大声をあげそうになるのを必死にこらえ、落ち着いた声で由愛は答える。
「……はい。我が主よ」
そう言い残し、由愛の気配は部屋から消えた。
一人のこされた『それ』はソファから立ち上がると、無数に置かれた絵画の中の一枚の前に立つ。
白い布によって隠され、何が描かれているかわからないそれを右手で優しく撫でると、『それ』は無意識に上唇を吊り上げる。
「もう少し……もう少しで、私の計画は完成する」
その声を聞いたのは、部屋の中の絵画たちだけだった。