Episode 2-2 = オズ=シャドウエッジ =
マナ=クラウベルの起こした事件、通称「クラウベル事件」から、早いもので直に一ヶ月が経とうとしていた。
世間一般にマナの死については、支配者の意向もあって「自決」と公表されている。尤も、それは支配者が直接判断したものではなく、シャーリーとライト、特にシャーリーの強い推薦があっての事だ。
殺魔師、ルナ=ラスノールは、マナによって雇われたとは言え、これまでも岩石魔術を使用しての殺人を数十件起こしていた事や、A級違法魔術師に認定されていた事もあり「懲役46年」の判決が言い渡され、現在統率機構の牢獄に幽閉されている。
シャーリーやルイやルナ、そして虚やチェシャ猫の心境に少なからず影響を与えたこの事件であったが、これだけの月日が流れれば、既に一般市民からは忘れられかけていた。
住民に直接的被害が起きなかった事や、レインを除くルイスに住まう者たちにあまりマナの事が浸透していなかった事、そして、首謀者であるマナ以外の死人が出なかった点が、その大きな原因なのだろう。彼らにとって、この事件は所詮他人事でしかない、と言う事だ。
いや、今回に限った事ではない。
今のこの世界は、自身が生き残るためには力が必要とされ、そのためには例え他人を蹴落とす事もいとわない。
言い換えてみれば、犯罪がごく当たり前に起こる世界なのだ。
悍ましい事件も、哀しい事件も、毎日の様に起これば「自然現象」にさえなってしまう。
魔術が普及し、魔術の基本原理さえ覚えれば人々が過去の世に比べて比較的簡易的に力を手にする事が出来るこの世界は、その例として挙げられるだろう。
しかし、一度便利な物事を覚えてしまえば、人は簡単にはそれを捨てる事が出来ないもの。
恐怖や悲しみの根源であるのが魔術だと分かっていても、それを切り捨てた世界を築き上げる事は容易ではない。
もし統率機構がその世界を想像する計画を実行したとしたら、人々は相手が誰であろうと、団結して大規模な一揆を起こすだろう。
それが、今の人間の姿なのだから……。
■ □ ■ □
朝。快晴。
統率機構本部の諜報部隊の統率者を務めるシャーリー=ローレライは、自室にて一日の支度を行っていた。
いつもより少し早い朝7時に起き、シャワーを浴びると、その白い肌に張り付いた水滴を払おうとタオルで身体を拭っていく。
一通り身体を吹き終わると、下着を身に着け、次にクローゼットから諜報部隊員の証である「青」の軍服を取り出し、ゆっくりと身に纏っていった。
そして最後にベッドの上に腰掛け、羚羊の足と呼ぶに相応しい純白のそれに、黒の二―ハイソックスをゆっくりと押し上げていく。
身支度を終えると、シャーリーは壁に掛けられている古びた振り子時計を一瞥する。
現在、7時30分。
視線を床へと落とし、ハァ、と小さく息を吐いた。
(あの事件から、もう一ヶ月ですか……)
薄茶で染まった床をぼんやりと眺めながら、シャーリーは一人思う。
彼女にとって、それはほんの一ヶ月、という印象だった。もう何年も前の事だったのではないかと錯覚してしまうほどに。
「あの決断」がマナにとって、虚にとって、ルイにとって、チェシャ猫にとって、統率機構にとって、世界にとって、そして彼女自身にとって善に値する行いだったのかは、今の彼女には分からない。
彼女だけではない。ライトも、虚も、支配者も……事件の結末の善悪を決める事は出来ないだろう。
だが、それでも構わない。
(きっとそれは……私たちが死んだ後の人間たちが、しっかりと判断してくれるでしょうから)
……もっとも、これはライトの受け売りなのだが。
シャーリーは思わず吹き出してしまったが、次の瞬間にはもう、いつものしかめっ面に戻っていた。
「……クロウ」
「――――は」
シャーリーの一声を聞き、見えない声―――クロウが答える。
「支配者は、もう?」
「――――はい。既に支配者様の部屋にて、シャーリー様をお待ちしております」
そうですか、と短く答えると、シャーリーは少し勢いを付けて立ち上がる。
彼女が早めに起きた理由は、支配者から呼び出しを食らったからだ。
『明日の朝、私の部屋に来てもらえますか?
準備が出来次第、クロウを使って伝達しますので、よろしく』
昨日の夜、任務を終えた後の事後報告の際に言われた一言を思いだし、思わずため息を吐いた。
(まったく、クロウを伝書バトの様に扱って……)
実に彼女らしい、と思う反面、支配者である彼女の命のため動いたものの、何処となく不遇な扱いを受けているクロウを思うと、少し申し訳ない気すら出てくる。
一言文句を言ってやろうか、などと冗談半分に考えながら扉へと歩むシャーリーに、突然クロウが声を掛ける。
「――――シャーリー様」
普段、あまり自分の方から口を開かないクロウの呼び止めに若干目を丸くしながらも、シャーリーは一度扉の目の前で立ち止まった。
「なんですか? クロウ」
シャーリーの問いに、しばし静寂が流れた後、
「――――いえ、何でもありません」
「? そうですか……」
彼の態度に一抹の不可思議を思いながらも、シャーリーはドアノブをゆっくりと開いた。
統率機構最上階に一部屋だけ存在する部屋、支配者の自室の前に着くと、シャーリーは一度立ち止まり、少し間をおいてコンコン、と短くノックをする。
直後、部屋の中から「どうぞ」、と言う聞きなれた少女の声が届いてきた。
失礼します、と声をかけ、シャーリーはゆっくりと扉を開く。
次に目の前に現れたのは、書籍に埋もれた部屋の奥に、いつもの様に黒く艶めく神の左側だけを伸ばしてそれをゴムで結び、乙姫の衣装をミニスカートにした様な奇抜な衣装を身に纏った世界を統治する人物にしてシャーリーたち総ての統率機構隊員の長である少女、本名不明の支配者が、白く美しい足をさらけ出し、そのオレンジ色の瞳をシャーリーに向けていた。
「おはようございます、シャーリー」
「はい、おはようございま――――」
主に対し頭を下げ、それを上げ朝の挨拶を述べようとした直後、シャーリーの声が止まった。
いや、正確には声だけでなく、その動きも中途半端な状態で止まっている。
原因は、シャーリーと支配者の間に立っている、一人の男性。
ライトと同式の、ただし彼と違い「赤」で統一された男性隊員用の軍服を身に纏い、キラキラと輝く金髪と頬に大きな傷痕を持つその男性を、シャーリーはよく知っていた。
男が「ん?」とでも言いたげな顔で振り向いた直後、意図せずしてシャーリーと目があった。
そして直後、その表情を満面の笑みへとかえる。
「おっ! シャーリーはんやないの! えらい久しぶりやなぁ」
日本の「関西」と呼ばれる地域で主に使われていた方言を使用するテンション高めのその男性に、シャーリーは思わず怪訝そうな表情を浮かべ、完全に腰を上げる。
何故なら彼は、この統率機構の中でシャーリーが最も、支配者やライト以上に苦手としている人物だったのだから。
「…………お久しぶりです。アナタも呼ばれていたのですか。
IMCS隠密部隊統率者、『オズ=シャドウエッジ』さん」
どことなく堅苦しい、皮肉めいた雰囲気を持つ刺々しいシャーリーの挨拶にも、オズは意にも介さないと言った様にケラケラと笑って見せた。
「こないだはすまんかったなぁ……、例の件、ホンマは『隠密部隊』の仕事やのに、諜報部隊のクロウはんに行かせてもうて」
例の件、とはクロウが資料館の警備をしていたあの事件の事である。
敵を欺くにはまず味方から、と言う諺にのっとって「警備員に気付かれない様に巡回する」となっていたその任務は、本来ならば隠密行動、つまり統率機構直属の「忍」としての任務を主体とする隠密部隊の仕事だった。
しかし、オズはその時、別の任務で長期間IMCSを離れており、そしてそれに多くの隠密部隊たちが付いて行っていた事で、任務遂行は難しい状態であった。
クロウ本人の「『主と認めた者』にしか使える気はない」と言う強い意思もあって諜報部隊に属しているものの、普通ならばクロウはオズの隊の重鎮となってもまだ役不足であるとさえ言える腕を持つ一流の忍。
そこでオズは、今回の任務をクロウと、その主であるシャーリーに頼んだのである。
「……別に構いませんよ。それで、支配者様。今回はどの様なご用件ですか?」
オズの話を軽く受け流すと、シャーリーは支配者に今回の呼び出しの理由を問う。
よほどオズを苦手としている様だ。
支配者はしばし二人の反応を面白そうに見ていたが、シャーリーにガン睨みされたため、仕方なしと言った様子で本題に入る。
「シャーリー、アナタには今夜、オズと一緒に「例の任務」を遂行して頂きます」
直後、シャーリーの表情が、これまで見た事も無い程歪む事となった。
今の彼女の心境を語るうえで「最悪」の一言以外何があるというのだろうか。
対するオズは、先ほどからと同様に能天気に笑っている。
「別にかまへんけど、何でまた?」
「えぇ、実は……」
「分かりました、構いません。では私はこれで失礼します。
シャドウエッジさん、また後ほど」
会いたくもないけれど、と心の底でボヤキながら、シャーリーは足早に扉を開き、それを乱雑にしめてしまった。
彼女は支配者の態度や性格にあきれつつも、支配者に対して絶対的な忠誠を持つ少女だ。
そんな彼女が支配者の話の腰を折ってまで退出し、しかも不機嫌度MAXな表情も態度も隠す事が無いのは異例と言って良い。
「どうしたんや? シャーリーはん」
訳が分からない、と言った様子で頭を掻きながら、オズは呟く。
この状況を他の隊員たちが見ていれば、全員が「お前のせいだ!」とツッコミを入れるだろう。
…………支配者の場合は、笑いをこらえようと後ろを向いて口を抑えているが。
間違いない。支配者はこの状況を完全に、心の底から楽しんでいる。
でなければ、部下の自分に対する無礼な態度を許す筈はない。
いや、この少女の場合は許すかもしれないが。
「それで、何でまたシャーリーはんと?」
「ああ、それは―――――」
■ □ ■ □
「………はぁ」
「――――これで10回目です、シャーリー様」
シャーリーの自室に、頭を抱え何度目かも覚えていないシャーリーの溜息と、律儀にカウントしているクロウの声が空しく響く。
今クロウはいつもの様に天井裏に潜んでいるわけではなく、シャーリーの前で片膝を付いた状態で頭を垂れている。
良くも悪くも硬派で真面目なクロウは、いついかなる場合でもシャーリーへの忠誠を崩さない。
それが、この男の「信念」だ。
「――――何故、オズ様の事をあれほどまでに嫌ってらっしゃるのですか?」
クロウ自身、オズの隠密部隊入隊の誘いを蹴っていると言っても、決して彼を嫌っているわけでは無い。 むしろ忍として、自分には無いものを持っていると認めており、尊敬していると言っても良い。
「いえ、嫌っているわけではありません」
クロウの疑問に、シャーリーは弱弱しい声で答えた。
こんな状態のシャーリーを見られるのは、おそらく彼女がオズに遭遇した後のみだろう。
よって、クロウ以外の人間には滅多にお目にかかれないと言っても良いレア物だ。
「彼は腕も立ちますし、隊員たちにも好かれています。普段はあんなですが事務、実践双方で高い実績を残している事も、素直に感心していますし、尊敬すらしています。ただ……何と言うか、少し苦手で」
「――――そうですか」
それ以上、クロウがシャーリーに、オズの事について口を出す事は無かった。
主の私情に自分が口出しする事がどれほど愚かなことかを、しっかりと理解しているからだ。
統率機構内で、最もシャーリーをよく知ると言っても過言ではないクロウが知る中で、オズ以上にシャーリーが苦手としている人物は一人しかいない。
道化師と恐れられ、オズやライト以上に自由奔放な性格をしている青年、曽根崎虚だ。
……無論、シャーリーが心の奥底で彼をどう想っているのかも気付いているわけであり、彼自身その想いの行く末を内心楽しんでいる節もあるが。
「それより、クロウ。アナタ先日の任務で、少女を一人取り逃がしたと言っていましたね」
「――――申し訳ありません」
さらに深く頭を下げるクロウに、シャーリーは苦笑いを浮かべる。
「責めているわけではありません。ただ、珍しいと思いましてね……よほどの相手だったのですか?」
「――――今の所、まだ忍術も体術も未熟。しかし、素質は多大にあると言って良いでしょう。
――――放っておけば、シャーリー様にとってもIMCSにとっても脅威となり得る存在となるかと」
「……そうですか」
そういうと、シャーリーは柔和な笑みを浮かべる。
「どうやら、その子の力が気になっている様ですね。
アナタにそこまで言わせるその少女……私も会ってみたいものです」
シャーリーの答えに、クロウは再び頭を深く下げた。
それを確認すると、シャーリーは視線をおもむろに天井へと移した。
(クロウはその少女を『影』と呼んでいた……彼がここまで一人の人間を語るのは、とても珍しいものですね)
しかし、IMCSの脅威となるのならば……シャーリーのする事は変わらない。
その脅威を、排除するまでだ。
1ヶ月前の事件で大きく心境の変化があったものの、彼女のその信念だけは変わらないままだった。
だがそれが、シャーリーの強さでもある。
(気に入っている人間、か……)
何となく考えている彼女が思い浮かべるのは――――
突如、シャーリーの顔が真っ赤に染まる。何故なら今、彼女の脳裏に浮かんだのは、彼女がずっと忌み嫌い、同時にオズ以上に苦手としている人物なのだから。
(な、なんで道化師の事なんか……)
一人、その頬を桜色に染めるシャーリーの前でも、クロウはなお頭を上げる事は無かった。