8.『光の塔』第一の神
空は水色から茜色の変わりつつある。
本殿の通用口から外へ出て、夕焼けの眩しさに思わず目を細めたチカゲは、木立ちの間からこちらにやって来る人影に気付いた。
「兄上っ、マリっ」
それぞれの塔に行っていた三人だった。
「よお、宝具は手に入った?」
けしかけた張本人として、まだ不安が残るチカゲについてきてくれたハーシェルが、三人に笑って尋ねる。
「こちらに」と、マリが宝具をチカゲとハーシェルの前へ出した。
マリが受け取ったのは三節棍と呼ばれる武器だった。三つに別れた棍棒の部分と、それを繋ぐ鎖とが全て黄金色で、西の地の植物らしい美しい花の文様の細かな装飾が、棍棒に彫り込まれている。
トシヤは、にやり、と笑うと黙って手にした槍を見せた。
槍は、穂先から柄の元まで、やはり金色に輝いている。マリのものと同じく、胴体には滑り止めも兼ねた幾何学文様の彫刻がされている。
カナメも黙って手にしたロングソードを見せてくれた。緋色の革の鞘の中程に、マリの武器とはまた違った細い蔓草の文様が施され、柄には鞘と同色の革を細く切ったものが巻かれていた。
「へえ、カナメは剣が得意なのか?」
ハーシェルはカナメの剣を借り、鞘から抜き放つ。黄金の両刃の剣は鞘と同じデザインの文様が、柄から十センチ程の長さの辺りまで彫られていた。
「いや、得意という程じゃないんだが。逆にこれしか扱えないという方が正しい」
「そりゃ……、頼もしいな。で? トシヤは槍が得意?」
問われて、トシヤは鼻の頭を掻いた。
「槍がいいっていう訳じゃねえ。俺はどっちかてえと剣が得意だが」
「カナメとのバランスかな? で、マリは三節棍か。元々はツバサが弓、テオは小剣、カレリアは体術のみで革手袋だったんだけどな」
「変わってないのは、ハーシェルの、ユキナガの刀だけだな」
苦笑すると、カナメは面白そうに両刃剣を眺めていたハーシェルから返して貰う。
「ところで、君達は何処へ行くんだ?」
カナメに問われ、チカゲは思わずハーシェルの顔を見た。ヒノワの王太子は、不安な表情で自分を見るアケノの王女に素早くウィンクする。
「俺らこれから、第一の塔へ行くんだ」
「あ? チナミの塔へ?」
トシヤが、横から入って来た。
「うん。ハーシェルが、チナミ様の降臨を試してみろって」
チカゲがおずおずと答えると、トシヤはぶっ、と吹き出した。
「無理だって。ハーシェルはチカゲの日頃の行いをよく知らねえから、そんな無謀なこと勧められるんだぜ」
その通りだが、相変わらず歯に衣着せぬ言い方をされて、チカゲは悔しさのあまり頬が熱くなった。
べそはかかないまでも完全な膨れっ面になった姫に、チカゲ大事のマリがやんわりトシヤに抗議する。
「トシヤ様、それはあんまり……」
「だって、ほんとのことだぜ?」
だが、相手の気持ちに全く鈍感なトシヤは、窘められたのが不満な顔で言い返した。
常日頃は従兄と一緒になって自分ををからかい倒すカナメにまで何か言われたら、絶対抗議してやる、と身構えていたチカゲに、意外な人物から援護が貰えた。
「ほんとだからって、何でも言っていいとは限らねえってのっ。あんた、年上なんだからいい加減そんなこと学べばっ」
ハーシェルにずばりと言われ、今度はトシヤが赤くなる。
「んだとコラっ! 生意気な事言いやがってっ! ガキのくせにっ!」
「俺が生意気なガキだってんなら、あんたはただの大バカだぜ? チカゲは自分のいたらなさは、よーく知ってる。それでも、俺が無理に頼んだから、怖々でもチナミの塔に行くって言ったんだ」
出会って数時間しか経っていない少年に言われ、トシヤは猛然と腹を立てた。
「てめーに何が分かるってんだっ!! 俺はチカゲとは赤ん坊の時から鼻付き合わせてんだぞっ。その俺がダメっつってるんだから、ダメに決まってんだろがっ!!」
「そんなにダメダメ言わなくったっていいじゃんっ!」
チカゲは、我慢出来ずに怒鳴った。
「トシヤ兄に言われなくっても分かってるよっ!! 私がバカでドジで、どーしょうもないことくらい。でも、アケノが大変で、みんなが頑張ろうって動いてる時に、自分だけなんにも出来ないのが、辛いのっ!」
ここ二日で、周囲には目まぐるしく様々なことが起こった。その中で、チカゲは自身のいたらなさに、ずっと気持ちが凹み続けていた。
泣くまいと堪えていた感情が、一気に涙になって流れ出て来る。
「あっ、兄上みたいにっ、私っ、頭良くないしっ……。知ってるもん、にょっ、女官達がっ、私のこと、母上に……、似ないブスで可哀相って、言ってるの……っ!!」
「そんなことないよ。チカゲは今のままで十分可愛い。誰が思わなくても、僕は絶対そう思ってるから」
拭いもせずにしゃくりあげるチカゲの赤金の頭を、カナメが側に寄りそっと撫でた。
「兄上……っ!!」
チカゲは、兄の長身に抱き付いた。
普段は自分に妙なことをけしかけて、失敗するのを楽しんでいるような、ちょっと意地悪な兄だが、チカゲが完全に凹み切った時には、とても優しい。
カナメは本心は妹思いであるのを、チカゲは知っていた。
見事な銀糸の刺繍が施された兄の絹のベストに、涙と洟を盛大に擦り付けるチカゲの背を、カナメは頓着せずに撫で続ける。
こうなるともう、兄妹の独壇場である。
よく言えば謹厳実直、悪く言えば『姫様バカ』のマリは、美しき愛情で強く結ばれた兄妹の姿だと、眼前の二人に感激の涙を流す。
逆に、カナメが王太子として生まれた時からライバルで喧嘩相手のトシヤは、盛大に鼻白んだ。
「出たよ久々に。カナメのシスコンが……」
「どうでもいいけど、暗くなっちゃうぜ?」
一人だけ、この状況に全く飲まれていない様子のハーシェルが、至極冷静な声で言った。
「ああ、そうだね」
漸く妹の背から手を離したカナメが、小さく返した。
「さあチカゲ、顔を挙げて。出来る限りでいいから、やってみよう」
「……うん」泣き止んだチカゲは、まだずるずるな顔を片手で隠すように拭きながら頷いた。
お守役が近付いて、彼女にハンカチを渡す。行こうぜ、と声を掛けたハーシェルにも頷き、チカゲは歩き出した。
松明と警備兵に囲まれた『光の塔』第一の塔は、夕闇の中、揺らめく炎と、内から発する燐光に似た光を外壁に纏い、神秘的な姿を見せていた。
魔術師長の命令で、塔の周りは呪文を編み込んだ綱が巡らされている。カナメは監視役の魔術師に事情を話し、綱の一部を外させた。
五人は、正面と思われる扉のような文様のある前へ並んだ。
「相変わらず、閉じてるなあ」トシヤが呟く。
「完全に目覚められている気配はありますが……」
マリも眉を寄せる。
「塔に触ってみれば?」
ハーシェルの突飛な提案に、チカゲは驚く。
「えっ? そんなこと、しちゃっていいの?」
「チナミが何もする気が無いんなら、こっちからちょっかい掛けるしかないじゃん?」
「う、うん……」
降臨して頂けるのか、やってみるとは言ったが、いざ目の前にチナミの塔が聳えている状態は、やはり緊張する。
チカゲはひとつ深呼吸すると、恐る恐る塔の外壁に手を伸ばした。つるりとする白大理石の感触が人差し指の先に当たる。
その刹那、塔の光の色が変わった。
「ふぅわっ?!」純白から卵色にいきなり変化した光に驚いて、チカゲは思わず変な声を上げ、手を引っ込める。
光は、それまでの弱い波動から、波打つように大きな波動になる。
中に金粉を含んだような美しい波動に気を取られたチカゲは、光が一筋、自分の方へ長く伸びて来るのに気が付かなかった。
伸びた光がチカゲの腕に触れる。途端、チカゲは物凄い強さで引っ張られた。
カナメかトシヤが何か叫んだが、聞き取れない。
「きゃっ……」
驚きの声を上げる前に、だが唐突に引っ張る力は止んだ。
いきなり放されて、チカゲは思い切りつんのめる。
「ったた!」
たたらを踏み、転ぶのを免れる。ほっとして顔を上げたチカゲは、そこが先程の塔の正面とは、似ても似つかない場所だと気が付いた。
とにかく、何処を向いても真っ白だった。
ところどころに壁の隅のような場所があるので、どうも建物の中のようだ。
チカゲは、茶色の革靴の底で、足下を叩いてみた。こんっ、という音が返って来たのを聞いて、足の下は固いもの、床であるらしいと判断する。
「もしかして、ここ、塔の中なのかな……?」
呟いた時。白い壁であるらしい周囲に金色の光が走った。
光はくるくると四方を這い、やがてチカゲの真正面で止まった。
「なに……?」
思わず呪文の構えを取ったチカゲの眼前で、光はみるみる人の形になる。
――あれ? これって夢で……?
夢では景色が藍色だったが、全く同じ様な状況に驚く。
光の人型は、やはり夢と同じく小柄な青年の姿に変わった。
夢の中では気が付かなかったが、青年は青い生地に金糸で刺繍を施した長い上着と、足首で裾を絞った黒いズボンを履いている。
上着は首から左右の肩に向かって開くようになっており、そこに飾り紐と釦を付けて留めるようになっていた。
それは、滅びたヒナタ国独特の衣装だった。
「あなたは?」もしやと思いつつ、チカゲは尋ねる。
藍色の光景と同様、淡く笑んだ青年は、静かな声で答えた。
「ここの主だよ」
「ここって、やっぱり『光の塔』の中、ですか?」
青年が頷く。途端、チカゲはパニックになった。
「でっ、でっ、ではやっぱりっ、あなたが、いえ、あなた様がチナミさまっ!」
ひえ〜〜っ、と、チカゲはその場に座り込む。
チナミに接触する積もりではいたが、こんな形で対面するなど、予想していなかった。
アケノの太祖と言われるチナミだが、不思議なことに、その肖像画は1枚も残っていない。しかも、過去一度も降臨しなかったため、後世の人間でチナミの顔を間近で見た者は、恐らくチカゲが初めてだろう。
しかし、今のチカゲにはそんなことを考えている余裕はなかった。
もしかして、勝手に塔に触ったのでお怒りなのかも、と頭を抱える王女に、魔術の神チナミは、若草色の目を細め、くすっ、と笑った。
「そんなに驚かなくても。君の魔力がこの塔の僕の魔力と引き合っただけだから」
「そっ、そうなんですか?」
妙なことをして怒りを買ったのではないと分かり、チカゲは一応安心する。
落ち着いたところで、当初の目的を思い出した。
「あっ、あのっ!」
勢い良く顔を上げたチカゲに、チナミは「なに?」と、優しい笑みを向けた。
「私に降臨して、頂けないでしょうか?」
チナミは途端に幼く見える顔を曇らせる。少し考え込むように、腕を組んで片手を顎の下に当てた。
髪と同様の形良い黒い眉が僅かに寄せられるのを見て、これはほぼ確実にダメだと覚悟する。
しかしそれで諦めては、決心して来た意味がない。
「私っ、魔力はありますが、ノーコンでっ。えっと、そのっ、ノーコンっていうのは、自分のイメージしている魔法の強さにぜんっぜんならないってことでっ、いっつもなんか出力オーバーしちゃうんですけど、でっ、でもっ、それは、何とか治せば治るかなーと思いますし……」
必死で自らを説明しようとしているチカゲに、チナミは深い眼差しを向ける。
「君のことはよく知ってるよ。僕は普段半覚醒なんだ。だから君が、小さな時から一生懸命に魔法を練習しているのも、それでも上手く扱えないのも、見ていた」
「……ご存じだったんですか……」
だったら、無い知恵絞って必死に説明することはなかったと、チカゲは肩を落とす。
拍子抜けした王女に苦笑して、チナミは続けた。
「僕が依代に降りないのは、魔力や魔法の問題じゃないんだ。君はまだ若い。若過ぎるって言ってもいい歳だ。僕は、そんな君に、過酷な戦いをして欲しくない。神経が磨り減るような、自分自身も無くなってしまうような、あんな……」
アケノ最強の守護神と言われ、人であった時は、その数々の武勇で称賛された神は、切ない眼差しで虚空を見詰める。
チナミの辛そうな表情から、チカゲは如何にエルウィードとの戦いが苛烈なものであったか、幾許か推し量る事が出来た。
しかし。
「でも、現実にもうエルウィードは転生しています。今回は前と違って、パルスタードという魔術師です。魔法が使えるってことは、前とは比べものにならないくらい大変なんじゃ……」
チカゲは、偉大な神に向かい、少々気後れしながらも訴えた。
「そうだね。それは、僕にも分かってる。今回は三百年前とは桁違いな被害になるかもしれない」
チナミの、まるで自分には関係ないと思っているような言い方に、チカゲはむかっとする。
「私は、確かに力不足かも知れませんっ。でしたら、魔術師長もいらっしゃいますし、他の宮廷魔術師もいますっ。どうか、降臨してお力を――」
お貸し下さい、と言い掛けたチカゲの言葉を、それまで穏やかだったチナミが強い調子で遮った。
「僕はっ!! 君だけじゃなく、誰も傷付けたくない。過酷な戦いをさせたくないんだっ!! 弱虫と思われてもいい。卑怯者と言われてもいいっ。それでももう、戦いに誰も巻き込みたくないっ!!」
ごうっ、と、突風が塔の中に起こる。チナミの感情に、塔内の魔力が反応しているのだ。
強い魔力に圧倒されながらも、チカゲは慌てずに考えていた。
若いチカゲを戦いに向かわせたくない、と言いながら、戦火に巻き込まれるかもしれない、アケノの子供たちは放っておくのか。
チナミの言い分は矛盾している。言い返そうと口を開きかけた時。チカゲは不意に、今度は後ろへ引かれた。
塔に入った時とは逆に、そっと後ろ襟を引かれたような感覚に、チカゲは僅かだかよろめく。
片足を半歩後ろに下げた途端、景色が元の場所へと戻った。
「あ、れ……?」
きょろきょろと周囲を確認するチカゲに、ハーシェルが大きな溜め息をついた。
「やっぱ、ダメだわ……」
「チカゲ、チナミは何て?」
カナメに尋ねられ、チカゲは、はっ、と兄を見た。
「あ、うん……。私を戦いに巻き込みたくないって……」
という理由だったが、よくよく考えれば、やはりチナミはチカゲの力量を信用していないのだろう。
それはそうだ。年がら年中魔法の大暴走を引き起こしているような魔術師を、最強の魔術の神が依代には出来ない。
「やっぱり、私じゃ無理だった」
諦めと、だが少し残ったどうしてという気持ちが綯い交ぜになり、チカゲは少しひがみっぽく口を尖らせる。
「だーっ!!」突然、トシヤが喚いた。
「ったくっ!! 何甘ちゃんなこと抜かしてやがんだっ、このすっとこどっこいっ!! こらっ、チナミっ、聞いてっかっ!! おまえが自分の依代を殺したくないって? じゃあ俺達はどーなんだよっ!! おまえ抜きで戦えってかっ!! それこそ俺達の依代はっ、俺達は負け決定じゃねえかっ!! このまんま突っ込んだって死ぬぞっ!! 今までの相手とは桁違いだってのパルスタードはっ!! 分かってんだろーがてめーだってよっ!! そんでも、自分の依代だけ大事だって言いやがんのかよっ!!!!」
馬鹿野郎っ! と、トシヤは大声でチナミの塔に向かって吠えた。
塔は、それを聞いているかのように、卵色の光を徐々に弱める。
「ったくっ!」
トシヤは、塔に蹴りを入れる真似をする。
「喚いたって無駄だ。チナミは昔っから頑固なんだから」
カナメが、厳しい表情で言う。ハーシェルは呆れた顔で首を振った。
「でも、今度はバカ過ぎ。ほんと、ここまで臆病者に逆戻りしてるとは思わなかったぜ」
あーあ、と、少年は伸びをするように頭の後ろで手を組んだ。
「臆病者って?」
神々の記憶の無いチカゲは、何のことか分からずマリの顔を見る。
「チナミ様は……。子供の頃とても身体がお弱かったので、一日の殆どの時間を、ご自分のお部屋に引き籠もって過ごしてらっしゃったそうです。そのせいなのでしょうか、少々引っ込み思案な所がおありになって……」
「引っ込み思案じゃあなくって、弱虫なんだよ。戦いとか喧嘩とか、嫌いって言うより怖いって言ってたしな」
ハーシェルの補足が何となく分かる気がして、チカゲはそう、と相槌を打った。
「取り敢えず、今日はダメだ。引き上げよう」
カナメの言葉に、全員が塔に背を向けた。