生死と団子
「こっちだ、さァ早く!」
スティーブはステファニーを呼んだ。駆け寄ってきたステファニーがうっとりと目を潤ませ、頼もしげにスティーヴを見る。スティーブはそれだけで誇らしい気持ちになり、それまでの飢餓感や危機感を束の間忘れ、なんだってやれるような気になった。そういう気分で自信満々にステファニーを見つめ返していると、性欲が湧き上がってくるのを感じた。だが、今はそれどころではない。
スティーブ達が生きるこの島の本当の名前はわからない。誰かは知っているかもしれないが、すくなくともスティーブの知人でこの島の名前を知っている者はいない。そもそも、本当に島なのかどうかさえわからないのだ。スティーブの一族の中で最も長く生きている老人は、この島以外にもありとあらゆる島が無数に存在すると語る。自分はそのうちの一つからここへ移住したのだと言う。だが、この島で生まれ育ったスティーブには、それが本当のことなのかどうか判断できなかった。スティーブの一族の何人かは老人の言葉を信じているが、耄碌したジジィの戯言だと吐き捨てる者もいる。スティーブにとってはどちらだって良かった。ありとあらゆる無数の島があるからといって、飢えを凌ぐことはできない。世界にこの島しか存在しないからといって、巨大な怪物の陰に怯えない日々はやってこない。
物陰に身をひそめたスティーブとステファニーは息を殺しながら怪物の動向を慎重に探った。スティーブの身の丈の何十倍もあろうかという怪物は、フンフンフーンと雄たけびを上げながら通称『怪物の滝』(老人が名付けた滝である。怪物がやってきた時にだけ流れる不思議な滝であるため、『怪物の滝』と名付けられた)に両手を差し出している。片手には三つ又の槍『トライデント』(スティーブの一族が刺殺されたことはなかったが、怪物がその武器で得物を捕えているところを幾度も目撃されている)、もう片方の手には強力な毒液を泡として吐きだす通称『デス・ロック』(不気味な岩である。硬くはなく、弾力がある。怪物に叩きつけられても押しつぶされることはない。だが、にじみ出る泡のような毒液に身体を蝕まれ、やがて息絶えてしまう)を持っている。怪物は三つ又の槍『トライデント』に『デス・ロック』をギュッギュッと押し付けていた。続いて、『ブリューナク』や『グングニル』、『ゲイ・ボルグ』等の武器にも『デス・ロック』を押し付けてゆく。この行為は、槍に毒液をしみこませているのだとスティーブの一族は考えている。つまり狩りの準備であった。怪物らは狩りをしたすぐ後に、次のための狩りの準備をする。だが、怪物は武器だけでなく、捕えた得物を入れておく巨大な器にも毒液を押し付ける。もしかすると、スティーブや多くの生物にとっては毒であっても怪物たちにはそうではないのかもしれない。
怪物が次の狩りの準備をしているあいだならば、怪物の目を盗み、食料を確保してコロニーへ持ち帰ることができる。食料とは、憎き怪物の食い残しのことである。情けないことながら、この世に生を受けてから、ほとんどそれで食い凌いできているようなものだし、なにより背に腹は代えられない。
スティーブは思案した。いまここにいるのが己一人ならば、食料を確保することは容易い。かつ、もしも失敗したとしても犠牲は己一人で済む。しかし、今はステファニーがいる。ステファニーを置いて己一人で物陰から飛び出し、食料を確保しようと無我夢虫で駆け抜けている間に、怪物に襲われてしまうかもしれない。怪物は一匹ではないのだ。
昔、歳の離れた弟のアンダーソンを物陰に忍ばせておき、スティーブ一人で食料を確保しに飛び出したことがあった。ああ、まさに今と同じ状況だった! アンダーソン……! 頭の弱いところはあったが人懐っこく大人たちに人気があった。――危険な目に会うのは己一人で充分なのだと一人で物陰から飛び出したのが間違いだった。いや、しかし、一緒に飛び出したところで危険であったことには変わりない……。そう、安全な場所などこの世界にはどこにもないのだ! ――夢虫で飛び出して食料を手にした丁度その時だった、物陰に隠れていたはずのアンダーソンの悲痛な叫びが聞こえてきたのは……! 見れば、アンダーソンの下半身がまるでユニークな漫画のようにぺしゃんこに潰れていた。アンダーソンは血だまりのうえで、訳がわからないという風に目に涙を浮かべて口をパクパクとさせていた。あれはスティーブの名前を呼んでいたのかもしれない。あるいは神に祈りをささげていたのかもしれない。どちらにせよ、アンダーソンの最後の呟きは今となっては確認することなどできやしない。アンダーソンの身にいったい何があったのか、スティーブはアンダーソンの遥か上空を見た。そこには筒状のこん棒を持った怪物が立っていた。こん棒にはアンダーソンの血がべったりとこびりついている。そのすぐ後、アンダーソンの身体を無慈悲な一撃が舞い降りたのだった……。
今だってそうだ。あの時だってそうだった。本来ならば己一人でコロニーからここまで来て食料を確保するべきなのだ。しかし、コロニーの慢性的な食糧問題から目を背けることはできやしなかった。コロニーに住まう者たちは女子供問わず、動ける者は食料確保に走らなければならない。
スティーブは悩んだ。一緒に飛び出すべきか、あるいは物陰で隠れていてもらうか。どっちにしろ死の影から逃げることはできない。いったいどうすればいい?
苦悶の表情で悩むスティーブの手が、ぎゅっと握られた。
ステファニーだった。
「大丈夫、わたしは大丈夫だから」
恐怖に身がすくむ思いだろうに、ステファニーはやんわりと微笑んでみせる。スティーブは愛しさに身を震わせ、思わずステファニーを抱き寄せた。
二人でコロニーへ帰るんだ。そう、絶対にだ! ――スティーブは目を閉じ、強くそう願った。そして食糧危機を乗り越えたあかつきには、そう、ステファニーの望んだ家庭を築こう。この混沌とした世界で、たくさんの子供たちに囲まれた暖かく幸福な家族を作ろう。
スティーブはステファニーから身を離し、目を開けた。その目は決意に燃えていた。
スティーブがステファニーから離れ、怪物の様子を確認し、ステファニーを振りかえり、さァ行くぞ、と声をかけようとしたその瞬間であった。
ステファニーの背後で、『ポイズン・サーヴァント』がその細い口を突き出していた。
「ダメだ! 逃げるんだ!」
スティーブは叫んだ。『ポイズン・サーヴァント』は怪物のしもべであり、自身では動くことができないものの、スティーブら一族が最も恐れるものの一つであった。
ステファニーは己の身の危険を察知できなかった。スティーブの叫びを耳にし、ただ動揺することしかできなかった。
スティーブはステファニーへ逃げるんだと叫び続けながら身を翻した。
直後。
『ポイズン・サーヴァント』の口からダークブレスが吐きだされた。
身を翻して倒れこんだスティーブは、直撃を免れた。が、腕の一つをブレスがかすめた。
「ぐぅっ」
とスティーブは呻いた。腕をかすめただけだというのに焼けるような激痛が走る。束の間、あまりの痛みに気を失いかけた。いや、本当は一瞬でも気を失ったのかもしれない。ともかく、どちらにせよ強烈な攻撃だった。
スティーブはよろめきながらもステファニーの安否を確認するために顔を上げる。
ステファニーはもがいていた。まるでこの世の終わりに直面したかのように、無茶苦茶にあがいていた。ひっくり返りながら足をじたばたとさせ、背中を軸にぐるるるるる……と高速回転をしている。地につかない足は何かを掴もうとするかのように、何度も何度も天に向けて伸びる。ステファニーは高速回転しながら地を滑って移動をし、壁に当たって跳ね返った。束の間、動きを止めたがやがて回転運動を再開した。
正気の沙汰ではなかった。
ステファニーはブレスを全身に浴びたのだ、とスティーブは悟った。あまりのステファニーの醜態を見たスティーブは、激痛も相まって吐き気をおぼえた。
いったいどれ程の痛みを感じればこのような苦しみ方をするのだろうか。
あんなに――、とスティーブは思う。あんなに美しかったステファニーが……。くそっ、なんてこった!
やがてステファニーは醜悪な回転運動を辞めるだろう。それはつまり、同時に生命活動が停止されるということを意味している。そう、ああなってしまっては助かるすべはないのだ。ブレスを全身に浴びてしまえば、そこですべてが終わりになってしまうのだ。
スティーブは居たたまれなくなり、のたうちまわるステファニーから目をそらした。それから別の物陰へ移動し、膝を抱えてうずくまって目を閉じた。目を閉じていても、ステファニーのガサガサという狂乱の音が聞こえ、映像がまぶたの裏で再生される。スティーブは頭を垂れて歯を食いしばった。あまりに無力だった。
どうして俺や俺の一族たちばかりがこんな目に合わなければならないのか。どうして巨大な怪物の目を忍んで、気配を消し、こそこそと生きねばならないのか。飢餓と傷痍に怯えない日は来ないのか……。
そうしてスティーブは無力感に苛まれながらしばらくのあいだ俯いてじっとしていた。
やがて、スティーブはゆっくりと顔を上げた。いっさいの音が聞こえなかった。いや、聞こえなくなったのは動きまわるステファニーの音だけだった。ザー、と『怪物の滝』から流れ落ちる水の音が聞こえてくる。死を分かつあの狂態の音はいつの間にかに聞こえてこなくなっている。スティーブは立ち上がり、ステファニーの姿を一瞥することもなくその場を立ち去った。
独りでコロニーに戻ってきたスティーブを罵る者はいなかった。慰めの言葉をかけようと近づいた者もいたが、スティーブのあまりの落ち込みように彼らはかける言葉を失った。
夜。
スティーブはコロニーを出た。向かう先は『怪物の滝』のすぐ近く、通称『ダスト・ボックス』と呼ばれる場所だった。『ダスト・ボックス』には怪物らが食べ残したものが残骸となって集められている。そこから食べ残しを食料として運び出すわけである。貴重な食料源だったが、スティーブら一族は皮肉の意味も込めて『ダスト・ボックス』と呼んでいる。
夜であれば怪物らは寝静まる。安全性が増す。しかし、怪物らは『ダスト・ボックス』に収納した食料をすぐに別の場所へ移してしまう習性がある。つまり、怪物らが寝静まっている頃には『ダスト・ボックス』は空となっていることが多い。『ダスト・ボックス』から食料を調達するには怪物のいる間しかない。スティーブらが食料調達に危険を冒す理由がこれだった。
時折、怪物が『ダスト・ボックス』に食料を残したままにすることがある。稀なことだが、スティーブはそれに賭けたのだった。コロニー内では飢餓がピークに達していた。このままでは弟やステファニーだけでなく、きっと多くの者が死に至る。そう、きっと近いうちにでも。
スティーブは昼も夜も関係なく、己を犠牲にしてでも食料を調達するつもりであった。言わば自棄になりつつある状態だったが、止める者はいなかった。誰しも己のことだけで精いっぱいでもあったし、なによりほとんどの者がすでにスティーブのように自棄になりつつあった。
巨大な三角錐型の『ダスト・ボックス』の縁までたどり着いたスティーブは、中を覗き込んだ。が、すぐに肩を落とす。何一つ残っていやしない。
スティーブは辺りを見渡した。このままでは帰れない。些細なものでも構わない。なにかないのだろうか。
丸い形状をしたものが傍に転がっていることに、スティーブはふと気がついた。今まで見たことのないものだった。スティーブの顔程の大きさをした球状の物体で、良い匂いがする。食べ物の匂い。スティーブは近寄り、一口、ふたくちとかじった。まぎれもなく食べ物の味だった。ゆっくりと咀嚼したあと、一気にかぶりついた。
久しぶりの食べ物に、物を食べるということは生を実感できるものなのだとスティーブは思い出すことができた。
――生きてやる。
と、夢虫で食べながらスティーブは思う。
弟やステファニー、死んでいった一族の皆たちの分まで生きて、生きて、生き抜いてやる。そして思い描いた幸福な生活を現実のものとしてやるんだ。そう、近いうちにでも、きっと。
※
朝、目を覚ました彼は台所へ向かった。水道の蛇口をひねると、勢いよく流れ出た水がジャーッとシンクを叩く。コップに水を注いでうがいをしていると、丸い小石のようなものがシンクの傍に転がっていることに気がついた。彼はそれを摘まんで不思議そうに眺めていたが、やがてそれをシンクの隅にある三角コーナーに捨てた。
昨晩出したままで片付け忘れていた殺虫剤を彼は見つけた。そういえば昨晩かけてやったヤツはどこいったかな、と彼がきょろきょろしていると、彼女も台所にやってきた。
「あれ? なくなってる」
と彼女は言った。
「なにが?」
と彼は応える。
「ホウ酸団子」
「団子?」
「そうよ、ちっちゃいお団子」
「ああ、もしかして」彼は三角コーナーからすてたばかりのそれを摘まみあげた。「これ?」
「そう、それ」
「食べ物なのか、これ。ゴミかと思った」
「食べちゃ駄目よ、あたしたちはね」
「ふーん」
「ちゃんと食べたかしら」
「誰が?」
「そりゃあ、決まってるじゃない」
彼女は憎き小さな黒い生物の名前を口にした。
了