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正直、なんで軍服かと思いはしたんだよね

 ハロウィンナイト。

 駅の改札の前、同僚の男に手首をつかまれた藤森灯花(とうか)は、やはり来なければよかったと後悔していた。



 同期でハロウィン飲みするんだけど、藤森さんもどう?

 お、いいっすね!

 藤森さん、入社してから一回も来てないですもんね。

 あたしも藤森さんと話してみたーい。

 ねぇねぇ、ちょっとだけ。ちょっとだけでもいいからさ!

 お酒弱かったら飲まなくてもいいから。ね、どう?


 確かに今まで全部の誘いを「今日は体の調子が悪いから」と断っていたので、さすがに気まずさを覚えて「じゃあ少しだけ。お酒は飲めないけどそれでもよければ」と頷いたのが間違いだった。


 灯花はシンプル虚弱だ。


 単純に人より体が弱い。

 体力もないし、人の何倍も疲れやすい。少し無理をするとそれだけで翌日はベッドの住人、悪い時は風邪もひく。風邪なんて、普通の人にとったらちょっとした体の不調程度で済むだろうが、灯花にとってはそんなものでは済まされない。食欲が落ちて、元々細い体がさらに重さを失い、不意に咳き込むことが一月以上も続く。声はかすれ、蚊の鳴くような声量しか出せなくなる。

 大変なのだ。

 昨今、どのレジでも発話が必須だから、「お支払方法は?」なんて聞かれても首を縦に振る、横に振るだけでは伝わらない。必死にカスカスの声で叫んで、ようやく買える。そんな苦労を半月は強いられる。


 本当にちょっとした無理でそうなるのだ。だから体調管理には人一倍気を付けていた。


 仕事も比較的動きの少ない事務職に就いた。職場は駅近で、借りた部屋も駅近。職場と住居を結ぶ駅は乗り換えなしで、ラッシュに逆行する経路になるよう計算した。おかげで行きも帰りもガラガラの電車で座って行ける。スーパーとコンビニが駅の高架下に入っているので、そこで買い物をしてアパートに直帰。

 この流れで、灯花は自身の穏やかで健康的な暮らしを守っていた。なにせ体調を崩すと治るまでに本当に時間がかかる。自分の給料だけで、生活費諸々の支出を賄わなければならない以上、医療費は極力抑えたいし、無駄に休んでなどいられないのだ。当日欠勤や遅刻、早退は勤務態度として評価され、そしてその評価は給料に反映される。あぁ、おそろしい、おそろしい。


 そんなわけで、自分の体の弱さに自信のあった灯花は、四月に入社してから十月末の今に至るまで、飲み会の誘いをすべて断り続けてきたのであった。

 今回OKした理由は、この飲み会の翌日から会社が設備点検のため四連休になるからだ。飲み会なんて、一時間でも絶対に翌日体調を崩すに決まっている。が、さすがに四日も休みがあればなんとか回復できるだろうと踏んだのだ。


 飲み会は案の定というか予想外にというか、灯花を中心に据えて、わいわいと盛り上がった。

 少々辟易したのは言うまでもない。

 女子社員の何人かが、親し気に特定の同僚男性を紹介してくる。灯花にしてみれば、女性社員も同僚男性も、挨拶程度の会話と業務上の関りが少しある程度の知り合いにすぎない。顔と名前は知っていたが、それだけ。

 それが、急にべたべたと距離感ゼロでプライベートな会話にまで踏み込んでくる。おまけに、灯花は声が細く通りも悪い。何をしゃべっても、必死に腹から大声を出しても、例えそれがすぐ隣の人相手であっても聞こえないという…。

 「かわいい~」「藤森さん、おしとやかだから大声とか出せないもんね」とか、そんな感じで良いように解釈してくれたが、灯花はもうヘトヘトだった。


 駄目だ。疲れた。もう限界。


「ごめんね、夜に飲む薬を家に忘れてきちゃったから、今日はもう帰るね」


 飲まなきゃいけない薬なんて本当はない。体が虚弱なだけで、病気には罹っていない。だけどそう言っておけば、大体の人は信じて解放してくれるので、いつの頃からか場を抜け出す方便として使うようになっていた。正直に「疲れたから帰る」と言えたらいいのだが、その言い方だと角が立つし、「じゃあそこで少し休んでいこう」と別の場所に誘導されることがたまにあるので、本当に病弱な人には申し訳ないのだが、この言い訳を恒常的に使わせてもらっている。


 普段であればこれで帰れるはずだった。

 ところが、今日は運悪くハロウィンナイトだった。居酒屋のあるこの通りは浮かれ騒ぐお若い方々で溢れている。

 灯花は普段飲み屋街など出歩かないし、この通り儚げな(実際体力は儚い)風貌だというのを皆が心配しだしたのである。本当に心配されてるというよりは、灯花が中抜けすることは予想済みで、その次の対策としての口裏合わせが発動した、という空気だった。


「この辺、酔った人が多くて危ないから、駅まで西崎君に送ってってもらいなよ」と誰かが言い出し、そうだね、危ないよね、そうしなよとさざ波のように広がった。

 そんな感じで、飲み会中ずっと灯花に話しかけ、隣をキープし続けていた同僚男性を満場一致で送り狼に指名し、二人をポンとハロウィンの夜道に送り出したのである。酔っ払いどもの「西崎、がんばれ!」だの「ふぅ、いい仕事したわ」という声を背に、灯花は同僚男性と店を後にした。


 ちなみに、灯花はこの同僚男性が苦手である。灯花を徹底的に弱者ポジションに置きたがるというか、過剰に持ち上げて「ほら、こんなにしてあげたんだよ」という顔をするようなところがあって、できれば近づきたくない、なんなら話もしたくないタイプの人だ。

 その彼の一方的な話を、はい、うん、そうなんですね、と聞き流しながらなんとか人でごった返す駅前までたどり着いた。

 ありがとうございました。では、また会社で。そう言って足早に改札へ向かおうとしたところ、「待てって。危ないから家まで送る」…こうである。

 嫌だー、やめてー、怖いー。

 現状、一番灯花にとって危険なのはお前だというのに。その元凶がホームまで着いてくるだと?絶対部屋に上がる気だ。その上、何かをやらかすつもりだ。やだー、いやー。


「大丈夫です、お構いなく。西崎さんは皆さんのところに戻ってください」

「駄目だ、藤森さんは女性なんだから、こんな夜道を一人なんて危ない」

「…いえ、まだ二十時半ですし、この時間帯に出歩いてる女性なんて、…ほら、この通りたくさんいますので」

 ていうか、普段、ちょっと残業したらこのくらいの時間になるじゃないか。何を言っているんだ、この男は。


「いや、でも、だって、藤森さん弱いし、こんな風に男に掴まれたら一人じゃ逃げられないでしょ。俺がいなかったらどうするの」

「は?」

 この人と一緒だと危ないということが、今まさに本人の口から証明されたのだが、自分で何を言っているのかわからないのだろうか。


(わからないから、こうなんだろうな。あー、面倒くさいな、どうしようかな)


 灯花は非力で虚弱だ。やめてください、と大声で叫んで腕を振り払い、素早くその場を立ち去る、という正攻法は、大声が出ない、腕を振り払う筋力がない、捲けるほどの敏捷性と持続力のある走りができない、という点で却下。

 遠回しに、相手の警戒心を緩め、そっと距離を取れるよう、じっくりゆっくりネゴシエイトするしかない。


 あぁ、なんて面倒。


 仕方ない、そこのカフェに誘導してタイミングをみてそっと逃げよう。灯花がそう思って小さくため息をついた時だった。


「その手を放せ」


 パキッと通りの良いアルトボイス。

 灯花の手首を掴む同僚の手を横からガッと握る手が現れた。

 小さな手だ。大きさは灯花と変わらないくらい。しかし、灯花と違い、その手は筋張っていて小さくともしっかりと筋肉のついた頑丈そうな手に見えた。


 パッと横を見ると、小学校高学年くらいの男の子がいた。幼い顔に精一杯の険しさを乗せて、同僚男性を睨みつけている。

 身長は150cmくらい。黒い軍服のような衣装に、ウィッグだろうか、深紅の燃えるような髪を後ろで一つにまとめている。小柄だが、何かスポーツをしているのだろう、全体的に鍛えられた立ち姿で、軍服のコスプレがものすごく様になっている。

 顔立ちも整っている。写真加工の必要ゼロ。大きな瞳は金橙に輝いている。最近のカラコンってすごい。

 突然現れた迫力美少年に、同僚の男性はあからさまに鼻白んだ声を上げた。


「な、なんだ?お子様は引っ込んでろよ。俺はこの人の、か、かれ、彼氏…」

「会社の同僚です」

「うぅ…」


 彼氏とは大きく出たものである。妄想猛々しい。

 スパッと灯花に遮られ、同僚が狼狽した隙を逃さず、灯花は男の手を振り払おうともがいた…が、駄目だった。く、悔しい…。


「やはり嫌がっているじゃないか」


 少年の正論。そう、そうなんです、嫌がっているんです。


「うるせぇ!いいからガキは黙ってどっか行け!」


 瞬間、激昂した同僚が少年に握られているのとは逆の手で、少年の腕を薙ぎ払おうとした。


「ダメ!」

 見ず知らずの少年に手を上げるなんて。咄嗟に少年を庇おうと動いた灯花の体は、トン、と軽い力で後ろに戻された。少年に鎖骨の辺りを軽く押された、ような??

 え?と思っている内に、すべて終わっていた。

 同僚男性は滑車に失敗したハムスターのように目の前でぐるんと宙を一回転して地面に転がり、ふらふら~と後ろに数歩よろめいた灯花の背を、いつの間にそこにいたのか少年が軽く支えた。

 何をどうしたのかさっぱりわからないが、恐らくこの少年が同僚を投げ飛ばしたらしい。


 そして、さすがに駅前でその騒動は目立ちすぎたようで、ハロウィン特別警戒中の警察官が数名飛んできて、…というか、いるならもっと早くきてほしい…灯花は咄嗟に、

「彼は同僚で、飲み会を途中で抜けた自分を駅まで送ってくれて、で、こっちの男の子は私のいとこで、ハロウィンだから仮装で塾に行っていてその帰りにここで落ち合う約束をしていたんです。酔っぱらった同僚が私に絡んでいたのを見て心配して駆け寄ってくれたんですが、もみ合いになりそうになった瞬間、同僚が盛大に転んで、はい、今のこの騒動です。特に問題はありませんので、私たちはこの辺で失礼しますね~」

 スラスラとまくし立てて、少年と一緒にぺこりと頭を下げ、「お騒がせして失礼しました」と申し訳なさそうに小さく微笑んだ。

 灯花は何せ見た目が儚い。控えめな微笑み、というのが物凄く似合うし、謎の説得力を持っているのを自覚していた。今回もその唯一の武器は功を奏し、「同僚くんにはちょっと注意させてもらうね、気を付けて帰りなさい」「君はあまり無茶をするんじゃないよ、危ないからね」と、灯花と少年は、一言二言もらっただけで、その場を穏便に脱出することに成功したのであった。


 さて、無事に乗り切れたのはいいとして。この少年、いったいどこから来たのであろう。

 できれば親御さんにお礼と、巻き込んでしまった顛末についてきちんとご報告しておきたいのだけど。

 先ほどの改札から少し離れた、駅の裏手にあるカフェの入り口付近で立ち止まり、灯花は少年にありがとう、と頭を下げた。


「さっきは助けてくれてありがとう」

「いや、当然のことをしたまでです。お気になさらず」


 ハキハキとした口調で、妙に堅苦しい発言。

 変わった子だなぁと思いつつも、灯花は「でも本当に助かったの、ありがとう」と重ねて礼を述べた。


「ごめんね、あそこに居たら面倒になると思って移動しちゃったけど、保護者の人と一緒だったよね?お礼もしたいから、携帯とか、何か連絡取れるもの持ってるかな?」


 尋ねると、少年は表情を変えないままふるりと首を横に振った。


「あ、あれ、えーと、じゃあさっきの場所に戻った方がいいかな。きっと心配してると思うから…」

「先ほどの場所に戻っても仕方ありません。こちらの世界に私の両親はいませんので」

「……」


 はっきりと答えた少年の言葉を、たっぷり十秒ほど吟味して、灯花は「なんだか長くなりそうだから、一度お店に入ろうか」と少年をカフェに誘った。

 成人女性が見知らぬ少年を夜、カフェに誘う。よくよく考えると空恐ろしい行為ではあるが、その、よくわからない…えーと、事情が全然、まったく塵ほども想像がつかなくて、仕方なく、そう、やむにやまれぬ事態だったので許していただきたい。


「しかし私は今、持ち合わせがありません」と、やはりハキハキ話す少年に、「さっきのお礼だから大丈夫、大丈夫」と肩を押して入店した。


 なんとなく変わった子だし、恐ろしく見た目が派手で整っているので、注文はこちらが勝手にすることにして、先に席で座って待ってもらうことにした。


 子どもが何を飲むのかよくわからなくて、とりあえずホットココアとアイスココアを一つずつ、バナナとシフォンケーキとベーグルサンドを買ってみる。食べなかったらそのまま明日の己の食糧にする。


「お待たせ」


 テーブルに着くと、少年はやけにソワソワと視線をさまよわせていた。


「どうしたの?」

「い、いえ、あの。…初めてお会いする女性に、給仕のような真似事をさせてしまい、申し訳なく……フラム家の長男として面目もない」

 ガバーッと物凄いキレの良さで頭を下げた少年に、灯花は「大丈夫、大丈夫」と穏やかに声をかけ顔を上げさせた。

 内心、「?」で頭はいっぱいだし、人目の多いところであまり目立つ動きはしないでほしいなぁと思っているが、なんだかパニックしているようだし、そんな時もう一方も慌てていたら、パニックの連鎖が止まらなくなってしまう。

 灯花は虚弱な22歳だが、同年代よりもメンタルは鍛えられていた。体が弱いと色々あるのである。


「冷たいのと温かいのどっちがいいです?」


 少年の妙な迫力につられて思わず敬語が飛び出したが、少年は気にしていない様子でジッと灯花の目を見つめ、それから「冷たい方を」とアイスココアを受け取った。

 二人が座った席は、店内の角にある席で、正方形のローテーブルが柱とガラス窓の角にピタリと収まり、椅子はL字に配置されている。対面と隣の中間くらいの距離感が、初めましての少年と成人女性にはちょうどいい。

 それに灯花は声が小さいので、このくらいの方が話しやすい。


「食べ物も勝手に選んじゃったけど、アレルギーとかは大丈夫?」

「あれるぎぃ?」

「えーと、食べちゃいけないものとか、食べられないものとか、ないかな?」

「ありません。戦士たるもの、胃袋が強くなくては務まりませんから」

「戦士……うーんと…お腹が丈夫なのはとても良いことだね」

「はいっ」

「あ、声はもう少し小さく…ひそひそ話くらいがいいかな」

「…はい」


 案の定というか、ベーグルサンドのフィルムの開け方がわからないようなのでそれを剥がしてお皿に載せて「これは手で持ってがぶりといきます」と教えてあげると、大層恐縮した様子で恐る恐る…しかし思い切りのいい大口でそれにかぶりついた。活発さと利発さが前面に出た秀麗な顔立ちだが、その見た目を裏切らず育ちが良いのだろう。大口を開けてはいても、汚くはない。むしろ品の良ささえ感じられる綺麗さで一口、二口と食べ進めている。

 気持ちの良い食べっぷりであっという間にベーグルサンドをお腹に入れた少年に、残りのバナナとシフォンケーキもよければどうぞと勧めると「あなたは?」と聞かれ、灯花は「お腹いっぱい」と苦笑を返した。


「えーと、じゃあ、少しお話しようかな」


 一通りフードも食べきって、少年がアイスココアの甘さに目を輝かせたあたりで、灯花は話を切り出した。

 きちりと居ずまいを正した少年に、灯花は苦笑してホットココアのカップで手を温めながら、できるだけ穏やかな声を意識して口を開いた。


「私は、さっき君が助けてくれたことのお礼と、巻き込んでしまって君の帰りが遅くなってしまったことを謝るために、君の保護者にお会いしたいのだけど。えーと、難しい、んだよね?」


 少年はキリ、と真面目な表情で頷いた。


「まず、先ほどあなたを助けたことに関しては当然のことをしたまでで、お礼を言われるようなことではありません。ですからこの件に関して、今後あなたが気にするようなことは何一つありません」

「でも、本当にすごいよね、あれ、どうやったの?男の人がぐるんって回ってた」


 少年はそこで初めてクス、と笑った。

 年相応と言えばそうなのだけど、無邪気なその笑顔と整った顔立ちが掛け合わさると妙にドキリとする魅力がある。


「特段大したことはしていません。手首を取って、相手の勢いを利用して投げただけです」

「合気道みたいなことかな?…すごいなぁ」


 灯花なんて掴まれた腕を振りほどくこともできなかったのに。チラ、と掴まれた左の手首を見遣ると、掴まれていたところが赤くアザになっていた。


 う…内出血してる…。


 内出血自体はもう仕方ない。時間はかかるけど跡も残らずに治る怪我だから…。ただ、しばらくはこの跡を見ながら生活しなければならないのかと思うと、うんざりする。自分の弱さ、相手の力の強さをこのアザを通して視認し続けるのは、精神衛生上あまり良いとは言えない。


「見せてください」

「え」


 それほどわかりやすく見たつもりはないのに、ほんの一瞬ちらりと動いただけの灯花の視線に気付いたらしい。灯花は驚きつつ「ちょっと跡になってるだけだから」と遠回しに断ったが、「少しならいいでしょう?」と引かないので仕方なくシャツの袖を引いて少年の方へ腕を見せた。


「…うーん」

 ちらっと見た時も「あー跡になってる、やだな」とは思ったが、きちんとまくり上げて見ると、青白い不健康な肌にくっきりと赤紫のアザが浮かんでいて、うーん、なかなかグロい。

 思わず引いた声をあげた灯花に対し、少年は口の端をぎゅっと引き結んで険しい顔になった。


「痛くはありませんか?」

「うーん…今はそんなに。家に帰ったら冷やすから大丈夫だよ」

「やはり医療魔法が存在しないのですね…少し腕を預けてもらえますか?私も少しなら心得がありますから」

「ん…?」


 医療、魔法?ま、ほ、う?

 突如ぶっこまれたファンタジー用語に灯花が首を捻っているうちに、灯花の腕をとった少年がアザの上にもう片方の手をそっとのせ、何か小さく呟いた。

 室内にも関わらず、髪がふわりと巻き上がった。

 ルイボスティーよりも紅い少年の髪も風に踊り、それがとても綺麗で思わず目を奪われた。ひらり、ひらり、赤い花びらのようで幻想的。

 腕が内部の方までじんわりと温かくなったのを感じ、思わずそちらに目を向けると、淡い緑色の光が集束し消えていくところだった。ついでに言うと、腕のアザがきれいさっぱり無くなっている。


「え、」

「気分は悪くありませんか?」


 橙がかった金色の大きな瞳に見上げられ、灯花は咄嗟にこくこくと首を縦に振った。少年の手にサンドイッチされていた自分の腕は、この隙にさっと胸元に取り戻しておく。

 思春期の少女のような行動にも少年は気を悪くした様子もなく、良かった、とパーフェクトな微笑を浮かべた。


 こ、この子、末恐ろしい。


 私が理性的で恋愛に興味がないタイプの女で良かったね、少年。


「あれ、ていうか、その、これは、え、ま、魔法?」


 呆然と呟いた灯花は、一連の不思議な風だとか光だとか騒ぎになっていないだろうかとパッと店内を見渡したが、誰も気づいた様子はない。よかった、どうやら風や光はこの席周辺に限定的に発生したようだ。


「あ、魔法、わかりますか?この世界にもあるのでしょうか」


 灯花のこぼした「魔法」という言葉に反応して瞳を輝かせた少年に、灯花は「う」と眉を下げて首を振る。


「ない、です。概念として、というか。お話や創作物の中で語られるだけで、現実にあるわけじゃなくて…ていうか、今の、これ、君、本当に魔法が使えるの?」


 ジンジンと疼く痛みも、ぼうっと腫れる熱感もきれいさっぱり消え去った己の腕をまじまじと見つめる。内出血の痕跡など一つもない、健全な肌。


 百聞は一見に如かず、論より証拠。


 これは、本物だ。他ならぬ自身の体でそれを見たのだから、これ以上疑うのは愚かであろう。


「がっかりさせてごめん。でも、おかげでよくわかった。君、本当に違う世界の人なんだね」


 理解しがたいけれど。

 完全に信じてるわけでもないけれど。

 実際に「魔法」を使える少年が目の前にいる。そしてその少年は、「親はこの世界にいない」と言っている。


「戻れなくて、困ってる…?」


 色々問いたいことはあるけれど、最優先事項はそれだ。

 短く問うた言葉に、少年はまっすぐな瞳をこの時初めて頼りなく揺らした。引きむんだ唇は、何か言いたそうに開きかけては閉じを繰り返し、そして、ゆっくりと少年は項垂れた。


「初陣、だった…んです。まるで俺がそこにいるのがわかっているかのように、一足飛びにクァットゥオルが高火力で突っ込んできた。咄嗟のことで、最良の対抗魔法の属性を選ぶことができなかった。一番得意で、できうる限りの精度とコントロールが可能なもので迎え撃つことしかできなかった。拮抗し、反発したところまでは視認できたんだ…だけど、直後、何かが起きた。融合か、何か……とにかく、爆発にも似た力の奔流が生まれ、空間が裂けて、足場がなくなり…飲み込まれた、と思ったら……ここに。…一目でわかりました。ここは大気も大地も私がいた世界とは魔素の組成からして違いすぎる。こんな大きな建物が、式も無く立っているなんて私の常識からは考えられない。…ここは異世界だと、すぐに理解しました」


 幸い、容姿や服装は周囲からかけ離れてはいないようで見た目で敬遠されることはなかった。が、誰に話しかけても、二言目には「お父さん、お母さんは?」と縁近い大人の存在を探される。どうやらこの世界では、自分くらいの年齢の子どもは一人で物を換金したり、交渉したりすることは徹底して認められていないようだ。

 明確な社会の規律を感じる。その規則性がつかめないことには、遠からず自分はこちらの防衛を担う組織に捕らえられてしまうだろう。それが良くないことはわかる。

 どうやってこの世界に来たかがわからない以上、どうすれば帰れるのかもわからない。長期間この世界に滞在することも視野に入れて行動しなければならない。

 とりあえず今日は野宿かと考えていたところ、酔った男に絡まれている女性が目に入った。周りに人はたくさんいるというのに、誰も彼女を助ける素振りがない。見たところ、女性は体の線が細く、武術を嗜んだこともなければ、そもそもの力が周囲の女性よりも無さそうだ。

 か弱い女性を一方的な暴力から守る。

 これは武人としても、フラム家の長男としても、そして個人の倫理観からいっても当然の行いだった。


「こちらの男性はとても弱いですね。ひょっとしたら戦いとは無縁の世界なのかもしれませんが…」


 そう苦笑を浮かべた少年が、どうにも痛々しく見えて。

 灯花はわずか逡巡し、一つ小さく息を吐き、心を決めた。


「落ち着くまで、私が面倒をみるよ」


 ハッと少年は顔を上げ、躊躇うように視線を逸らした。まるで、自分がその申し出を受けていいのか躊躇っているかのように。


「私はこの通り、あまり体も強くない。ただ、大人だし、自分で言うのもなんだけど善良な部類の人間だと思うよ。君にとって悪いことはしないと誓う。けど、不安なら、君、強いから私程度、簡単に力で制圧できるでしょ」

「しません、そんなこと」


 灯花はふふ、と笑った。


「うん、紳士的だもの。そんなことはしないと思うし、私も君にそんなことさせないように注意する。だから、落ち着くまではうちに居たらいいよ。そうだなぁ、用心棒ということで。どうかな」


 そんな物騒な社会ではないけれど、まぁさっき早速助けてもらったのであながち悪くない提案かもしれない。

 少年はしばらくテーブルと灯花と窓の外に広がる雑踏を順繰りに見遣って黙っていたが、やがて一つ頷いた。


「申し訳ありません。それではお言葉に甘えて。こちらでの生活の目途が立つまでの間、お世話になります」





 と、いうわけで。

 灯花はハロウィンナイト、若者が乱痴気騒ぎする夜に、異世界からやってきた美少年を保護することとなったのであった。




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