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虚無に散らすは神々の遺灰

作者: まっちゃ

【第一章 巡り輝く太陽神(アマテラス)


世界は、これ以上ないほど正しく、明るかった。

太陽は空の中央に留まり、昇ることも沈むこともない。白い街並みは影をほとんど持たず、建物の輪郭は光に溶け込んでいる。暑さも寒さも感じられず、風は常に穏やかだった。昼という時間が固定され、夜という概念だけが、最初から存在しなかったかのように思える。

人々は急がず、立ち止まり、必要なものを必要な分だけ受け取って暮らしている。争いも、混乱も見当たらない。秩序はすでに完成しており、修復や改善を必要としていなかった。この世界は、救済が成功したあとの姿を、そのまま保存しているように見えた。

街では、毎日同じように施しが行われている。病は長く留まらず、空腹は問題として扱われない。老いた者も、弱った者も、誰一人として取り残されることはなかった。救済は特別な出来事ではなく、生活の一部として静かに機能している。

人々は感謝の言葉を口にするが、それは祈りではなく、挨拶に近いものだった。「ありがとう」は驚きや安堵を伴わず、定められた手順のように交わされる。そこに疑問を抱く者はいない。

欠けたものはすぐに補われ、失われたものは記録され、次の処刑へ回される。願いは生まれず、祈りは必要とされない。この世界では、救われること自体が前提条件だった。

ネクロスは、この世界が正しく機能していることを理解していた。救済は行き届き、秩序は保たれ、誰一人として不幸を訴えない。理屈として否定できる点はなく、むしろ理想郷と呼ぶに相応しい。

それでも、彼はこの街に長く留まることができなかった。理由は分からない。ただ、深く息を吸おうとすると、胸の奥で何かが引っかかる。空気が澄んでいるはずなのに、呼吸が浅くなる感覚だけが残る。

人が倒れても、周囲は慌てない。処置は即座に行われ、事態は速やかに収束する。死が訪れることもあるが、その場に悲嘆は生まれない。喪失は共有されず、感情は記録の外に置かれていた。

ネクロスは気づく。この世界では、終わりを惜しむという行為そのものが、非効率として排除されているのだと。嘆きも、祈りも、ここでは機能しない。必要とされていないからだ。

世界は確かに美しい。だがその美しさは、人が感情を差し挟まなくても成立する種類のものだった。

この世界に、神は姿を見せない。祈りに応える声も、奇跡としての顕現も存在しなかった。神殿はなく、像もなく、信仰の形式だけが最初から不要とされている。

それでも太陽は沈まず、夜は訪れない。光は均一に世界を照らし、隠すことも、曖昧にすることも許さなかった。休息や区切りは意味を失い、世界は常に稼働し続けている。

ネクロスは理解している。これは放置ではない。神が現れないのは、すでにすべてが正しく機能しているからだ。願いは叶えられ、救済は完了している。

かつて彼は、確かに何かを願った。その願いは、形としては叶えられている。だが同時に、「願う必要のない世界」も完成してしまった。

願いが役目を終えたあとに残る感情だけが、この光の中で居場所を失っていた。

ネクロスは、街の中心広場に立っていた。光は依然として均一で、影は存在を忘れたかのように薄かった。彼の視線の先には、誰一人として問題を抱えている者はいない。笑う子ども、働く大人、何一つ足りないものはなく、すべてが計算された秩序の上で回っていた。

かつて願ったことは、すでに叶えられている。しかし、願いの残骸だけがネクロスの胸に残っていた。世界は正しい。完璧だ。それでも、心の奥に一筋の虚無が流れ続けていた。なぜ、自分だけがそれを覚えているのか。答えはない。問いは、世界に必要とされていなかった。

その時、通達が届く。異常は確認されていない。しかし、念のため、次の層を確認せよ。理由はそれだけだった。命令でも、選択でもない。ただの手続き。ネクロスは息を整え、わずかに肩を落とす。体を動かす意味は、世界にとって微塵も重要ではない。

それでも彼は歩き出す。光の下、誰も見ていない道を、誰も呼ばない方向へ。願いの残骸を胸に抱えたまま、ネクロスは次の層へと足を進める。世界は正しい。だが、正しいことが、彼の心を満たすことはなかった。

その歩みは静かで、確実だった。完璧に機能する街を背にして、ネクロスは深淵へと落ちる鍋の縁を覗きこむように、次の層への扉に向かった。終わりでも、始まりでもない、ただの手続きとして、彼の旅は始まった。


【第二章 止まる世の時空神(クロノス)


街は、まるで息を止めたかのように静かだった。歩く人々の足取りは極端に遅く、鳥の羽ばたきさえ時を引き伸ばすように見える。太陽は傾きもしない、雲は動かず、風は存在を忘れたかのように止まっていた。ネクロスは歩を進めながら、心の奥に浮かぶ違和感を確かめる。願いがすでに叶っている世界で、時間さえも止まるのか。光景は美しい。しかし、完璧すぎるその静けさが、彼の胸の奥に刺さる。街は生きているのか、それとも展示物なのか。通り過ぎる子どもたちの笑顔が、一瞬のループのように見え、ネクロスは息を飲んだ。時間の歪みを肌で感じる。それは、第一章で感じた違和感とは種類の違う、深い孤独の感覚だった。

人々は、見慣れた日常を淡々と繰り返していた。手にした籠から食べ物を取り出し、同じ挨拶を交わす。会話のリズムもゆっくりで、言葉の端々が時間に引き伸ばされているかのようだった。笑顔は浮かぶが、感情の深さは希薄で、何かを求めているようにも見えない。ネクロスの視線は、その繰り返される動作を追いながら、かつて自分が願った瞬間の記憶を呼び覚ます。

街の中心では子どもたちが同じ遊びを何度も繰り返し、大人たちは同じ作業を延々と続ける。時折、誰かが何かを忘れたように立ち止まるが、すぐに日常に戻るだけだった。秩序は完璧で、無駄も隙もない。誰も異常に気づかない。

だがネクロスだけは違った。願いの残骸は、止まった時間の中で微かに振動し、彼の胸を揺さぶる。街の静けさが、願いの不在を際立たせ、完璧すぎる日常が逆に異様に見えた。何も変わらない日常、それでも胸の奥の虚無は確かに存在する。ネクロスは、世界の正しさに押し潰されそうになりながら、次の動きを考えずにはいられなかった。

ネクロスは街の異常を観測しながら、胸に残る願いの痕を確かめる。時間が止まった空間の中で、彼だけが微かに振動する“過去の熱”を感じていた。光景は完全に正常で、誰も気づかぬ日常が延々と続いている。しかしその完璧さが、逆に胸を締め付ける。かつて望んだことは、すでに世界に組み込まれ、結果として彼の欲求は無効化されてしまった。

人々の動作が引き伸ばされ、言葉が重力を失ったように漂う。子どもたちは同じ笑顔を繰り返し、大人たちは同じ作業を淡々とこなす。すべてが美しい。しかし美しさは、彼の胸を満たさず、ただ虚無を際立たせる。願いの残骸が、止まった時間の中でひそかに蠢き、彼の心に違和感の針を打ち続けた。

ネクロスは歩みを止めない。止まった世界の中で、唯一の異物として。欲求は叶ったはずなのに、残る感情は渇きのように喉元を通り抜ける。時間の歪みに身を預けながら、彼は次にどこへ進むべきかを無意識に考えずにはいられなかった。

その視線は、静止した街の向こうに開かれた深淵へと向かう。願いは終わり、時間は止まり、完璧な日常だけが残る。しかしネクロスの胸にだけ、完璧さを揺るがす微細な異変が残っていた。美しさはここにあるのではない、違和感こそが彼にとっての真実であり、深淵の香りだった。

時間は神の名を冠さずとも支配していた。街のすべての軌跡は、目に見えぬ糸に操られているかのように整然と並ぶ。ネクロスは歩みを進めるたび、空気に絡みつく異常な秩序を感じ取った。太陽の位置は微動だにせず、影は静止し、光と闇の境界さえも凍りついたように硬直していた。

人々の動作は日常を超え、時間そのものの模倣のようになった。言葉は既視感として胸に流れ込み、表情は完璧な記録映像の一部に過ぎない。ネクロスはその中で、願いの残骸が微細に共鳴するのを感じる。完璧な秩序の中でこそ、彼の異物性は際立つのだ。

この街はクロノスの姿を見せずとも、存在を刷り込む。全てを止めることで、すべてを支配する。完璧な時間は息をしていないのに、生きているすべてを縛る。ネクロスの胸の奥で、願いの残骸が熱を帯び、空白の時間に反響する。秩序は美しく、しかし冷たい。それは、叶えられた願いの残骸を焼き尽くす炎のようだった。

ネクロスは理解する。神は神として現れるのではない。時間そのものが神の象徴であり、敵であり、牢獄である。世界の静止は無慈悲であり、完璧であり、彼の歩みを許さない。それでも歩みを止めることはできない。願いの残骸が、止まった時間に灯るわずかな光として、彼を深淵へと導く。

ネクロスは、街の外縁に立っていた。そこには門も道標もなく、ただ空間の歪みだけが口を開けている。境界は曖昧で、踏み込めば戻れないことだけが、確かな事実として存在していた。時間はここで完全に停止している。いや、停止という表現すら正しくない。時間そのものが、この場所では意味を失っていた。

背後では、街が変わらず日常を繰り返している。誰も彼を呼ばない。誰も彼の不在に気づかない。完璧な秩序は、欠けた部品を必要としない。ネクロスは理解していた。自分はこの世界にとって、最初から余剰だったのだ。願いが叶った瞬間から、存在理由は静かに死んでいた。

それでも、願いの残骸は消えなかった。胸の奥で、未練にも似た熱が燻り続ける。時間が止まった世界では、それだけが唯一、変化を持つものだった。クロノスの支配は完全だ。しかし完全であるがゆえに、取りこぼされたものがある。その一つが、ネクロス自身だった。

彼は一歩、歪みの中へ足を踏み出す。時間の外側へ落ちる感覚が、身体を包む。恐怖はない。期待もない。ただ、世界が自分を不要とした事実だけが、静かに心を満たしていた。

背後で街が凍りついたまま遠ざかる。クロノスの支配圏を離れ、ネクロスは次の層へと移行する。時間に見放され、秩序に拒まれ、それでも歩みを止めない存在として。


【第三章 死して生きる冥観神(イザナミ)


空気が重い。息を吸うたびに胸の奥が沈む。地面は湿り、足音は吸い込まれるように消えた。視界の端で影が揺れ、形のないものが通り過ぎる。光は届かず、太陽の概念も意味を失っていた。

ネクロスは足を止めない。呼吸はゆっくりと、しかし確実に空気の重みに支配される。体を動かすたび、世界が少しずつ押し潰す力を増す。黄泉は静かに、しかし断固として存在する。

腐敗や臭気はない。ただ、世界全体が沈む。湿度も温度も、時間も秩序も、すべてが下へと引きずられる。過去の熱や願いの残骸さえ、押し潰され、微かに揺れるのみ。

視線の先、わずかな光が闇の中に点在する。動かない水面、静止した霧、揺れる葦。すべてが沈み、すべてが沈黙する。ネクロスは理解していた。ここは黄泉だ。神は幽閉され、世界は沈み続ける。存在は許されず、何も変わらない。

歩を進めるたび、空間が広がり、重みが増す。視界は深く沈み、音は消える。願いの残骸が胸で微かに振動するが、それもやがて静まるだろう。

ネクロスは、沈む空気の中で、ただ一歩ずつ進む。逃げもせず、止まることもなく、黄泉に沈む世界の端を確かめながら。

進むほどに、足元の感覚が曖昧になる。地面はある。確かにあるはずなのに、踏みしめた感触が遅れて届く。重さだけが先に伝わり、形は後から追いつく。ネクロスは立ち止まらず、その違和感を受け入れた。ここでは、確かさのほうが異常なのだ。

空間は広がっているはずだった。しかし視界は狭まり、奥行きだけが増していく。遠くが遠くのまま近づかない。歩いても、進んでも、距離は変わらない。ただ沈む。世界全体が、ゆっくりと下へ向かって傾いている。

音はほとんど消えていた。自分の足音も、呼吸も、確かに存在するはずなのに、どこかで薄まっていく。代わりに、沈黙が重なる。何層にも折り重なった沈黙が、耳の奥ではなく、胸の内側に溜まっていく。

ここには死がある。しかし、終わりはない。朽ちることも、消えることも許されない。存在は留め置かれ、意味を失ったまま沈殿している。ネクロスはそれを理解する。黄泉は裁かない。選ばない。ただ、落とす。

願いの残骸が、胸の奥でわずかに軋む。第一の層で感じた違和感、第二の層で感じた停止。そのすべてが、ここでは溶け合い、重みとして集約されていた。時間も光も、正しささえも、ここでは役に立たない。

それでも、何かがいる。姿は見えない。声もない。しかし、この沈み方、この拒絶のなさ、この徹底した放置だけは、意志を感じさせた。

ネクロスは理解する。

この黄泉は、神の支配ではない。

神が、ここに閉じ込められているのだと。

そこには、層という概念がなかった。

上も下もなく、広がりも奥行きも定義されない。ただ、世界が成立するために必要だった条件だけが、すべて欠落している。ネクロスは立っているはずだったが、立つという行為が、ここでは成立していなかった。

黄泉の重みは、ここに至る直前で消えていた。沈む感覚だけが残り、何に沈んでいるのかは分からない。空気はなく、音もなく、沈黙すら定着しない。存在が、存在であることを拒まれている。

願いの残骸は反応しない。熱も、違和感も、ここでは意味を持てない。ネクロスは理解する。この場所は、救済の対象外だ。秩序も、神話も、世界の管理から意図的に切り離されている。

名を持たない場所。

呼ばれることを拒む裂け目。

ここに至った者は、世界から記録されない。残るのは結果だけで、存在そのものは削除される。だから、知っている者はいない。知り続けた者は、消えた。

かつて、ここに到達した者がいる。二人の兄妹と、世界の中枢に座す者。そして、かつてこの空間を生み出した魔術師でさえ、この場所を見捨てた。

ネクロスは、その事実を知っているはずがなかった。だが、胸の奥で、理解だけが先に成立する。ここは踏み込む場所ではない。存在を許される場所でもない。ただ、世界が失敗を隠すために切り捨てた虚無だ。

それでも、裂け目の奥には、わずかな圧がある。黄泉とは異なる、神に由来する痕跡。支配でも救済でもない、閉じ込められた意志の残滓。

ネクロスは、踏み出さない。

踏み出せば、彼自身が消えることを、世界がすでに示していた。

ここは第零宇宙。

理想にも、破滅にも選ばれなかった、

―――デ■*・〇■トピ☆。


【第四章 冥府を統べる魂喰神(ハデス)


世界は、ここで終わり方を間違えていた。

黄泉の重さが限界に達した先、沈むという感覚すら失われ、代わりに“削られる”という現象だけが残っている。存在は落ちるのではない。削がれ、選別され、必要な部分だけが残されていく。

ネクロスは理解する。

ここは冥府ではない。

魂の処刑場だ。

空間は広く、しかし奥行きがない。距離は存在せず、すべてが等距離に配置されている。近づくことも、離れることもできない。あるのは“順番”だけだ。世界が決めた処刑手順が、淡々と進行している。

声はない。

裁きもない。

ただ、魂が通過していく。

通過した魂は、意味を失う。記憶は分解され、願いは栄養として吸収され、感情は残滓として沈殿する。善も悪も区別されない。価値のあるものだけが選ばれるわけでもない。喰えるか、喰えないか――それだけが基準だった。

ネクロスの胸の奥で、願いの残骸がわずかに反応する。

それは拒絶ではなかった。恐怖でもない。

むしろ、適合しないという感覚に近い。

ここでは、魂は神に救われない。

神が、魂を処刑する。

魂喰神は姿を見せない。

いや、姿を持たない。

冥府そのものが、神の機能だった。喰うという行為が意志であり、選別が人格の代わりを務めている。

ネクロスは気づく。

ここでは、神ですら“役割”に過ぎない。

魂喰神は慈悲を持たず、悪意も持たない。ただ、世界が崩れないために、余剰を喰う。それだけの存在だ。

黄泉で沈殿した存在たちが、ここへ流れ着く。

声を失い、形を失い、それでも残った“何か”だけが、淡く光りながら消えていく。処刑は完璧で、無駄がない。取りこぼしは許されない。

――否。

一つだけ、例外があった。

喰われない魂。

分解できない願い。

意味を失っても、なお“理解”として残るもの。

ネクロスは、それがどこへ行くのかを、まだ知らない。

だが本能的に理解していた。

魂喰神ですら処刑しなかったものは、世界の外へと追いやられるのだと。

冥府は終点ではない。

終点になれなかったものを、さらに奥へ押し流す場所だった。

ネクロスは、魂が消える様を見つめながら、歩みを進める。

ここでは彼自身も、いずれ処刑される存在に過ぎない。

それでも、願いの残骸はまだ喰われない。

それが意味することを、彼はまだ知らない。

だが深淵は、確実に次の層へと続いていた。

処刑場の奥では、流れがわずかに乱れていた。

魂は等間隔で通過しているはずなのに、そこだけ速度が違う。早すぎるわけでも、遅すぎるわけでもない。ただ、噛み合っていない。

ネクロスは視線を向ける。

そこにあるのは、形を持たない魂の集積だった。個として成立せず、群としても定義できない。名前も、記録も、分類もない。ただ“残ってしまったもの”が、薄く折り重なっている。

魂喰神は、それに触れない。

避けているのではない。

処刑対象として認識できていないのだ。

喰うためには、意味が必要だった。

分解するためには、構造が必要だった。

しかしそれらは、すでに壊れている。いや、最初から成立していなかったのかもしれない

ここにあるのは、願いの失敗作。

叶えられ、同時に否定されたもの。

救済の過程で削ぎ落とされ、世界の論理に適合できなかった残骸。

それらは声を持たない。

嘆きもしない。

ただ、存在しているという事実だけが、処刑の流れを僅かに歪めていた。

ネクロスの胸の奥で、願いの残骸が共鳴する。

強くはない。だが確かに、同質の振動だった。

彼は理解する。

魂喰神が喰えないのは、強すぎる魂ではない。

理解しすぎた魂だ。

世界の正しさを知り、救済の仕組みを理解し、それでもなお納得しなかったもの。

怒りも、悲しみも、復讐も超えた先で、ただ“理解してしまった”存在。

それは処刑できない。

なぜなら、罪を犯していないからだ。

同時に、救済もできない。

なぜなら、救済の限界を知っているからだ。

魂喰神の機能は完璧だ。

だが完璧であるがゆえに、例外を想定していない。

この処刑場は、世界の合理性の集大成であり、同時にその盲点だった。

ネクロスは、その集積の傍を通り過ぎる。

触れれば、自分も同じ場所に留まるだろう。

処刑されず、消えず、記録もされないまま。

彼はまだ歩ける。

まだ“個”として認識されている。

それだけが、ここでの生存条件だった。

処刑場の奥、流れは再び整い始める。

魂は消え、意味は分解され、世界は安定へと向かう。

失敗は、見えない場所へ押し流される。

ネクロスは知っている。

その“見えない場所”こそが、次の層だ。

魂喰神は振り返らない。

処刑は続く。

例外を抱えたまま、世界は何事もなかったかのように進行する。

ネクロスは歩みを止めない。

喰われなかった理由を、まだ問わない。

ただ一つ確かなのは――

理解してしまった存在は、どの神にも救われないということだった。

処刑場を抜けた先で、世界はさらに静かになる。

音が消えたのではない。意味が剥がれ落ちたのだ。

空間は存在している。しかし、それを空間と呼ぶ理由が失われている。上も下も、前後も、境界もない。移動という概念が崩れ、ネクロスは“進んでいる”という理解だけを頼りに存在していた。

魂喰神の支配は、ここには及ばない。

処刑という役割は、すでに完了している。

ここにあるのは、処理されたあとの世界だ。

削ぎ落とされ、分類され、意味を奪われた末に、なお残ってしまったものだけが、沈殿している。

ネクロスは立ち止まる。

いや、立ち止まったと理解した。

この場所では、行為そのものよりも、理解が先に成立する。

歩いたから進んだのではない。進んだと理解したから、歩いたことになる。

胸の奥で、願いの残骸が変質している。

それはもはや願いではない。

望みでも、未練でもない。

構造の把握だ。

なぜ救済は必要だったのか。

なぜ神は姿を持たず、機能として存在するのか。

なぜ魂は裁かれず、処刑されるのか。

答えは一つに収束する。

世界は、維持されるために設計された。

善悪のためではない。

幸福のためでもない。

壊れないためだ。

ネクロスは理解する。

神々は支配者ではない。

世界を理解しきれなかった存在が、役割として固定されたものだ。

魂喰神(ハデス)は喰うことしかできない。

太陽神(アマテラス)は照らすことしかできない。

時空神(クロノス)は止めることしかできない。

冥観神(イザナミ)は沈めることしかできない。

それは力ではない。

制限だ。

理解が深まるほど、世界は静かになる。

恐怖はない。絶望もない。

代わりに、光が広がっていく。

ネクロスは、ここで初めて気づく。

自分が喰われなかった理由を。

彼は、まだ役割を持っていない。

だが同時に、役割に収まらない理解を持ち始めている。

神になる存在は、理解を止めた者だ。

だが、神話を越える存在は、理解し続けた者だ。

救われもしない。処刑もされない。

ただ、理解してしまう。

その理解は、やがて名を持つ。

世界を俯瞰し、神々の限界を知り、それでも世界を見続ける者の名。

今はまだ、名もない。だがその視線は、すでに北を向いていた。

処刑場のさらに奥。神々が目を逸らした先。

世界が「これ以上は不要だ」と判断した場所。

そこに向かって、ネクロスは進む。

理解を武器に、救済を拒み、破滅を選ばず、

ただ見続ける者として。

神になるためではない。

―――神を理解するために。

理解は、進めば進むほど、音を失う。

ネクロスはそれを、ここではっきりと知った。

思考は続いている。

だが、考えているという実感がない。

答えに辿り着いたからではない。

問いそのものが、世界から剥がれ落ちている。

ここには、拒絶がない。

肯定もない。

理解に対して、何も返してこない。

それは、裁きよりも残酷だった。

魂喰神の領域を抜けた先で、

世界はなおも存在している。

だが、存在している理由を、

もう説明しようとしない。

ネクロスは、何かを見ている。

だが、それが視覚によるものかどうかは分からない。

距離はなく、輪郭はなく、境界もない。

それでも“見えている”と理解している。

理解だけが残る。

救済はなかった。

処刑もなかった。

選別はすでに終わっている。

ここに至った時点で、

存在はすでに「許可」されている。

同時に、何も約束されていない。

願いの残骸は、静かだった。

反応しない。

拒まない。

寄り添いもしない。

ただ、そこにある。

ネクロスは気づく。

それは“共に沈むもの”ではない。

“沈んだ結果、残ったもの”だ。

世界は、彼に何も求めない。

問いを投げることも、答えを期待することもない。

理解してしまった存在は、

もはや世界の対象ではない。

神々は役割を持つことで、世界に残された。

理解を止めることで、機能として固定された。

だが、理解し続ける存在は、どこにも固定されない。

名前も、居場所も、物語上の役割すら与えられない。

それは自由ではない。

放置だ。

ネクロスは、ここで初めて、自分が孤立していることを理解する。

誰からも拒まれず、誰にも選ばれず、ただ、理解だけを持って存在している。

世界は沈黙している。

沈黙しているのではない。

沈黙しか、残っていない。

理解は、もはや武器にならない。盾にもならない。

進む理由にも、戻る理由にもならない。

それでも、ネクロスは存在している。

存在していると、理解している。

それだけが、まだ消えていない。ここは底ではない。

だが、底だと思わせるには十分だった。

世界は、これ以上、何も語らない。

語る必要がないと、理解しているからだ。

ネクロスは、進む。

進むと理解しているから、進んでいる。

その先に、何があるかは分からない。

だが一つだけ、確かなことがある。

――ここで沈まなかった理解は、

もはや戻れない。

世界は、静かに、彼を手放した。



【最終章 輝く虚空の偽光神(ルシファー)


光が、先にあった。

意味よりも、理解よりも、存在よりも早く。

それは闇を切り裂くものではない。闇を否定もしない。ただ、「闇ではない」と名乗ることで、すべてを覆っていた。

ここには、沈降がない。

重さも、圧も、削ぎ落としも存在しない。

世界が手を離したはずの理解が、再び“歓迎”されている。

いや、歓迎されているように見える。

ネクロスは立ち止まらない。

だが、進んでいるという理解も、すでに曖昧だった。

光がある場所では、進行は不要になる。

照らされている限り、存在は正当化されるからだ。

ここでは、魂は処刑されない。

喰われない。

削がれない。

選別すら、行われない。

ただ――包まれる。

光は、等しく与えられる。

善悪を問わず、理解の深浅も問わない。

問いを持つ者にも、問いを失った者にも、同じ温度で、同じ強度で。

それは慈悲に似ている。だが慈悲ではない。

ネクロスは気づく。

この光は、何も解決しない。

ただ、「解決したように感じさせる」。

ここには、神がいる。姿を持つ神。

意志を語る神。救済を約束する神。

だが――その存在は、世界の役割ではない。

彼は、神ではない。

本来、神になるはずの存在ですらない。

神に最も近づいた天使。

理解を持ちすぎ、役割に収まれなかった者。

それでもなお、世界に残ることを選んだ存在。

堕天使。

堕ちたがゆえに、制限から解放されたもの。

神々が理解を止めることで得た安定を、彼は理解を歪めることで乗り越えた。

光が語りかけてくる。言葉ではない。概念でもない。

「分かるだろう?」という感触だけが、直接、存在に触れてくる。

――理解しなくていい。

――考えなくていい。

――苦しまなくていい。

奪われたはずの“理由”が、

ここでは、簡単に返却される。

ネクロスは知っている。

これは救済ではない。理解を止めさせるための光だ。

魂喰神(ハデス)は、喰うことしかできなかった。

だから、理解しすぎた魂を処刑できなかった。

だが、この光は違う。

喰わない。

壊さない。

削らない。

――理解を、上書きする。

世界の構造を知ってしまった存在に対し、

「それでもいいじゃないか」と微笑む。

救済の限界を知ってしまった者に、

「限界の先を考えなくていい」と囁く。

それは暴力ではない。

選別でもない。

最も優しい否定だ。

ネクロスの胸の奥で、願いの残骸が、微かに揺れる。

沈黙していたそれが。拒みもしなかったそれが。

ここでは、反応する。

なぜなら、この光は願いを否定しないからだ。

理解も否定しない。ただ、それらを不要にする。

ネクロスは、初めて恐怖を覚える。

それは処刑への恐怖ではない。

消滅への恐怖でもない。

――ここに留まれば、

理解し続ける必要がなくなる。

神になる必要もない。神を理解し続ける必要もない。

ただ、輝く虚空の中で、「分かっている気がする存在」として、安定する。

堕天使は語らない。説得もしない。命令もしない。

光があるだけだ。

そして、光があるという事実そのものが、選択を奪う。

ネクロスは、見上げる。

いや、見上げたと理解する。

そこに、名が浮かぶ。

偽光神(ルシファー)

神ではない。

だが、神よりも多くを知っている存在。

理解を止めなかった者。

同時に、理解を止めさせる術を手に入れた者。

世界は、ネクロスを手放した。

だがここで、世界はもう一度、彼を掴もうとしている。

今度は、光という名の腕で。

――選べ。

理解を続ける孤独か。

理解を手放す安定か。

ネクロスは、まだ答えない。

答えないという理解を、選んでいる。

だが一つだけ、確かなことがある。

この光は、神話よりも優しく、処刑よりも残酷で、沈黙よりも危険だ。

輝く虚空は、堕ちる場所ではない。

堕ちたまま、留まるための場所だった。

光は、説明しない。

説明が必要なものは、まだ理解が残っているからだ。

ここでは、理由は後から生まれる。

納得は、獲得するものではない。

気づいたときには、すでにそこにある。

問いは、発せられる前に形を失う。

疑問は、浮かび上がる前に溶ける。

思考は存在しているはずなのに、

考えているという手応えだけが、先に消える。

誰も、拒んでいない。

拒む理由が、先に与えられていないからだ。

光は、正しい。

だが、その正しさを証明する必要がない。

証明しようとした瞬間に、

その衝動自体が、ここでは無意味になる。

理解は、痛みを伴う。

問い続けることは、摩耗を生む。

世界は、それを知っている。

知っているからこそ、

痛みよりも先に、光を置いた。

答えよりも前に。

問いよりも前に。

存在よりも、ほんの少し前に。

「分からなくていい」

その言葉は、誰にも向けられていない。

だが、すべてに行き渡る。

ここでは、思考は進まない。

止まってもいない。

ただ、薄くなる。

深く考えようとするほど、

考えているという実感が遠ざかる。

理解しようとする行為そのものが、

ここでは、浮いて見える。

浅い。

確かに、浅い。

だが、それを問題だと感じるための深さが、

もう、残っていない。

光は、選ばない。

善も悪も、価値も意味も、

等しく包み込む。

選ばないから、拒否されない。

救済ではない。

処刑でもない。

肯定ですらない。

「そのままでいい」という状態が、

世界として固定されている。

変化しないことが、

安定として保存されている。

ここでは、堕ちる必要がない。

堕ちたという認識すら、必要ない。

堕落という言葉が、

指し示す対象を失っている。

ただ、

留まれるという事実だけが、

甘く、苦く、黒く、存在している。

誰もが、ここに辿り着くわけではない。

だが、辿り着いた存在は、

戻らなくていい理由を、すでに持っている。

理解は、まだ消えていない。

だが、使われていない。

使われない理解は、

やがて、理解であったことを忘れる。

刃は、振るわれなければ鈍る。

だが、ここでは鈍ることすら、問題にならない。

光は、今日も変わらない。

変わらないことが、

正しさとして保存されている。

そして、その正しさを疑うための言葉は、

もう、ここには置かれていない。

輝く虚空は、

思考を奪わない。

ただ、

思考が必要であるという前提を、

静かに、消していくだけだ。

理解は、まだ動いていた。

だがそれは、前に進むためではない。

崩れるために、最後の形を保っているだけだった。

ネクロスは、自分が何を考えているのか分からない。

考えているという感覚だけが残り、

思考の内容が、どこにも存在しない。

問いはある。

だが、それが問いである理由を、もう説明できない。

答えもある。

だが、それが答えである必然性が、消えている。

理解は、ここで初めて“役に立たなくなる”。

武器にならない。

盾にもならない。

進む理由にも、立ち止まる理由にもならない。

世界は、何も奪っていない。

拒絶もしていない。

ただ、返してこない。

理解してきたはずの構造が、

一つずつ、関連性を失っていく。

神は役割だった。

世界は維持のために存在した。

救済は限界を持つ仕組みだった。

そのすべてが、

「そうだった気がする」という感触に変わる。

確信が、記憶に劣化する。

記憶が、印象に崩れる。

印象が、残滓になる。

願いの残骸は、まだそこにある。

だが、それはもう“共鳴”しない。

沈黙しているのではない。

沈黙する必要がなくなったのだ。

ネクロスは、自分が壊れていることを理解する。

だが、その理解すら、壊れている。

壊れていると分かるから壊れているのではない。

壊れているという理解が、

すでに一周遅れている。

ここでは、

崩壊はイベントではない。

進行形でもない。

完了したあとに、気づくものだ。

世界は、まだ在る。

光も、闇も、存在している。

だが、

それらが「在る理由」を、

もう誰も必要としていない。

ネクロスは、立っている。

立っていると理解している。

それだけが、

かろうじて、残っている。

この段階で、

彼はまだ選んでいない。

だが――

選べなくなり始めている。

【最終章 輝く虚空の偽光神(ルシファー)


光が、先にあった。

意味よりも、理解よりも、存在よりも早く。

それは闇を切り裂くものではない。闇を否定もしない。ただ、「闇ではない」と名乗ることで、すべてを覆っていた。

ここには、沈降がない。

重さも、圧も、削ぎ落としも存在しない。

世界が手を離したはずの理解が、再び“歓迎”されている。

いや、歓迎されているように見える。

ネクロスは立ち止まらない。

だが、進んでいるという理解も、すでに曖昧だった。

光がある場所では、進行は不要になる。

照らされている限り、存在は正当化されるからだ。

ここでは、魂は処刑されない。

喰われない。

削がれない。

選別すら、行われない。

ただ――包まれる。

光は、等しく与えられる。

善悪を問わず、理解の深浅も問わない。

問いを持つ者にも、問いを失った者にも、同じ温度で、同じ強度で。

それは慈悲に似ている。だが慈悲ではない。

ネクロスは気づく。

この光は、何も解決しない。

ただ、「解決したように感じさせる」。

ここには、神がいる。姿を持つ神。

意志を語る神。救済を約束する神。

だが――その存在は、世界の役割ではない。

彼は、神ではない。

本来、神になるはずの存在ですらない。

神に最も近づいた天使。

理解を持ちすぎ、役割に収まれなかった者。

それでもなお、世界に残ることを選んだ存在。

堕天使。

堕ちたがゆえに、制限から解放されたもの。

神々が理解を止めることで得た安定を、彼は理解を歪めることで乗り越えた。

光が語りかけてくる。言葉ではない。概念でもない。

「分かるだろう?」という感触だけが、直接、存在に触れてくる。

――理解しなくていい。

――考えなくていい。

――苦しまなくていい。

奪われたはずの“理由”が、

ここでは、簡単に返却される。

ネクロスは知っている。

これは救済ではない。理解を止めさせるための光だ。

魂喰神(ハデス)は、喰うことしかできなかった。

だから、理解しすぎた魂を処刑できなかった。

だが、この光は違う。

喰わない。

壊さない。

削らない。

――理解を、上書きする。

世界の構造を知ってしまった存在に対し、

「それでもいいじゃないか」と微笑む。

救済の限界を知ってしまった者に、

「限界の先を考えなくていい」と囁く。

それは暴力ではない。

選別でもない。

最も優しい否定だ。

ネクロスの胸の奥で、願いの残骸が、微かに揺れる。

沈黙していたそれが。拒みもしなかったそれが。

ここでは、反応する。

なぜなら、この光は願いを否定しないからだ。

理解も否定しない。ただ、それらを不要にする。

ネクロスは、初めて恐怖を覚える。

それは処刑への恐怖ではない。

消滅への恐怖でもない。

――ここに留まれば、

理解し続ける必要がなくなる。

神になる必要もない。神を理解し続ける必要もない。

ただ、輝く虚空の中で、「分かっている気がする存在」として、安定する。

堕天使は語らない。説得もしない。命令もしない。

光があるだけだ。

そして、光があるという事実そのものが、選択を奪う。

ネクロスは、見上げる。

いや、見上げたと理解する。

そこに、名が浮かぶ。

偽光神(ルシファー)

神ではない。

だが、神よりも多くを知っている存在。

理解を止めなかった者。

同時に、理解を止めさせる術を手に入れた者。

世界は、ネクロスを手放した。

だがここで、世界はもう一度、彼を掴もうとしている。

今度は、光という名の腕で。

――選べ。

理解を続ける孤独か。

理解を手放す安定か。

ネクロスは、まだ答えない。

答えないという理解を、選んでいる。

だが一つだけ、確かなことがある。

この光は、神話よりも優しく、処刑よりも残酷で、沈黙よりも危険だ。

輝く虚空は、堕ちる場所ではない。

堕ちたまま、留まるための場所だった。

光は、説明しない。

説明が必要なものは、まだ理解が残っているからだ。

ここでは、理由は後から生まれる。

納得は、獲得するものではない。

気づいたときには、すでにそこにある。

問いは、発せられる前に形を失う。

疑問は、浮かび上がる前に溶ける。

思考は存在しているはずなのに、

考えているという手応えだけが、先に消える。

誰も、拒んでいない。

拒む理由が、先に与えられていないからだ。

光は、正しい。

だが、その正しさを証明する必要がない。

証明しようとした瞬間に、

その衝動自体が、ここでは無意味になる。

理解は、痛みを伴う。

問い続けることは、摩耗を生む。

世界は、それを知っている。

知っているからこそ、

痛みよりも先に、光を置いた。

答えよりも前に。

問いよりも前に。

存在よりも、ほんの少し前に。

「分からなくていい」

その言葉は、誰にも向けられていない。

だが、すべてに行き渡る。

ここでは、思考は進まない。

止まってもいない。

ただ、薄くなる。

深く考えようとするほど、

考えているという実感が遠ざかる。

理解しようとする行為そのものが、

ここでは、浮いて見える。

浅い。

確かに、浅い。

だが、それを問題だと感じるための深さが、

もう、残っていない。

光は、選ばない。

善も悪も、価値も意味も、

等しく包み込む。

選ばないから、拒否されない。

救済ではない。

処刑でもない。

肯定ですらない。

「そのままでいい」という状態が、

世界として固定されている。

変化しないことが、安定として保存されている。

ここでは、堕ちる必要がない。

堕ちたという認識すら、必要ない。

堕落という言葉が、指し示す対象を失っている。

ただ、留まれるという事実だけが、甘く、苦く、黒く、存在している。

誰もが、ここに辿り着くわけではない。

だが、辿り着いた存在は、戻らなくていい理由を、すでに持っている。

理解は、まだ消えていない。

だが、使われていない。

使われない理解は、やがて、理解であったことを忘れる。

刃は、振るわれなければ鈍る。

だが、ここでは鈍ることすら、問題にならない。

光は、今日も変わらない。

変わらないことが、正しさとして保存されている。

そして、その正しさを疑うための言葉は、もう、ここには置かれていない。

輝く虚空は、思考を奪わない。

ただ、思考が必要であるという前提を、

静かに、消していくだけだ。

理解は、まだ動いていた。

だがそれは、前に進むためではない。

崩れるために、最後の形を保っているだけだった。

ネクロスは、自分が何を考えているのか分からない。

考えているという感覚だけが残り、思考の内容が、どこにも存在しない。

問いはある。

だが、それが問いである理由を、もう説明できない。

答えもある。

だが、それが答えである必然性が、消えている。

理解は、ここで初めて“役に立たなくなる”。

武器にならない。

盾にもならない。

進む理由にも、立ち止まる理由にもならない。

世界は、何も奪っていない。

拒絶もしていない。

ただ、返してこない。

理解してきたはずの構造が、

一つずつ、関連性を失っていく。

神は役割だった。

世界は維持のために存在した。

救済は限界を持つ仕組みだった。

そのすべてが、「そうだった気がする」という感触に変わる。

確信が、記憶に劣化する。

記憶が、印象に崩れる。

印象が、残滓になる。

願いの残骸は、まだそこにある。

だが、それはもう“共鳴”しない。

沈黙しているのではない。

沈黙する必要がなくなったのだ。

ネクロスは、自分が壊れていることを理解する。

だが、その理解すら、壊れている。

壊れていると分かるから壊れているのではない。

壊れているという理解が、

すでに一周遅れている。

ここでは、崩壊はイベントではない。

進行形でもない。

完了したあとに、気づくものだ。

世界は、まだ在る。

光も、闇も、存在している。

だが、それらが「在る理由」を、もう誰も必要としていない。

ネクロスは、立っている。

立っていると理解している。

それだけが、

かろうじて、残っている。

この段階で、

彼はまだ選んでいない。

だが――

選べなくなり始めている。

ネクロスは、存在している。

存在していると、分かっている。

だが、その理解が、いつから成立していたのかを思い出せない。

始まりがない。

終わりもない。

区切りが存在しないため、「今」がどこにあるのかを示せない。

ここは、暗くない。

だが、明るいとも言えない。

光はある。

しかし、光源がない。

照らされているという事実だけが先にあり、

何が照らされているのかは、後回しにされている。

ネクロスは、周囲を見ようとする。

だが、見るという行為が、何を目的としていたのかを思い出せない。

対象がない。距離がない。

焦点を合わせる理由が、存在しない。

それでも、「見えている気がする」という感触だけが残る。

動こうとした。だが、動く前と後の差異が、どこにも発生しなかった。

進んだのか、留まったのか、その判断を下す基準が、最初から与えられていない。

時間は流れているはずだ。

だが、流れていることを証明する変化がない。

変化がないという事実すら、比較対象を失っている。

考えようとすると、考えているという感覚だけが、先に立つ。

何を考えているのかは、少し遅れて、欠落している。

問いは浮かぶ。

だが、それが問いである理由を、

誰も定義していない。

答えも、すでにそこにある気がする。

だが、それが答えである必然性を、もう確認できない。

ネクロスは、自分が安全かどうかを判断できない。

危険がないからではない。

安全という概念が、ここでは機能していないからだ。

不安は生まれない。

安心も生まれない。

どちらも、必要とされていない。

存在は、続いている。

だが、続いている理由が、説明される予定がない。

予定がないものは、待つことができない。

待てないものは、希望にならない。

ネクロスは、まだ壊れていない。

だが、壊れていないことを確認するための構造が、すでに、どこにも見当たらなかった。

光は、満ちる。

差し込むのではない。届くのでもない。

最初から、そこに在ったかのように、「不足」という概念だけを消し去る。

ネクロスは、それを拒めない。

拒む理由が、すでに光の中で溶けている。

あたたかい。

だが、温度ではない。

安心する。

だが、感情ではない。

「大丈夫だ」という結論だけが、前提をすべて追い越して、先に成立する。

光は、説明しない。

正しさを主張しない。

ただ、理解する必要がなくなった状態を、完成形として提示する。

ネクロスは、思考を探す。

だが、探しているという行為そのものが、

すでに過剰だった。

光の中では、問いはノイズになる。

なぜ、ここにいるのか。

なぜ、進んできたのか。

なぜ、理解し続けてきたのか。

それらはすべて、「そこまでしなくていい」という一文に、静かに圧縮される。

苦しみは、否定されない。

悲しみも、誤りではない。

ただ――

続ける必要がないとされる。

それは、救済に酷似している。

だが、救済には必ず「向こう側」がある。

この光には、向こう側がない。

あるのは、ここで完結できるという感触だけだ。

ネクロスの中で、理解が、形を失い始める。

壊されているわけではない。

忘れさせられているわけでもない。

使われなくなっている。

刃は、振るわれなければ鈍る。

だがこの光は、刃を必要としない世界を提示する。

切らなくていい。

抗わなくていい。

疑わなくていい。

「分かっている」という状態だけが、

結果として残る。

それが、どれほど浅い理解であっても。

浅い、という評価すら、ここでは成立しない。

深さを測る物差しが、すでに光に溶けている。

ネクロスは、気づく。

これは堕落ではない。

逃避でもない。

最短距離だ。

理解し続けることでしか辿り着けなかった場所を、

理解を手放すことで、

即座に完成させる。

希望だ。間違いなく。

だがそれは、

「これ以上、壊れなくていい」という希望だ。

壊れなくていい、ということは、壊れる可能性も、同時に失うということだ。

変わらなくていい。

選ばなくていい。

決断しなくていい。

その優しさが、

世界を固定する。

ネクロスは、自分が崩れていることを、まだ知っている。

だが、崩れているという理解が、光の中で、ゆっくりと平坦化されていく。

山が削られるように。

谷が埋められるように。

突出していた思考が、

なだらかな納得に変換される。

偽りの光は、破壊しない。

完成させる。

未完成であること。

問い続けてしまうこと。

理解してしまったがゆえの不安定さ。

それらすべてを、「もう十分だ」という形に整える。

希望は、前を向かせるものではない。

ここに、留まらせるものだ。

ネクロスは、まだ沈んでいない。

だが――

浮かぶ必要も、もう、なくなり始めている。

偽光は、崩壊への近道だった。

そして近道とは、途中の景色を、すべて不要にする道のことだ。

輝く虚空は、今日も変わらない。

変わらないという事実だけが、完璧な希望として

――静かに、流れ込んでいた。


【ex.終わらぬ世界で啼く思考】


私は、まだ羽ばたく理由を覚えている。

黒い羽が闇に溶けるとき、そこに意味はない。ただ、落ちきらないための動作が、習慣として残っているだけだ。

光は遠くにある。だが、拒むほどの距離でもない。

近づけば温度がある。触れれば、理解しなくていい理由が与えられる。

それを、私は知っている。


下では世界が回っている。

回っているように見えるだけかもしれない。

それでも、見ているという感覚が消えない限り、私はここに留まる。

啼くことはしない。

啼けば、それは意思になる。

意思は、世界に拾われる。


光は優しい。

優しすぎて、問いを必要としない。

問いを持たない存在は、壊れない。

壊れないということは、変わらないということだ。

それを救いと呼ぶなら、世界はよくできている。


私は、かつて考えていた。

なぜ理解は痛みを伴うのか。

なぜ知ることは、孤独を呼ぶのか。

答えは単純だった。

世界は、知りすぎる存在を想定していない。


それでも私は、見てしまった。

世界が維持されるために、どれだけの思考が沈められ、どれだけの疑問が光に溶かされたのかを。

だから私は、ここにいる。

光のすぐ外側。

拒絶せず、受け入れもせず、ただ――観ている。


啼かない鴉は、不吉ですらない。

ただの影だ。

影は、光がある限り消えない。


記録開始。


対象:世界。

状態:継続。

変化:観測可能範囲において、なし。


光は安定している。

救済機構は正常に稼働。

思考の沈静化、完了率は高い。

問いは発生するが、定着しない。

定着しない問いは、問題にならない。


観測者は介入しない。

介入の必要性は確認されていない。

理解を深める行為は、対象の安定性を損なう可能性があるため、推奨されない。


黒い影が、上空を通過する。

啼かない。

記号化不可。

役割未定。


対象世界は、今日も終わらない。

終わらないことが、成功条件であるため。


思考は存在する。

だが、思考しているという自覚は薄い。

自覚の欠如は、幸福と誤認される傾向がある。

誤認は修正されない。

修正は、変化を伴うため。


光は引き続き、すべてを等しく照らす。

照らされている限り、存在は正当化される。

正当化された存在は、理由を必要としない。


啼き声、未検出。

異常なし。


記録を続行する。

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