第1話 ~精通~
小学6年生の好太郎は、ダボダボに弛んだノースリーブシャツから、その両手を大きく伸ばした。彼が寝ている色褪せた畳からは、その繊維が何本も飛び出している。おもむろに好太郎はその上体を起こし、周囲を見渡す。しかし、その部屋にあるのは破れた障子と、ちゃぶ台の上に置かれたスパイクシューズだけだった。そこに楽しめるだけのものが何一つ無いことに気付いた好太郎は、深いため息と共に、再び畳に倒れ込んだ。
彼は、ひどく退屈していた。
うだるような熱気。プロペラを四角い網で覆った扇風機。そのシチュエーションはまるで、昭和時代の子供さながらだったが、この時、時代は西暦4026年であった。
好太郎はまた一つ、大きな欠伸をした後で瞼を閉じた。蝉の声が部屋の中にこだましている。最大角度まで達した扇風機の首が、ギギギと内部で何かを引っ掻く。大きく割れた風鈴が、チン、とだけ音を鳴らす。数々の音が蒸し暑い夏を奏でる中、好太郎は汗を垂らしながら、ただ時が過ぎるのを待った。
一定周期で訪れていた扇風機の音が曖昧になってきた頃。好太郎の意識の片隅に、奇妙な音色が潜り込んで来た。それは何だかモスキート音のようにも聞こえ、沸騰したやかんの音のようでもあった。好太郎は周囲の環境音と相容れないその音源の正体に多少の疑念を感じつつも、結局はそれを耳鳴りと捉え、目覚めることはなかった。間もない内に好太郎はまた、深い闇に吸い込まれていった。その時だった。
「ギャーーー!ギニャーーー!!」
好太郎は瞼を大きく見開き、勢い良くその上体を起こす。
間違いなく、それは猫の鳴き声だった。
1回や2回の話ではない。潰れるようなその叫び声は、今、当に、現在進行系で発音され続けていたのだ。
好太郎は、体を震わせた。
ようやくだ。
ようやく、やってきたのだ。
そう、それは繁殖期。
発情した猫が、つがいを求めて争う愛の季節。
―――『彼らを、蹴り上げたい!』
好太郎はスパイクシューズを後ろ手に掴むと、鍵も閉めずに玄関を飛び出していった。
◇◇◇
遠くに、波紋が浮かんでいる。川は一面オレンジ色に輝き、猫が吸い込まれた地点だけが、僅かに銀色の煌めきを残している。
「おーい!コゲ息子ー!」
「キャーハハハ!」
同心円状に広がる楕円が、川上から流れる走査線に上書きされた時、浮ついた呼び声が、好太郎を振り向かせた。河川敷の堤防の上に、ランドセルを背負った同級生達のシルエットが見える。
好太郎の家庭は、貧乏だった。彼らの呼び声、コゲ息子の由来は、焼身自殺した好太郎の父親から来ている。
「……」
普段であれば、砂利や石を投げつけられる所だが、流石に距離が遠いと見たのか、もう3回ほど罵詈雑言を投げかけた所で、無反応の好太郎に飽きた彼らは背中を向けて歩き出した。
「もういいよ!おい!帰ってケーペックスレジェンズやろうぜ!」
「いいね!トリオ出撃な!」
デジタル小動物蹴り上げが主流となったこの時代。KS5(蹴り上げステーション5)すら買うことのできない好太郎が周囲に馴染めることはなかった。夕暮れの太陽が、同級生の姿をその輪郭の内側へと飲み込んでいく。
青暗い世界の中、好太郎の姿だけが一人、藪の中に取り残された。
だが、好太郎は何も感じなかった。
どれだけ一人になろうと、誰から馬鹿にされようと。
好太郎の人生は全て、小動物の蹴り上げの為にあった。
猫の悲鳴、腹の感触、足の重さ。
好太郎は、猫を蹴り上げることさえ叶えば、それだけ幸せだったのだ。
◇◇◇
西暦4000年。繁殖しすぎたペットを間引くため、国を挙げて小動物蹴り上げ(ケー・スポーツ)が制定された。ケー・スポーツは、健康促進や、生命の尊厳を無視するプロセスに客観的な視点が求められることから、情操教育にも良いとされた。
「昨日は、仔犬を線路に蹴り飛ばしてやりましたわ!」
「ワハハハハハ!」
コメンテーター、芸人、果ては政治家までもがその効能について述べた。その都度、Kリーグ(小動物蹴り上げリーグ)、世界大会、オリンピック採用と、ケー・スポーツはますます勢い付いていった。
「小動物蹴り上げ、サイコー!」「蹴り上げ専用ペットショップ開店!」「夏は家族で蹴り泣き!」
20年に渡り栄華を誇ったケースポーツ。だが、その勢いは5年前を境に、唐突に下火となった。小動物個体の急激な減少だ。問題は、小動物の蹴り上げに依然として莫大な人気があった点だ。蹴り上げたいのに、その対象がいない。全世界は深く悲しみ、やがて怒りに包まれた。動かない政府に対しデモが起き、世界各地でテロが多発した。抗議のため、自分の喉仏を蹴り上げ自殺する者も後を絶たなかった。
しかし、その需要の受け皿となったのが、「デジタル・ケー・スポーツ」であった。
4021年。「リーグ・オブ・蹴レジェンズ」が発表されて以来、世界は熱狂の渦に包まれた。
「おぉっとぉ!SKT 、Keria(蹴り上)選手によるペンタ蹴りだぁ~~~っ!!」
どこでも小動物を蹴り上げることができる利便性。よりエキサイティングな蹴り上げビジュアル。現実を超過した蹴り上げ体験。
小動物の蹴り上げ不満によるストレスを抱えた現代人に、そのコンセプトは鋭く刺さった。
老若男女、ほぼすべての世代がデジ蹴りへとシフトチェンジした頃。本物の小動物を蹴り上げるのは、一握りの人間だけとなった。
◇◇◇
教室には給食の匂いがまだ微かに漂っていた。外からは、かけっこをする他生徒の笑い声がガラス越しに伝わってくる。
好太郎は端の座席で一人、上履きの表面に、何度も昨日の猫の姿を思い浮かべてはニコニコと微笑んでいた。
『ばんっ』
本日、250回目のシミュレーション。靴と猫の間に生じる音エネルギー。目を閉じ、その情景を思い浮かべる。
『ばんっ』
脊髄を伝う快楽信号に身を委ねる。足の小動物蹴り上げ筋が、血流を増加させる。
ばんっ!!!
突如、想像していたより遥かに鈍い音が、衝撃とともに好太郎の背後から鳴り響いた。上半身が前方につんのめり、行く手の机が音を立てて倒れる。
「好太郎!テメーだろ、ふざけたことしやがって!」
好太郎は、逆向きになった机の足にしがみついて上体を立て直す。背後を振り向くと、昨日の同級生達が腕を組み彼を見下ろしていた。そこで初めて、僕は背中を蹴られたのだと自覚した。
「……」
始めは、またいつものか、と思った。
鬼ごっこに飽きた彼らが、暇潰しついでに僕へ向ける幼稚な悪意。先生が来るまでは大人しくしてよう。そう思った。
「何とか喋ったらどうだよ!」
「そうだぞ!犯罪まがいの事しやがって!」
だが、今日の彼らは少し、様子が違った。身振り手振りで何かを表現し、しきりに彼を非難しているようだった。少なくとも彼らは、何かに怒りを感じているようだったが、当の好太郎には何も身に覚えがない。
「……僕が何か、しましたか。」
「しらばくれやがって!」
いじめっ子が拳を振り上げた。しかし、それと同時に、彼らの背後から、甲高い女子の泣き声が聞こえてきた。
「えーん、えーん。」
細い筒を抜けて通るような、甲高い女の子の泣き声。
なぜだかその声を聞いた瞬間、好太郎の背筋はびくりと跳ね上がった。
「蹴り上げ嬢が泣いちゃったじゃねえかよ!」「どうしてくれんだ!」
「わたしの、わたしのミィを返してよぉ!」
女子が叫ぶと、クラス中の目線が1カ所に集まる。
真っ白なセーラー服に、艷やかな黒髪。その前髪はぱっつんで、後ろ髪はすらりと背中まで延びている。高級感あふれるブレザーには、高そうな金色のワッペンが刺繍されている。小学生にしては整い過ぎたその身なりが、寧ろその幼い言動とのギャップを際立たせていた。
好太郎はただ、棒立ちした。
無意識のうちに、彼の目線は自然と彼女の顔に引き寄せられていく。
なんだろう、あの生き物は。
彼女はどうみても人間であったが、この時なぜだか、好太郎はそんなことを思った。
「お、お嬢!ここは俺たちに任せて……!」
「どいて!」
蹴り上げ嬢。好き太郎は見たことがあった。小学校に存在する、上級生徒用の特別クラス。その身なりから、彼女がそこに通う他のクラスメイトであることまでは理解できた。だが、高まるその鼓動の正体までは、未だ理解することができなかった。
「アンタが、アンタが殺したんでしょ!」
蹴り上げ嬢と呼ばれる女の子は両手で涙を拭ぎ払うと一転、怒った顔で好太郎に詰め寄った。顔が近付くにつれ、彼女の表情にピントが合う。好き太郎の瞳は収縮し、同時に、彼は思わず胸を押さえた。両手に鳥肌が立ち、先の脳内シミュレーションの何杯もの神経物質が体中を駆け巡った。
心臓が、彼の胸を内側から打ちつける。
ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク
好太郎の全身に汗が滲む。呼吸が乱れる。
「おい!何ぼーっとしてんだよ!」
「何とか言えよ!このコゲ野郎!」
―――似ている。
眼の前の彼女は、半分泣き顔で、つり目気味で、口は僅かにすぼんでいて、そして、何よりも身長が小さかった。
彼女との顔の距離、10cm。
好き太郎は、ようやくその事実を悟った。
―――まるで、小動物みたいだ。
「あああああああっ!あああああああああっ!!!!」
好太郎は絶叫と同時に、右足を振り上げた。等高に揃えられた女の子の前髪が、風圧でふわりと持ち上げられる。
パァンッ!!!!
一瞬後に、音が遅れて空気を裂いた。
あまりの素早さに、その場の全員が、何が起こったのかを理解できないでいた。
クラスメイトの全員が、実に7秒もの間、ただ、その場に無言で立ち尽くした。そしてその間、彼らは瞬きもなしに、ある一点を見つめ続けていた。
天に向けられた好太郎の足。
その側面を覆う好太郎の小動物蹴上筋は、ぴくぴくとグロテスクに脈打っていた。
好太郎、小学6年生。
蹴上筋のパンプアップ。いわばそれは―――精通であった。
目前に聳え立つ好太郎の脚。
女の子は、力なく床に尻もちをついた。
その場の全員が、自発的に呼吸始めるとようやく、顔中を汗で覆ったいじめっ子が口を開く。
「ほ、ほらな、嬢!言っただろ?昨日アイツが猫を川で蹴り上げてたんだよ!!」
「しかも、今の蹴り上げ、間違いない!嬢の猫を蹴り殺した犯人は好太郎だぜ!なぁ、嬢!」
いじめっ子達は、震えた声を絞り出し、彼女に話しかける。
だが、彼女の耳に、彼らの声は届いていなかった。
彼女は目を見開き、未だ垂直に開脚される好太郎の右足を見上げ続けていた。
「―――すごい。」
彼女は、思わず呟いた。
「この足があれば、狙えるかも。『優勝』―――。」
つづく




