第09話 微かな声
霞陽が、丘を照らしていた。
光は柔らかく、音も熱も持たず、それでも確かに全てを包み込んでいた。
その中で、白衣の女——高峰玲がついに動きだした。
空気が、地面が、ぐずりと軋んだ。“何かが腐る音”がした。
肇の足元の草が、乾いた音を立てて黒く萎れていく。
「……来るか」
肇が僅かに槍の柄に指を添えたとき、高峰が正面から一直線に、肇に向かって腕を伸ばしてきた。
まるで祈りの手をそのまま突き出すように、無言のまま。
──やっぱり、もう届かねぇのか。
肇はわずかに後退し、身をずらしながら、拾い上げたボロボロの木片を高峰に優しく投げつけた。
高峰の指先に触れた木片が、一瞬で白化し、崩れた。
「霞陽の下で、このレベル。日中なら……触れられずとも、朽ち果ててたかもしれねぇな」
高峰玲の奇跡───《レゾナンス・グレイン》。
丘に向かう前に村長から教えてもらったその奇跡。
本来は土地に生命を与える力。
だが今は、“存在するものを死に導く力”として、ねじれていた。
「……お前はもう、人の心を持ち合わせていないのか」
肇の問いかけに、返答はない。
高峰は静かに、もう一度、こちらへ歩を進める。
彼女が近づくたびに、肇の足元の草が、また一輪、枯れ落ちる。
アランが後方で身構えるのが気配で分かった。
しかし、アランは肇を信じ、武器を手に取らず待機している。
リセルは息を詰め、双眼鏡を握る手が震えている。
誰もがこの場の重みを、静かに背負っていた。
肇は、それでも、槍を完全には抜かなかった。
「高峰玲……」
その名を呼ぶと同時に、
──微かに、何かが、肇の耳に届いた。
「……すけて……」
「……たすけて」
風にまぎれて、掠れた声が肇の耳に触れた。
どこか遠く、深い淵の底から引き上げられたような、壊れかけた声。
肇の目が、ほんのわずかに見開かれる。
その声は、確かに、高峰玲のものだった。
彼女の瞳は虚ろだった。焦点の合わないその目は、空ではなく、どこか遠い夢の世界をみているのかもしれない──それでも確かに、その声は魂の奥から響いていた。
「……聞こえてるか。だったら、戻ってこい。
必ず俺が救い出してやる」
その声が、彼女の中の何かに届くかどうかは、まだわからなかった。




