第04話 紫紺に染まる依頼書
大男が現れてから二日後のこと。
その音は、あまりに唐突だった。
──がらん。
それは金属が揺れて、落ち着くまでの小さな衝突音。
長らく空虚だった空間の中で、最も異質な音だった。
羽沢肇は、椅子から半身を起こした。
その拍子に膝に乗っていた猫が驚いて飛び降り、棚の上へ逃げていく。
「……今の、まさか」
「……いや、そんなはず……」
アーガスの声にも、にわかには信じられない気配があった。
二人とも音の正体を知っていた──依頼箱の投函音だ。
ギルドにおける依頼箱とは、外部からの依頼を受付けるための唯一の窓口であり、ギルド本部を通した正式なものと、個人から直接届く“独立依頼”の両方を遠隔で受け取るための装置だった。投函箱の内部に刻まれた魔導印が生きていれば、遠隔地からでも依頼が転送され、箱の中に“実体化”されて届く仕組みだ。
依頼書には、封蝋の色によって分類がある。
白は「人探しや物資運搬」などの軽依頼。
赤は「魔物討伐」や「護衛」など危険度中程度のもの。
黒は危険度高の、リスクの大きいもの。
そして──紫は「特例」。
即応性を求める緊急案件や、ギルド本部を通さない非公式な“高リスク”依頼にも用いられる。
なお、封蝋の分類は依頼主が決めるものではなく、依頼箱に組み込まれた魔導印が内容を解析し、自動的に色分けを行う。
依頼文に含まれる語彙、表現、場所、対象の特性、過去の類似案件との照合──それらを基に危険度と優先度を演算し、最も適切な封蝋色が付与される仕組みだ。
そのため、依頼主の主観的な“脅威認識”と、実際の分類との間に大きなズレが生じることはほとんどない。
封蝋の色を見た瞬間、アーガスは表情を引き締めた。
数年、いや十年近く見ていなかった色だ。
「……紫封蝋。こりゃまた、物騒な案件が来たな」
アーガスがぽつりと漏らす。
「依頼主は記名あり……村長の名だな。王都南部の“オルベ村”──知ってるか?」
「聞き覚えはある。たしか、まだ魔族の影響が薄い辺境の村だっけ。」
アーガスが封書を開くと、そこには達筆な字で端的な文が並んでいた。
> ◆依頼名:転生者の奇跡暴走鎮圧
> ◆発生地:オルベ村周辺
> ◆内容:村の外れにて、転生者と確認される人物が奇跡を制御できず暴走状態にある。人的被害多数。沈静化または、やむを得なければ排除を要請。
> ◆報酬:5,000ゴールド+実費支給
> ◆特記事項:魔族圏外につき、ギルド対応を希望
「……報酬も、あるにはあるな。悪くない額だ。だが」
アーガスは文書から目を離さずに続ける。
「この“魔族圏外につき”って文面が気にかかる」
「普通なら、圏外といえど魔族団に頼むほうが早いし確実。けど……この依頼は“あえてギルドに依頼した”。そういうことだろ?」
肇が、壁に貼られた地図を指でなぞる。
オルベ村は、確かに魔族団の管轄から外れており、ギルド・ヨスガの方が近い。
民間がどちらの勢力に助けを求めるかは、時と事情によって変わる。とはいえだ。今どきギルドに依頼を、しかも紫封蝋レベルを頼むなんて。
「これを送ってきたってことは、依頼主は“魔族を信じてない”か、“魔族が来るとまずい理由がある”か……だな」
「どっちにせよ、頼れるのがうちみてぇな辺境ギルドって時点で、よほどの切羽詰まりだ」
アーガスは依頼書を丁寧に畳み、深く息を吐いた。
長く眠っていた仕組みが、ようやく一つだけ動いたような感覚。
それは、“ギルドがまだ死んでいない”ことを証明する音だった。
「……受けていいか、マスター?」
肇の言葉は、問いというより“確認”だった。
受けない理由など、最初からない。
──これは、受けねばならない依頼だ。
「肇。お前がこのギルドにいる意味が、問われるかもな」
「あぁ。必ず解決してくるさ。ギルド・ヨスガの一員として」
肇は穂先の磨かれた槍を手に取った。
その重みは、普段よりも少しだけ頼もしく感じられた。
陽光がギルドの天窓から差し込む。
その一筋の光の中で、埃が舞った。
それは、しばらくぶりに“動き出す者たち”を見届ける、朝の景色だった。