第02話 誰の目にも留まることの無いはずのギルドにて
ギルドの扉が、ぎぃ、と最後まで開ききる。
それはまるで、寂れた世界が一度、仕切り直されたかのような音だった。
黒衣の男は、黙ってこちらへと歩を進めてくる。
靴音は重いが響かない。砂を噛むような足取り。武器らしきものは見えないが、背中から染み出す威圧が“兵”としての質を物語っていた。
その場にある空間すべてが、彼の歩調に合わせて呼吸を止めたかのようだ。
「依頼かい?珍しいな……」
カウンターの奥から、アーガスが声をかける。
声は落ち着いていたが、帳簿を握りしめている指先が僅かに震えているのを肇は見逃さなかった。
「冒険者登録じゃねえの?」
肇が皮肉混じりに笑う。
「なわけないだろ」
アーガスがすぐに否定するが、その声はどこか不安を帯びていた。
男は言葉を返さない。
ただ、肇の目の前で立ち止まる。フードの奥から、黄金の光がふたつ、ぎらりと揺らめいた。
目だ。光の質が違う。生き物のものではなく、何か異なる次元から染み出してきたような、底の見えない色をしていた。
「君が──羽沢肇君だね?」
「スカウトならお断りだぜ」
肇は即答した。間も躊躇もなく、軽口のようなトーンで返す。だが、その右足はすでに半歩だけ引いており、いつでも槍を構えられる体勢に入っていた。
黒衣の男は、しばし沈黙したのち──喉の奥で、くぐもった笑いを漏らす。
「ずいぶんと自信家だね。もしかしたら、スカウトじゃないかもしれないよ?」
「そしたら恥ずかしさのあまり、この場からすぐ消えて、家帰ってクソして寝るよ」
肇の口調は飄々としていたが、目だけは笑っていなかった。
肇の軽薄さに紛れた緊張を、大男もまた、正確に見抜いている。
「面白いね」
大男はそう言って、ようやく言葉に芯を込めた。
「でも君は恥をかかない。その通りさ──魔族団への勧誘に来たんだ」
空気が凍りつく。
その言葉の意味を、肇も、アーガスも即座に理解した。
魔王クリシュネの庇護下に入り、“魔族”として登録されること。
それは、国家や一ギルドに属さぬ兵として力を行使する代わりに、依頼・報酬・保護を保証される立場。
同時に、それは“所属”と“主従”を意味した。
自分の人生を、ひとつの旗に預けるという選択だった。
「……肇……」
アーガスが低く呟く。
その声には、焦りや困惑よりも、覚悟が混じっていた。
「──ああ、そうだそうだ、あなたがギルドマスターですね?」
黒衣の男が、ふとアーガスに視線を向けた。
そして懐から、ずしりと重い袋を取り出す。銀の紐で封じられたそれを、カウンターの上へとそっと置いた。
「この中には、100万ゴールドが入っています。
これを受け取って、あなたは黙っていてください。……それだけでいい」
コインが袋の中でわずかに鳴る。
その音は、どこか死体を包む布を撫でるような冷たさを孕んでいた。
肇が眉をしかめて言う。
「マスター………」
アーガスは袋を手に取り、しばらくその重みを確かめるように握った。
が、そのまま黒衣の男の胸元へと押し戻す。
「これは受け取れない」
アーガスの声は低く、だが確かだった。
「確かに、これだけの金があれば……俺のギルドの奴らに腹一杯飯を食わせてやれる。武器も、防具も、店の補修も、なんだってできる。……普通に考えりゃ、下のもんのためを思うなら、これは受け取るべきだ」
アーガスはそこで一度、息を整えるように目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開き──
「俺はな、肇。お前が魔族になることを止めようなんて思っちゃいない。お前が自分で選ぶって言うなら、それが一番大事なことだと、俺は思ってる」
肇もわずかに目を見開く。アーガスは続けた。
「けどな。この金を俺が受け取っちまったら──それはつまり、“羽沢肇を魔族に売った”ってことになる。お前が魔族になることを選んだとしても、売ったのは俺だ。そうなるだろ?」
「……」
肇は何も言わない。アーガスの言葉にただ静かに、耳を傾ける。
「それだけは、俺にはできねぇ。俺が尊重したいのは、お前の意思だ。……お前の“価値”は、俺が決めるもんじゃねぇんだよ」
アーガスは、ほんの少しだけ声を落とした。
「それに──これは俺自身の問題でもある」
アーガスは黒衣の男を見据え、低く言い放つ。
「俺はギルドマスターだ。……たとえ廃れようと、依頼が来なかろうと、誰も見向きしなかろうと……ここは、俺たちが立ち上げた場所だ。寄せ集めでも、弱くても、名前なんかなくても──俺たちのギルドなんだよ。“ギルドの一員を売った”って汚れは、ここに残っちまう。そんなギルドに、次に誰が来てくれる? 俺には俺なりのプライドがある」
その言葉に、大男はほんの僅かに驚いたように見えた。
肇は思わず吹き出す。
「やっぱ、あんた生粋のバカだ」
その笑顔には、諦めも苛立ちもない。ただ、心の底からの敬意が滲んでいた。
「だから惹かれたんだ、俺は」
そして、肇は黒衣の男に向き直る。
「悪いが、魔族になるつもりはない。ご足労申し訳ないが、帰ってくれ」
それは命令でも追い払いでもない。
ただ“それが俺の答えだ”という、一切の虚飾を持たない言葉だった。