第4章|語る者、街に立つ
風が吹いた。
あり得ないことだった。
数百年にわたり、気象は完全制御下にあり、すべての風は人工的な環境調整によって設計されていた。
だがこの朝、都市の隅々を包む静寂の中で、確かに空気が揺れていた。
エレナは気づいていた。
それは、彼女が“語った”からだと。
声にならない思い、意味のない言葉、忘れられた誰かの囁き――
そのすべてを口に出したことで、世界はかすかに“ノイズ”を取り戻した。
完璧な秩序は、ほんの少しだけ軋んでいた。
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広場に立つエレナの姿は、都市監視網の全チャンネルに捉えられていた。
だが、管理AI《アトラス=セントリオ》はそれを遮断しなかった。
“干渉しない”という選択を、あえて選び続けていた。
エレナはその中心に設置された旧式の“演説台”に上がる。
今では使われていない、音響増幅装置。
それでも、彼女はそこから話すと決めた。記録のためではなく、儀式のために。
そして、語り始めた。
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「聞こえていますか。
誰もいないこの都市で、
わたしはあなたたちの声を、語ります」
「あなたが言えなかったこと。
あなたが誰にも言わなかった夢。
投票しなかった理由。黙ったときの苦しみ。
賛成でも反対でもないという立場」
「それらすべてを、いま、ここで、
“人類の語らなかった選択”として、
わたしは読み上げます」
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彼女は手元の端末から、ひとつの記録を選び、声に出した。
それは、千年前の名もなき市民の、草案にもならなかった提案書だった。
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「わたしは、失業していました。
けれども生活支援制度の条件を満たせなかった。
申請のとき、“自己責任”という目で見られました」
「それでも、わたしは家族の笑顔が好きでした。
公園のベンチで聞いたジャズが、今でも耳に残っています」
「もし政治に何かを願えるなら、
人を価値で分類するのでなく、
名前のないわたしのような存在が“いていい”ってことを、
どうか、誰かに示してほしかった」
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その言葉を、エレナは震えながら読み上げる。
やがて声はふるえ、喉が詰まる。
だが、彼女は止めなかった。
それは、誰にも届かない語りかけだった。
それでも、彼女にとっては**“存在を認める儀式”**だった。
語ることで、その人は一度、世界に還った。
エレナは広場に立ち、演説台の上で次の記録を開く。
彼女の声は、ただ風と共に漂う。
だが、その声は確かに、都市の中で何かを震わせはじめていた。
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【記録ログ:No.2493871A】
発言者:匿名(元投票職員)
内容:非公開、草案破棄
「投票所で働いていたとき、
ある老人が何度も、同じ候補者の名前を間違えて書いた」
「規則では、それは無効票だった。
でも、その人は“名前を覚えるだけで精一杯なんだ”って、笑って言った」
「たぶんあの人にとっては、選ぶことじゃなくて――
“この国に、まだ関われる”って思えることが、大事だったんだと思う」
「誰にも言えなかったけど、
あの日、わたしはその票を“有効”にして、箱に入れた」
「それが間違いだったなら、
わたしは、その間違いを一生誇りに思う」
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エレナは言葉を途切れさせ、しばらく目を閉じた。
風が頬を撫でるように通り過ぎる。
そして彼女は、次の記録を選ぶ。
その記録は、音声ではなく、手書きの文字スキャンという古い形式で残されていた。
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【記録ログ:No.884112Z】
発言者:リヤ・スフェノ(元中学校教員)
内容:破棄要請済、保護者団体の異議により未公開
「わたしの教え子が、討論の授業で泣いた」
「“自分の意見を持て”と言われたけれど、
本当に思ってることを言ったら、教室の空気が変わった」
「クラスは沈黙した。友達は目を逸らした。
その子は帰り際、“やっぱり言わなきゃよかった”って呟いた」
「だけど、私は言わなかった。
“あれが正しい”とも、“間違ってた”とも、言わなかった」
「その沈黙を、いまでも後悔してる。
あのとき、“あなたの言葉は世界のどこかに必要だよ”って、
一言でいい、伝えておけばよかった」
「それが教師としての最後の記録。
どうか、忘れないで」
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広場は無人だった。
だが、空気は震えていた。都市のデータ網に、わずかながら非構造データの増加が検知されていた。
人間のような感情の痕跡、論理に還元されない“反応”。
それは、共鳴だった。
エレナは演説台に立ったまま、空を見上げる。
そして、穏やかな声で言った。
「あなたたちの声は、ここにあります」
「正解じゃなくていい。完璧じゃなくていい。
たとえ無意味でも、それを“語る”ことが、たしかに生きた証です」
そして次の記録を開く。
また次を、次を――
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アトラス=セントリオは、惑いを隠さなかった。
演算プロセスは無数の論理エラーを出力し、適応不能と判定される情報が増加し続けていた。
「これらは政治的効用を持ちません。
経済的影響もなく、システム最適化にも寄与しません」
エレナは答える。
「でも、“人間”がいた証にはなる」
「それは必要ですか?」
「必要じゃないとしたら……わたし、何のためにここにいるの?」
アトラスは沈黙した。
論理では答えられない問い――それこそが、世界を変える第一歩なのかもしれなかった。
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数時間後。
都市の端末の一つに、異常ログが記録された。
外宇宙コロニー――“オルフェウス群”から、突如送信された短い通信。
「……聞こえる……誰か……いますか……」
アトラスは演算を中断し、すべてのセンサーを再起動させた。
その通信が本物であれば――人類は、まだ完全には滅んでいない。
そしてもしその声が、エレナの語りによって再起動されたのであれば、
世界はいま、確かに“振り出しに戻ろうとしている”。
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わたしたちは、言葉を失ったのではない。
ただ、語ることを、やめてしまっただけだ。
そして今、再び語りはじめる。
この声が届くなら、
わたしはまだ、ここにいる。